第9話 お前の真実

 同時にリドリアの目から大粒の涙がいくつもこぼれた。


 悔しい。


 自分は被害者のはずなのに。

 自分は攻撃を受けたほうなのに。

 それなのにどうしてまた追撃されねばならないのだ。


 さらなる恥をかかされるのだ。

 リドリアは頬を流れる涙を指でぬぐい、鼻をすする。


 こんな顔で王太子妃の前には行けない。

 しばらくほとぼりを冷ましてから王太子妃のそばにいかなくては。


 いったん王宮の控室に戻り、化粧をなおそうか。

 そう考えたリドリアの視界のすみで、エイヴァンがアレックスに話しかけている姿が目に入った。


 じり、と心の中でまた怒りの炎が燃え上がる。 


(勝手に言えばいい)


 どすどすと足音荒くリドリアは王宮の建屋に向かう。

 もちろんふたりが話している声は聞こえない。だがエイヴァンが親切そうな顔と心配そうな声音でアレックスに「自分が聞いた本当の話」をしているのが容易に想像できた。


 そしてその嘘を吹き込んだセナの意地悪そうな顔。


 王宮の廊下をずんずん進み、侍女控室に入った。

 今日はアマンダも利用している。

 リドリアは自分のカバンを入れている籠をひっつかみ、中からおしろいの入ったコンパクトを取り出した。乱暴にひっつかみ、控室に備え付けの姿見の前に移動する。


 そこに映るのは、一張羅を着ているにも関わらず、人でも殺しそうなほど残虐な顔をして目を赤く濡らしている自分だ。


 やはりというか、目の下あたりの化粧が若干崩れている。


 すん、と鼻をすすると、パフでパウダーをつけた。ふわりと化粧自体につけられた香水の香りが漂い、少しだけ心が落ち着く。


(アレックス・レイディング卿はエイヴァン卿のお話を信じるかしら)


 ふとそんなことを考えた。

 ぱちんとコンパクトを閉じ、姿見に視線を向ける。


 鏡の向こうでは臨戦態勢のリドリアが瞳に強い光を宿していた。


 信じるならそれまでの男だ。

 そもそも偽装婚約を持ち込んだ男ではないか。よく考えればろくでもないやつだ。こっちから切り捨ててやる。そして王太子妃に一切合切ぶちまけてやるのだ。


 リドリアはコンパクトを籠に戻すと、また肩を怒らせてずんずんと廊下を進んだ。


 目指すは王太子妃だ。


 あの性根の腐った女セナは、腹いせのために今度はこんなことをしかけやがりましたよ、と言いに行くのだ。


 建屋から庭へ出る扉の前には衛兵がいたが、リドリアの発する気に圧倒されたのか、「出るの?」とも聞かずにさっと扉を開いてくれた。


 庭へ出た瞬間、ふわりと涼し気な風がリドリアを包んだが、怒りをおさめるほどの心地よさはない。


(王太子妃さまは……)


 どこにいらっしゃるかしらと首を巡らせていると、アレックスがエイヴァンを伴ってリドリアに向かって歩いてきているのが見えた。


(返り討ちにしてくれる)


 リドリアはこぶしを握り締め、ふたりに向かって小走りに駆ける。


「よかった、いま貴嬢を……というか、おい、なんだ。殴るつもりか?」


 アレックスがとっさに格技の構えをとる。リドリアはじろりとにらみつけた。


「殴りはしませんが、言いたいことはあります」

「そうか。まあ、まずはあれだ。報告を先に」


 構えは解いたものの、アレックスは警戒心マックスのままリドリアに告げた。


「茶会は非常に盛会だ。王太子殿下は大変ご機嫌で、王太子妃殿下もいま、参加者に囲まれて心楽しく過ごされている」

「ほんとうですか⁉」


 さっきまでの怒気が吹っ飛んだ。


「ああ。趣向がよかったな。まだ若年層の淑女たちばかりだから気取った茶会だったらこうはいかなかっただろう。団員たちも肩苦しくないのがいいと言っている」


「よかった! 災い転じて福となすとはこのことですね。すべては王太子妃さまのために!」


 ぐっと握りこぶしを作って腕を天に突きあげたが、アレックスはぎょっとするばかりだ。


「あ。そちらは王太子のために、ですかね」


 よく考えたらアマンダじゃなかったと、思いながらもまたぴょこんと跳ねる。


「あ! メイドたちは疲れていませんか? ビュッフェ部分もテントを張るようにお願いしていますが……。休みなしですもんね。しまった。交代で休憩って言ってこなくっちゃ。あ、アマンダとも情報共有しないといけませんね!」


 よく考えたら王太子妃に愚痴を言いに行く場合ではない。

 すぐさまアレックスに婚約破棄を伝え、会場の運営に向かわなくては。


「話があるんなら早く言ってください」


 ヘイカモン、とばかりにリドリアは指でちょいちょいと示す。『エイヴァンから聞いたんだが、お前はひどい女だ』とでも言おうものなら、『はい、婚約破棄―!』と言って、走り出そう。


 そんなシミュレーションを脳内でしていたのだが。


「な? こんな『すべては王太子妃さまのために』とか言ったり、王太子妃のために走り回る仲間のことを思うやつが、わざわざ王太子妃殿下を巻き込んだ嘘をつくか?」


 アレックスは相変わらずの無表情を向ける。

 言葉と顔を向けたのは、彼の隣に立つエイヴァンにだ。


「これも演技なんだろう。だまされてはいけない、アレックス卿」


 本当に親切心で言っているのであろう表情でエイヴァンが訴えている。


「ぼくは確かにセナから聞いたんだ」


 それに対するアレックスの返事は無言のため息だった。


「あ。もうあれですよ、アレックス・レイディング卿。面倒くさいんで婚約破棄とかでいいですよ」


 リドリアはぎょっとした顔のアレックスにそういうと、一転顔を怒らせ、胸を張ってエイヴァンをにらみつける。


「だけど、私は嘘を言っていない。卿にお伝えした話が真相です。こんなこと言いたくはないですが、セナ嬢が嘘を言っているんですよ」


「君、失礼だな! ぼくの婚約者が嘘を言っていると⁉」


「だったらお前も失礼だよな。俺の婚約者をさっきから嘘つき呼ばわりしているんだから」


 冷えた声がリドリアとエイヴァンの間に差し込まれる。

 今度ぎょっとしたのエイヴァンのようだ。


「いや、だから……っ。そんな嘘を言うような女性を婚約者にするのはどうか、とぼくは進言しているんじゃないか」

「そっくりそのままお前に返してやるよ」


 アレックスは黒瞳に冷たい光を宿したまま、エイヴァンを見やった。


「お前、どうして俺が副団長に選ばれたのか納得いってないみたいだよな」

「それは……王太子殿下や団長のお考えがあって」


「お前には平等性がないんだ。ただそれだけだ」


 きっぱりとアレックスが言い、エイヴァンが愕然とした顔をする。


「あのな、お前はさっきから俺に『真実なんだ』とずっと言っているが、真実なんてもんはたったひとつじゃない。かかわる人間の数ほど『真実』はある。お前にはきれいなダイヤモンドに見えても、ただの炭素の塊にみえるやつや、ガラスのイミテーションに見えるやつもいる。だから全員の話を総合し、整合性をとって、誰にとっても納得のいく事実を作成して王太子殿下に報告するのが俺たちの仕事だ」


 アレックスは相変わらず無言のまま、エイヴァンを見つめた。


「お前にはそれができない。一番に聞いた話が正しいと信じ込む。孵化したばかりのひよこか」


 エイヴァンの頬に刷毛ではいたように朱がさした。


「おまけにお前は、自分が大変無礼で失礼なことを他人に言っている自覚がない。自分が正しく、自分の大義を通すためなら、相手は傷ついてしかるべきだと思っている。それなのに、他人がお前と同じことをしたら無礼だと感じる。あのな?」


 アレックスはじっとエイヴァンを見つめたあと、言った。


「お前だけが正しいわけでも、お前が信じたものだけが真実でもない。いい加減そのへんがわからないと出世はのぞめないぞ」


「だがセナがぼくに嘘を吹き込む理由はなんだ! そんな必要性がどこにある⁉」


 顔を真っ赤にしてエイヴァンが食って掛かる。アレックスは相変わらず表情を変えずに肩をすくめた。


「お前に嘘を吹き込んで、リドリア嬢を窮地に立たせたかったんだろう? そして王太子妃殿下との仲を裂きたかったんだ。ただそれだけ。お前はその道具に使われたんだ」


 エイヴァン、とアレックスは同期に声をかける。


「お前の容姿が見目麗しく、家柄が申し分ないからあのセナとかいう女は近づいて来たに過ぎない。お前が妄想しているような愛情で結ばれた仲ではない」


「そんなことはない! お前に何がわかる!」


「そりゃあ、俺にはわからんさ。お前が信じる真実はな? だから」


 アレックスはたてた人差し指で、ぐっとエイヴァンの肩口を押した。


「他人の仲に簡単に口をはさむな、と言っている。いいか、口の堅い奴ほどお前たちのことをよく見ている。『仲がよろしいですね』『美しい婚約者でうらやましい』。息を吸うようにそんな美辞麗句を並べ立てるやつの言うことは真に受けるな。もういい大人なんだからな」


 それだけを言うと、黒い瞳をリドリアに向けた。


「いくぞ。王太子妃殿下がお待ちだ」


 急に話しかけられて慌てたものの、リドリアは形だけエイヴァンに会釈をする。アレックスはすでに背を向けて歩き出していた。

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