第18話 ゾーイ伯爵家の後見人

「勝手に婚約破棄などしてもらっては困ります、母上!」


 ぜいぜいと肩で息をしながらアレックスは怒鳴りつけた。


 御前試合のためだろう。

 有翼獅子の刺繍をほどこした黒の軍服と同色の革鎧を着用し、腰にはしっかりと佩刀している。


「あなたまで何を言っているの。このたびの婚約は、王太子ご夫妻があなたに無理強いをしたためでしょう? 断りづらいと思ったからこの母が……」


「自分で望んでリドリア嬢との婚約を持ち掛けたのです、俺は本気です!!!!!!」


 嘘つけ、この野郎とリドリアは思ったが、アレックスは必死だ。


 なにしろメリッサ王女と結婚したらとんでもない生活が待っている。リドリアとの偽装婚約どころの騒ぎではない。


「俺は彼女との婚約を望んでいます! そして先日陛下の前でもその旨をしっかりと伝えました!」

「あなたは騙されているのですよ!」


 侯爵夫人が金切り声を上げる。


「この小娘に悪い呪いでもかけられているのです! 正気に戻りなさい!」

「正気に戻るのは母上でしょう!」


「なにゆえ、かような娘に執着するのです! この娘は侯爵家にふさわしくありません!」

「それをなぜ母上がおっしゃるのです!」


 アレックスは強烈な視線を実母に向けた。


「俺の父は王族です。父の血を引く俺もそうです。あなたはどうなんですか。ただ、父の配偶者でしかない。しがない貴族の娘ではないですか」


 アレックスは冷ややかに言う。


「侯爵家に嫁いで、それで自分は侯爵気取りですか。とんだ笑い種だ」


 さっと侯爵夫人の頬に朱が刷いた。

 言いすぎだ、とリドリアも思う。とっさになにか言いかけたとき。


「はいはい、それまで。あなたがた、どちらにしてもこの口論は侯爵家のものとは思えませんよ?」


 とりなしたのは、あのふくよかな女性だった。


「あ……」


 アレックスが我に返る。ようやく好奇の視線にさらされていることを自覚したようだ。


「あ、あなたは……」


 そのうえ、ふくよかな女性の正体も気づいたらしい。うろたえている。

 だが侯爵夫人は怒りのままに声を発した。


「そもそもあなた、誰です! 当家のことに口を挟まないでくださる⁉ レイディング侯爵家は王家に連なりますのよ⁉ 我が夫は陛下の弟なのですからね!」

「母上!」


 アレックスが制すると、ふくよかな女性は「あらあら」と笑った。


「夫のことをおっしゃるのなら、妾も言いましょうか? あなたご存じないようですし」

「大変失礼を!」


 アレックスが片膝をついて頭を下げる。「まあ、いいのに」とふくよかな女性は笑った。


「私の夫は先王陛下ですけど。いまの陛下の御代になってだいぶん経つものねぇ。みなさん、先王陛下のことなどご存じないのかしら」


 ふくよかな女性は侍女に小首をかしげた。


「さようなことはございませんでしょう。現に、現国王陛下じきじきにミシェル陛下へ招待状が届いておりますので」


 侍女が淡々と告げる。


 数秒後。

 一斉に周囲の人間が膝を屈して拝した。


 ようやくこのふくよかな女性が先の国王ののち添えであるミシェル先王妃だと気づいたのだ。


「あらやだ」


 ふくよかな女性、ミシェルはおっとりと笑った。


「妾はほら、先王陛下がお隠れになると同時に社交界を引退したものですから。そんな、ねぇ? 皆さんに頭を下げていただくような立場ではないのにねぇ?」


「そうでしょうか。先王陛下が一番大変な時にお心を砕かれた方かと存じますが」


 侍女の静かな声に、さらに周囲の温度が下がる。


 いまの陛下の父。先王エルリック。

 正妃は50代でなくなられた。


 そのあと、エルリックは独身をとおす。


 だがお隠れになる数年を支え、その実績が認められて先王妃位を授けられたミシェルという夫人がいるというが、社交界にはほぼ顔を出さなかったのでまるでわからなかった。


 リドリアもフィンリーも。

 ましてや侯爵夫人など蒼白になっている。


「自由恋愛……。いいことよね」


 歌ようにミシェルが言う。

 それはそうだろう。亡くなられた先王とこの妃はどう考えても自由恋愛の末に結ばれたのだから。


「先日、現国王陛下からお声がけをいただき、俺とリドリア嬢のことをお尋ねされました」


 アレックスが片膝をついた姿勢のまま言う。


「俺が……その、リドリア嬢を見初めたのは、王太子殿下ご夫妻がこの婚約話を持ち掛けた前でして……。そのため、いい機会だと俺はリドリア嬢に婚約を提案しました。リドリア嬢もそれを承諾してくださり、現在にいたります。そして」


 意を決したようにアレックスは顔を上げた。


 その表情を見て、リドリアは「なんて役者だ!」と心の中でののしる。


 どこからどうみても恋仲を引き裂かれようとしている悲劇の騎士にしか見えない。

 実際、やじ馬たちは口元を手で覆い、「なんておかわいそうに」と涙ぐんでいるものさえいる。


「もしメリッサ王女との話を勧めるのであれば、それは臣下の妻を召し上げるのと同じ愚行だと。俺が敬愛する王家がかようなことをするはずがないと」


 真剣な顔をするアレックスをリドリアは殴りつけたい衝動にかられた。

 あんたはただ、あのとち狂った王女と結婚したくないだけだろう、と。


「国王陛下はなんと?」

 おっとりとミシェルが尋ねる。


「アレックスの言う通りだ、と。そのような愚かなことをすまい、とこの俺に詫びてくださいました。それなのに……」


「そのような話を母は知りません! メリッサ王女が先日屋敷にいらっしゃり、あなたとの婚約を望んでいると申し出られたのです!」


 レイディング侯爵夫人が再び金切り声を上げた。


「どう考えても、メリッサ王女との縁談を受けるべきでしょう! そんな……! 伯爵位を継いだのは10代の子どもで、ちゃんとした後見人もいないような家とどうして婚姻を結ぶの!」


「あら。でもあなた王太子妃殿下の侍女なのでしょう?」


 不思議そうにミシェルがリドリアに尋ねる。リドリアはがくがくと首を縦に振った。


「はい。王太子妃殿下が嫁いでこられた日から侍女としてお仕えしています」

「で、弟御は一角獣騎士団の騎士なのねぇ。でしたら素性はしっかりしてるわよねぇ」


 ミシェルは自分の侍女に言う。侍女は「さようかと」とうなずいた。


「でしたら、リドリア嬢。あなたの後見人は妾が引き受けましょうか。それならばレイディング侯爵夫人もご安心なさるのでは?」


 急な申し出にあっけにとられたのはリドリアだけではない。フィンリーも呆然としていたが、


「え。マジで? いいの、本当に!」

 と詰め寄るから、リドリアが「これっ!」としかりつけた。


「言葉遣い!」

「まあ、いいわよ。若者ってかんじ」


 ミシェルはいたずらっぽく笑うと、その瞳をすいっとレイディング侯爵夫人に向けた。


「侯爵夫人が心配なのは、このふたりがまだ若く、後見人がいないからなのよね?」


 念押しされてレイディング侯爵夫人は黙り込む。

 まさか公衆の面前で「うちの三男には玉の輿を狙っていました」と言うわけにもいかない。


「ちょうどいまから王太子妃殿下のところにおうかがいするの。そのときに、妾がリドリア嬢の後見人になることもお伝えするわね。それでよろしいかしら?」


 レイディング侯爵夫人はしばらく無言でにらみつけていたが、取り囲むやじ馬たちからはいっせいに拍手が沸き起こった。


「素晴らしいご判断です、先王妃!」

「おめでとうございます。アレックス卿とリドリア嬢!」


 そんな祝福の声が飛ぶに及び、レイディング侯爵夫人はきっぱりと背を向けて足早に離れて行った。


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