第4話 春色の微笑み
歌が響く。静かな歌だ。
囁く調子でありながら、空間いっぱいに広がる花の声。
始まりは足元で咲く野花のように慎ましかった歌声が、忽ち女の情念を滲ませてまるで毒を持ったように匂い立つ。
余命いくばくもない己を嘆いた令息と、飼っていた愛しい小鳥が虹の向こうへ羽ばたいてから泣き暮して過ごしていた令嬢が、とある森の奥の湖畔で出逢い、惹かれ合うままに頬を寄せる場面から始まった歌。
二人は満月の下で身を焦がす恋を知り、魂を混ぜ合う愛の熱に肌を焼く。別れたくないと令息へ唇を震わせた令嬢に、自身の未来が僅かなことを告白する令息。また自分の元から飛び立とうとする愛に令嬢は深く悲しむが、だからといってどうすることもできない己の無力に打ちひしがれる。そして令嬢は無力故に、愛する令息を連れ去ろうとしている月へ跪き慈悲を請うしかない……。
ああ、これは悲劇の歌だ。
毒の美しさを潜めた歌声は、身を切り裂くような痛みと悲しみに喘ぐように高くなって瞬いていく。子どもにだって伝わるだろう技巧の高さが窺える、素晴らしい歌唱だった。
——かみよ、つきのひかりよ、わたくしのあいをつれていかないで……
——そのいたずらなやさしさでできた、あまねくをいだくけんのうで、わたくしだけのあいを、そらへつれていかないで……
——あいべつりくのおもいもしらぬ、やさしいだけのあなたのにわへ、どうかつれさっていかないで……、……
とろり、とろり。心に蕩ける。くつり、くつり。欲が煮える。
音楽科の定期発表会。中間考査の試験、声楽の課題で女子で唯一最優を取り、一年生女子の代表に選ばれたカタリナ。舞台の上で独唱するカタリナの背はすっとのび、感情を訴える海の瞳は不安に伏せられたりしない。毛先までいのちが宿るホワイトブロンドの弾く光までも味方につけた隙のない振る舞いは、盛り上がる歌詞に合わせるように真に迫っていく。ホールに集まる全てが息すら忘れ食い入るようにカタリナを見つめ、衣擦れさえ雑音だと身じろぎせずにただ聞き惚れることしかできない。
緊張に震えることのない堂々たる歌声は、終わりに向かって泳いでいく。
——もえるあいのといきのねつを、よつゆをまぜあうあいのいとしさを、……
——かみよ、どうか、とりあげないで……つきのひかりよ、どうか、つれさってしまわないで……、……
——わたくしの、あい、を……、…………、……
堂々たるロングトーンはどこまでも伸びやかに。たおやかな指先が縋るように空をなぞって、……カタリナの礼で歌は終わる。
頭を上げたカタリナは一拍遅れてやってきた万雷の拍手に頬を染めて、あまりに鳴り止まない拍手と喝采にちょっぴり困ったように袖を見てから、そんな動揺を誤魔化すようにもう一度深く礼をする。スッと背を伸ばしたカタリナは、やわい微笑みを席へ向けてから優雅にしずしずと袖へはけていった。
誰もが素晴らしさを口にして、浮かされたように目を輝かせる中。熱おさまらぬこのホールでただ一人、ジッと舞台を見つめたまま動かない男がいた。
——わたくしを見ていて、オーウェン
声楽の発表の前、準備に向かうカタリナが口にした無邪気な声音を、オーウェンは思い出す。
次の発表が始まっても未だピクリともしないオーウェン。
体調を心配した側近が下品にならないよう様子を窺おうとそろりと隣を覗き込み、そしてぱちりと目を丸くする。
オーウェンはいつもの余裕をなくした、見たこともない当惑した表情を浮かべていた。
ギョッとしてよく顔を見れば切れ長な目尻は濡れて吐息は熱く濡れている。酷く紅潮した顔や首筋がしっとりと汗をかいているのが見え、己を見やる側近の戸惑いをよそに、ゆるゆると動かした手で胸元をぎゅう、とおさえていた。
「なんだ、これ、は」
口の中だけで呆然と呟いたオーウェンは、先程のカタリナを思い出す。慎ましく、艶やかに愛を歌い上げたカタリナの瞳の輝きを……やわい笑みを浮かべたカタリナと絡んだ視線に、確かに感じた熱のあまみを。
——あれは、もしや僕に、? ……ぼ、ぼくに、僕に向かって……、⁉︎
カッとさらに眦を赤く染めて何かに耐えるように片手で顔を覆った上で、上体を深く伏せてしまったオーウェンの様子に呆気に取られた側近は、呼吸の調子から取り敢えず命の危険はないと判断し静かに舞台へ視線を戻して、……それからハッとした。
これはもしや、春なのか? と。
☆
時は巻き戻る。初邂逅からしばらくたった頃まで。
カタリナは春に目覚めたばかりとは思えないほどにするすると周りに馴染んでいった。水を得た魚のようにいきいきと知識を蓄え、あっという間に研ぎ澄ませてみるみるうちに花ひらく。
ピアノを弾く指運びは課題はあるものの極めて優美。歌唱は教授すら聞き惚れるほどの清い響き。
成績優秀であり品行方正。対人へのあたりもよく、侯爵令嬢だと威張ったりしない清廉な精神。よく出来た優等生と上級生からも一目置かれるカタリナの周りにはよく人が集まった。
第二王子殿下……オーウェンとの仲は院生の中ではそれなりに有名で、たまに面倒な輩に絡まれることもある。が、カタリナは然程気にはしていなかった。刺々しい声色にうっかり出会ってしまったそんな時は寂しげに俯いて目尻を濡らして震えていれば、通りすがりの誰かがカタリナを庇い相手を厳しく見つめるからだ。
助けが期待できない時はもっと簡単! 程よく相手の感情を煽るように「そんな、」だの「オーウェンは……、……」だのと弱々しくも芯のある声音で相手の悪意に油を注ぐように、被害者というロールを外れない範囲で口を挟んでいればあとは向こうが勝手に自滅する。手を挙げられそうになったら恐怖に固まって肩をこわばらせたか弱い姿で大袈裟に打たれたフリをして仕舞えばいい。
そのあとでほんの少し赤くなってしまった頬を普段はしない化粧で隠してオーウェンに会うと、彼は新緑の瞳を怒りに鋭く光らせてカタリナの手を取り絡ませ、赤みを隠した頬を労わるように柔く指先で撫でてくれる。
苦しそうにカタリナを見つめて「痛いだろう……すまない、……」なんて言うオーウェンに「まあ、なんの話?」と綺麗に笑って見せてから、一拍。恐怖が今再びやってきたように震えて、痛みを我慢しようとして、できなくて……そんな様子で微笑みを崩しオーウェンの大きな手へ控えめに縋って見せれば、途端に犯人への憎しみに眉根を顰める男の姿。
「こんなに安心できるひとはオーウェンだけよ、」と、へにょりと下手くそな笑みをつくったカタリナがふわりと口にする。その表情はオーウェンの内心を満たす強烈な優越感と支配欲を膨れさせて、可愛らしい自尊心をくすぐる毒花の声に犯された心は本人も気付かぬうちにどろどろの蜜漬けだ。頼りない首筋と華奢な肩を見せるようにカタリナが目を伏せた途端に甘さと欲望に燃え始める新緑の瞳のなんて美しくって綺麗なこと!
肌をジリジリと焼く情欲の熱さがあまりに甘美な刺激となってカタリナに愉悦を与えてくる。
形を持ち始めた自覚しきれていない感情に揺れる双眸には、しかしカタリナしか映っていない。
だって、カタリナがそうしたから。
だって、カタリナが欲しがったから。
だって、だって、だって…………、……
——わたしが貴方を求めたのだから、貴方はわたしをそれ以上に欲しがるべきだわ……、……
くうくう、くうくう。カタリナはずっと飢えている。
まだよ、まだよ。カタリナは空腹な心を指先で躾ける。
芽を出させるにはまだはやい。実をつけさせるにはもっとはやい! まだまだ待つのよ、まだ待つの。耕し始めたばかりなのだから。もっともっと耕して、もっともっとふかふかに。もっと、ずっと、あと少しだけ! 芽を出させた時、よく根を張れるよう栄養と水をたっぷりと!
「おなかがすいた……」
寮の自室で足を投げ出して、窓の外の星空を眺める。ぼんやりと口にした声音はまるっきり、大好物を前にオアズケされた子どもの声。
それでも、いずれ口にできる熟れきった愛の味を思えばカタリナは春色の微笑みで我慢できる。
カタリナは、ちゃんと待てができる良い子なので!
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