第6話 若木に集る身の程知らず 前
時は再び定期発表会に戻る。
ぐるぐると渦巻く意識を上滑りする上級生の軽やかなデュエットを聞き流しながら、オーウェンは苦しいくらいの胸の高鳴りに目を白黒させて汗をかいていた。訳がわからない。これはなんだ? 熱い、くるしい、うるさい、……心臓がいたい! 内側を目一杯暴れて今にも胸元から飛び立ってしまいそうだ! いったいこれはなんなんだ? 僕はどうしてしまったんだッ……⁉︎
オーウェンは、あの日の練習室で確かにカタリナに恋をした。
だが、あの時の心臓はこれほどまでに叫んではいなかったはずだ。もしかして僕は今、今この瞬間にこそ恋をしたのか? あの時芽吹いたものは、あの気持ちは恋と錯覚した、ただの友情だったのか……?
……いや、違う。と、オーウェンはキツく目を伏せた。
あの日、確かにオーウェンの心に溢れた大事な大事なあのあたたかさは小春の日和のように穏やかで、まろやかな感情にはほんの少しのスパイスが効いていた。オーウェンを温めるやわい甘さをした真珠色のアレは、今思い返しても確かに明らかに恋だ。
声楽の発表が終わり、次の発表までの休憩時間に入り照明がついてもぐるぐると思考と目を回すオーウェンに、側近のアルベル・ロッソ伯爵令息が呆れた様子でオーウェンへ声をかける。
「……、オーウェンさま。オーウェンさま、我々も準備に……オーウェンさま……、……殿下? ……コホン。オーウェン、第二王子、で、ん、か!」
「ぅお、ッ、? ッ、! な、ぁ? ぅン゛、ンン゛……どうしたアルベル……ん? 何故明るい? 声楽の発表は?」
静かに声を張るという妙な特技でオーウェンの意識を引き戻したアルベル。ビクッと肩を跳ねさせたオーウェンが本気の困惑をあらわにしてきょろりと辺りを見回すと、人もまばらながらんとした席と幕の降りた舞台があった。ぱちぱちと目を瞬かせた後に、オーウェンはじと、……と半目でこちらを見るアルベルに首をかく、と子どもっぽく傾げながらぽろぽろと疑問を口にする。
「声楽の発表は先程終わりました。カタリナ嬢の発表から三学年分も上の空だなんて、あまりにも露骨すぎます。後でその後の発表について軽くまとめますから、感想を求められたらそれを読んだ内容をなんか上手いことしてください」
「は? ……は、?」
「お礼の品はオーウェンさまが手塩にかけてお育てになられている、オルカティア産の青薔薇がいいです。見栄えのために落としたもので構わないので」
つらつらと口を動かすアルベルにぽかん、と唇を薄く開けていたオーウェンに、アルベルがキリッと、真面目な顔で報酬をねだる。口調こそ丁寧であるものの、もはやオーウェンがアルベルへ青薔薇を渡すことは決定されている……と言った雰囲気が涼やかな声音に堂々と貼り付けられていた。アルベルの瞳はどこまでも真っ直ぐにオーウェンを見つめる。そらすことは許さないと言わんばかりの圧と、質量すら感じさせるはい以外は聞き入れませんという精神力がそこにはあった。
「わ、わかった。すまないな、助かる……薔薇は庭師に頼んでおく。暇を見て届けさせよう」
満足げにふわ、と笑ったアルベルは華やかな笑みと雰囲気を一瞬で普段の平坦なものに戻して「ンン、」と表情を念押しのように整えてからオーウェンへ口を開いた。
「わかりました、メイドに話を通しておきます。……ああっ、! そうだ! オーウェンさま弦楽器の発表が始まります、我々も準備に行きましょう。休憩を挟んで、弓の準備と弦の調律をして……、……殿下は一年の大トリなので時間はまだありますし前にも幾許か居ますが、一年のヴァイオリンで最優を取ったのは殿下だけなのでやっかみがないとは限りません」
「努力の結果だ。やっかまれる筋合いはない」
「はいはい。さあ取り敢えず立って。少々はしたないですが話すのは歩きながらで」
促されるままに席を立ったオーウェンはアルベルと並んでオーウェンとアルベル二人に控室へ足を動かす。カツ、と意図せずなった靴音がやけに響いてオーウェンの首裏をざわつかせた。
控室へ通じる静かな廊下は磨き上げられ、埃一つなく空気の悪さも感じない。清潔な空間は美しく、壁の素材に滑らかな大理石を使用していながら音の反響が殆どなく、その効果が魔導による制御のおかげであると、壁に取り付けられた照明の装飾が示している。
「ム……僕に手を出す命知らずがいると? いや、……僕のヴァイオリンに、か? だがな……見張りの騎士も立てているのだし、そこまで神経質にならなくとも、……」
「私との二重奏があるでしょう」
アルベルにしてはぱきりとして冷たい、硬質な声だった。
「ヴァイオリンのある控室は確かに安全に思えますが、管理の関係からオーウェンさまと私のものがまとまって保管してあります。なので、不届きものが侵入して手当たり次第に……という、最悪の万が一が起きた時に牢屋を免れることがあるやもしれません。オーウェンさまのヴァイオリンが特別であることは周知の事実ですが、私の相棒が本体や弦など、殆どの素材をオーウェンさまの特別製と同じくしていると知っている生徒は居ませんし、第一、凡庸な粗忽者にあの粋を集めた芸術作品が特別に見えるとも限りません」
「あの精巧な魔導のしるべを見抜けないとは思えない」
「愚か者は得てして盲目になるものです」
首裏のざわめきが、オーウェンを変に急かしている。反射のようにアルベルへ返事を返した後に、言われた言葉は確かに、その通りだ。
「……、……なるほどな。僕とお前のものは並べてしまうと凡人が見分けるのは相当難しいだろうし、強行に走る精神では、そこらのものとの区別がつくかも怪しいところという訳だ。どちらにせよ大罪ではあるが、他のヴァイオリン全てをまとめて壊した上で、犯人がお前のものを探し出して壊そうと思ったと強く主張されると確かにいたいな。年齢にもよるが心身の健康具合と合わせてそれらを考慮されたら減刑が通るのも理解できなくはない……」
アルベルは隣を歩くオーウェンの声音が思考に沈んでいく際の色を混じらせていくことに気がついて、本番前に脅かし過ぎてしまったか、……と、むすりと目を細めてフォローするように柔らかく聞こえる声で「すみません。言い過ぎたかもしれないですね」と言いながら主人の精神のよわ、……柔軟さに器用に口を曲げた。
「用心に越したことはありません。なに、杞憂で済めば良いのです。とやかく言いましたが、流石にオーウェンさまに手を出そうとはしな……、……!」
控室への曲がり角を曲がる。
カツン、と。一歩踏み入れた瞬間に、オーウェンとアルベルの鼓膜を悲痛な叫びが劈いた。
騎士が倒れている。先ほどまで聞こえなかったのが嘘のように、二人の少女が座り込んで何かに必死になって魔法と魔導をかけながらほとんど叫ぶように「おねがい、ふさがって、……!」「めをあけて、! とまって、ち、とまってよおッ!」と声を上げている。
「お前たち、どうしたんだっ⁉︎ 何故騎士が倒れて……いったい何があっ、……、……」
オーウェンはぎくりと足が床へ縫い止められたように、不自然に身体をこわばらせた。
——少女が倒れている。月光の髪が床に広がって美しい目は伏せられていた。まろい頬が青ざめて、……赤が、命の色が……あかい、……赤い血を流すあれは、……
「かたりな?」
——
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