第5話 芽吹きの時


 ——さて、巻き戻した時をもう少し進めよう。

 

 練習室に二人の人影が揺れる。

 来る中間考査の為に互いの完成度を高め合おうと約束をしていたカタリナとオーウェンは、録音の魔導を起動して何回目かの課題曲の通しをしていた。

 オーウェンのなめらかな技巧で弾かれるバイオリンの音色が花の歌声と甘い旋律を奏でている。ゆったりとした曲の終わりをカタリナがハミングでまとめたところで、感心したように右の口端だけを持ち上げたオーウェンが床を踵で叩いて振り返り用の録音を止めた。

 

「ずっと思っていたけど……カタリナ、君ってばヤケに優秀だよね? 何でもこなせて……天才ってヤツ?」

「まあ! オーウェンはお世辞が上手いのね。天才ならよかったけれどお生憎様! わたくしってばすごく努力してるのよね。あなたへついていくのにもう必死! 日の短さが憎いわ……一日がもっと長かったらいいのに」

「へえ? 弛まぬ努力ができるなんて素敵だね! ねえ優等生のカタリナ嬢?」

「……いぢわるしてらっしゃるの? いけずな人はいやだわ!」

 

 拗ねたように唇を尖らせたカタリナに「まさか! 好きな子をいじめないさ」と揶揄うように笑ったオーウェンが手に持っていたバイオリンを置いて椅子にさらっと腰掛ける。

 練習室の空調の風に遊ばれて頬を撫でていたなめらかなホワイトブロンドを、楽譜を捲るついでに幼い仕草で耳にかけていたところにあんまり唐突に言われたものだから「え! ぇ、と……」なんて、もじ、と身を捩ったカタリナ。

 丸い靴先が埃一つない床をコツリ、と鳴らす音が思ったよりも響いた。

 

「うん……すきよ、……わたくしもすき。オーウェンは大事なお友だちだもの」

「……、……あ、そう。……こっ、んン、……この調子でいけば中間考査は余裕で優を貰えるはずさ! もしかすると最優も夢じゃないかもね、! ……アー、……ふふ、うん。そうさ、うんうん。優はかたいね、賭けてもいいよ。あはは……」

 

 自身へ向けられたはにかみの稚い愛らしさに形を持ちそうだった何事かに「ぅ、ぐ……」と頬の内側を噛んでなんとかギリギリで耐えたオーウェンは、お友だち、という単語にヤケにジクジクと疼く心臓ともつれそうな舌をなんとか誤魔化していつになく素直に評価を口にする。

 顔は熱いし、若干噛んだが。

 

 ——あ、ダメだ。熱が引かない……なにか、何か別のことを考えなければ。


 カタリナの「すきよ」の甘さにふわふわと浮つく気持ちを落ち着けるために、オーウェンは穏やかな陽だまりの仮面を被り目を伏せて、別のことを……自身が抱く鬱屈したモヤを思い出す。

 

 内側のモヤを見る。内側の奥の奥。暗いくらい底の底。暗がりにあるそれが、形を作っていく————……ああ、どうも、兄上。輝かしい第一王子さま。

 ロンダールの第一王子。次期国王さま。明けの明星。オーウェンの兄。オーウェンの心を醜い怪物にし、ひたすらに輝き続けてオーウェンを焼き尽くさんとする沈まぬ太陽。

 いっそ兄が無能であったなら。大きな歳の差を覆せてしまうほど兄が愚かであったなら……数年前病に倒れ儚くなったのが二番目の兄でなく、第一王子の彼であったなら…………そんなどうしようもない妄想を、オーウェンは何度も夢に見る。兄が愚か者として廃嫡される様を。病に魂を凍えさせる様を。事故に遭ったり、悪意に飲み込まれたりして無様に最後の息を吐く様を。太陽が堕ちるその時を。

 

 兄は容姿も声も良ければ性格だって悪くない。優しい心を皆に配る朗らかな人柄。といっても傀儡になるような無責任さや蒙昧さはなく、兄は罪の重さに応じて人を切り捨てることもキチンと出来た。出来すぎていた。

 

 昨日のことのように思い出せる過去がある。

 ずっと兄のことを側で支えていた従僕がいた。兄との仲もよく、二人の間には美しい友情と確かな信頼があり、交わす視線には絆があったように思う。少なくともオーウェンにはそう見えた。

 そんな従僕は兄のありもしない罪を悪意に嘯かれ呆気なく疑心に陥り、一度揺れた心はとうとう悪意から逃げられなかった。悪意に迎合した彼は見当違いの義憤に駆られ、兄と時間をかけて培ってきた絆に鋏を入れ、かけがえのない友情と信頼をたった三十枚の銀貨に変えて、正義は我にありと踏みとどまることなく兄の晩餐に毒を盛った。

 兄がその身を害される前に毒味役が死んだことで従僕は直ちに捕らえられ、全てを吐かされたあとに首を落とされた。従僕へ嘯いた輩も程なく捉えられて同じように首を。

 一族連座で縛り首だと騒ぐ元老院をおさえた父……王からの命で、青天の霹靂に抜け殻のように放心したきりの従僕の家族はその身を王の意向により手荒に扱われる事なく、とはいえ速やかに拘束された。それから、本人たちや屋敷の様子をどれだけ騎士たちが調べても何も出て来ない潔白の身を証明された従僕の家族は解放された。だが、彼ら自身は潔白であったものの……、いや、潔白であったからこそ身内の犯した罪の重さに耐えられなかったようで……粗悪な毒で心中を図って中途半端な廃人になったところを使用人が見つけたらしい。

 ことの終わりにそれを聞き、そのあまりの悲劇に息子を害されそうになった王も流石に目を伏せ「あまりに惨い、……」と憐れんだ。彼らは慈悲の杯を賜り、ひっそりと天からの迎えを待ったという。

 

 ——うーん、そっか。かなしいね。

 

 淡々とことのあらましが纏められた報告書を見つつ、父から口頭でも説明を受けた兄は……兄は少し眉を下げたあとそれだけ言って、それで終わりだった。

 数度ぱちりと瞬いて、一度深呼吸をした兄は次の瞬間には手の中の報告書をポイ、と机に放る。そうして、あまりの事に震えて俯いていたオーウェンに向かってにこ! と笑いかけた。

 

 笑いかけた。笑った。わらった。

 

 ヤツは笑ったのだ! 自身の命が狙われたというのに

 側で尽くしてくれた従僕が裏切りの末最後の息を吐き、その家族がめちゃくちゃになったというのに! 兄は、あいつは、あの一番明るい太陽はなんでもないみたいな調子で……、……

 

 ——つまんない話で眠くなっちゃった? お菓子を持って来させよっか!

 

 ……ヤツはなんでも出来るだけの悍ましいヒトガタ。

 優しさも、輝きも、振る舞いも全部人の真似事をしているだけ。気まぐれに下界へ降りてきた太陽…………だったら、良かったのに。

 

 あの時。深く吐かれた息に混じった梅雨の香り。俯くオーウェンを労わる愛の視線。酷く優しい手つきで頭を撫でた兄の仕草から伝わる、オーウェンへ向けられた無上の慈しみとあたたかさ。それが、それらの全てが! 泣きたくなるくらい本物だったから!

 だから、だからこそオーウェンは、僕は、! ぼくは…………、……——————

 

「オーウェン?」

 

 花の声がした。知らずに俯いていた顔を上げると、視線の先に春色の微笑みがあった。

 

「オーウェンたら、うたた寝しちゃっていたのよ……ふふ。ねぼすけなオーウェンに一つ差し上げるわ、眠気覚ましのお菓子! わたくしもたまに舐めるの、もちろんこっそりね。薄荷味が好みじゃなかったら申し訳ないのだけど……きっとスッキリ出来るとおもうわ」

「あめだま、……」

「そう、あめだま」

 

「あ、センセイには内緒よ?」と、オーウェンの手のひらに飴玉を置いてから、今までよりずっと愛くるしい仕草でぱちんと片目を閉じたカタリナ。たった一回のそれがオーウェンへ星の瞬きを錯覚させる。

 

「ありがとう、……カタリナ」

「とんでもないわ、このくらい全然…………、……!  っ、ぁ、! ……ねえ、オーウェン、オーウェン……」

「ん? なんだい? どうしたの?」

「……わ、わたくし、なんだってするわ」

「……、……え?」

 

 カタリナの唐突な言葉にぎく、と、オーウェンの広い肩が揺れた。

 

「お、オーウェンはわたくしの大事な……わたくしのだいすきなお友だちだもの……! だから、わたくしに出来ることならなんだって……っなんだって叶えてみせるわ! だからっ! だ、から……、……」

「か、カタリナ? ちょっと、カタリナ、っ? どうしたのさ、そんないきな、……り、……?」

 

 カタリナの指先がそっと、オーウェンの頬に触れる。

 

 オーウェンの心が、ごう、と燃えた。カタリナから、オーウェンに触れた。今はじめて。どれだけ誘うように無防備になってやっても決して伸ばされなかった、たおやかな白い指先が! いま、オーウェンの……僕の濡れた頬を慰めるように、労わるように……、! 、? ……ぬれた、ほほ? 

 なんで頬が濡れるんだ、……? なんで、なぜ、?

 

「そんなふうになかないで…………」

「え?」

 

 オーウェンは言われてはじめて、自分が泣いている事に気がついた。

 ほろほろと瞳からこぼれ、頬を辛くする涙はあまりにも止まる気配がない。泣き始めがおそらく完全に意識の外だったので、勝手に溜まっていく涙をとどめておけない双眸は今更止まれと考え出したオーウェンのいうことを全く聞かなかった。

 視界がゆらりと揺れる。喉が引き攣る。心臓がいたい。「ひ、ぅぐ、……は、っ」と、みっともない涙声がカタリナにだけ聞かせるように、子どもっぽい響きでわざとらしいくらいにぼた、ぼたぼたと足元に落ちる。瞬きのたびに飽きもせず涙腺からほろりと雫が溢れるたび、カタリナのやわい指先がする、とそれをぬぐう。

 

 純な親愛の熱。頬に触れるカタリナの指先から伝わる繊細で澄んだ労りの心。媚びや婀娜のないまごころのやわさ、甘さがオーウェンの酷く柔らかい場所へ根を張った。

 カタリナを形作る、美しい春の慈しみとあたたかさが今この時間だけオーウェンのみに捧げられている。飢えた土壌へ恵みの水を撒くように惜しげもなく。今、オーウェンだけがカタリナの心を占めている……オーウェンだけがカタリナの献身を受け取って、オーウェンだけがカタリナの慰めを享受できるのだ。

 

「ふ、ふふ、っ……カ、タリナこそ、泣いてるじゃないか……、んふ……へんなかお、ふふ、くふ、……っずび、ふ、ははは……」

「ぁ、! オーウェン、あなたわらったわ、わらったわねわたくしを……、! うふ……ふふ、いいわ。いいの。へんなかおでもいいわ…………オーウェンが笑顔になれるなら、へんでいい……」

 

 カタリナが、へにょりと笑う。オーウェンだけの宝物。オーウェンだけの下手くそな笑顔。

 

「オーウェンだけよ……オーウェンだけがわたくしを知っているの……、オーウェンの笑みが、まなじりの淡いいろが、きっとわたくしのしあわせなの……きっと、きっとそうなのよ……」

 

 ——ああ、もう目を逸せない。もう、こうなったら誤魔化せない。カタリナ、カタリナ。僕のために、僕のためだけに春色の吐息を梅雨に変え、無上の献身を示してくれたカタリナ、……。カタリナを、君を今すぐ抱きしめたい。君のやわい甘さを腕の中に閉じ込めて、胸元に君を抱いたまま曙の微かを迎えたい。

 

 芽吹きの時だ。オーウェンは素直に認めた。

 

「カタリナ……」

「すん、っふ、くすん、……なあに、? どうかした? オーウェン……」

「……僕らって、さ。ともだち?」

「……、! ふふ、ふふ……もちろんよオーウェン。わたくしたち、お友だちよ」

 

 カタリナが、今度こそ綺麗に笑う。友情を疑わない澄んだ唇と、オーウェンのための涙の跡をつけたまろい頬を綻ばせて。

 

 オーウェンの心の、一等やわく明るいところに芽を出した鮮やかなもの。

 

 芽吹いた緑が育つための水を撒いてほしい花のひと。生きるための光を注いで欲しい春のひと。早くも枝葉を伸ばそうとするオーウェンの願いを叶えることのできる答えはどうしようもなくただ一人の輪郭をしている。

 

 オーウェンの片頬を包んだ真珠色のあたたかさに、オーウェンはこの日恋をした。

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