第3話 花の声
ロンダール学術院。叡智の高みを目指す者へ広く門戸を開くこの学術院は、伝統と格式で角張った、実にクラシカルで古くさ……先人の偉大さを知れる入学式をつつがなく終え、先日から張り切った新入生や勤勉な院生のほとんどが待ちに待った授業が行われ始めていた。
新入生向けのはじめの授業の内容の殆どは学科担当と基礎、自由単元担当の教授の演説、学友との顔合わせや注意事項、禁止事項、基本的な提出物のあらましや共通した評価基準、罰則の様式の説明など……いつもは厳しく眉根を寄せ、雷鳴の様に低く冷たい声音で院生を威圧する教授であっても、事この時期に関しては勤めて穏やかを心がけ、この未熟な蕾たちにへはことさら丁寧に慈悲をかける。単元の内容や必要事項を聞き、その上で己の学びたい事柄を有限の瞬きの間に選び取る時期……学びの階段へ足をかけることを許された学徒の知る初めての選択。
ロンダール学術院は大抵の若々しく、新しい紙のようにまっ白で、ノリの効いたシャツの様に堅苦しい新入生に、得てして凡百の才が欲張るとろくな事にならないと言う悲しい真理を中間考査の時期に突きつけてくることとなる。
ああ無常。
さて、そんなロンダール学術院へ母の後押しもあり入学したカタリナが選んだのは、学術院で一番歴史の長い音楽科だった。
——この音楽科は文明が生んだ楽器のみならず喉が震えるならば声に乗せ、そうでないなら手足を鳴らし旋律を作る誰だって使える己という肉体から、そこらの石でまで奏でることのできる創世から全てに寄り添う幅広い音楽と魔法の古今の関係を知り、学び、より魔法や魔導を効率的に扱えるものでありながら、天上への献上にも耐えうる美しい調べを追求する科である……
と、神経質そうに鋭い輪郭と首の周りをぐるりと鈍く光るチョーカーを嵌めた、双眸の輝きは年若いくせに不健康にも見えるひょろりとした容姿の教授が、まっさらな新入生に向かい力強いテノールを巧みに使い新入生に向かって朗々と語る教授の演説に、素直に興味を惹かれたのだ。
音楽科のオリエンテーションの為に扉が開かれたロンダール学術院一の歴史を持つ大講堂へとぞろぞろと進む人波に眩い美しさを持つ甘色の少女……学術院の制服をきっちりと着こなしたカタリナの姿が目立っていた。
足首まである品のいい生地のスカートがざわめきに起こったささやかな風に翻り、瑞々しい脚を覆うガーターで留められた白いタイツをイタズラにくすぐって逃げる。
きちんと採寸された飾り気のない上着は、豊かに育った女性性を損なわぬように甘い山を作る。内側のフックで留める作りをした清廉な制服は、仕立てたばかりの真新しさもあり初々しい香りがする。そんな制服には揺れたり取れたりするリボンやボタンなど事故に繋がりかねない余計な装飾はない。
が、代わりに、この世の始まりからあるとされる糸紡ぎの魔法で紡がれたうっとりするほどなめらかな刺繍糸で、葦とエンレイソウの意匠が実に優美に刺されていた。
すらっと伸びた、教養を感じさせる優雅な令嬢の背筋。少なくない人の海を泳ぐように進む足先を守るツヤのある丸いシルエットの革靴が誇らしげに床を鳴らす音に、やけに稚い面差しでカタリナは嬉しげに眦を染め、この学術院へ送り出してくれた家族へ感謝した。
目的の場所へ到着した後。手入れの行き届いた揺れるホワイトブロンドに視線を向けてきた素朴な女生徒や、柔い輪郭にぼうっと見惚れる貴種風の男子生徒へ「ごきげんよう」と甘すぎるくらいに蜜滴る声音を、ふっくらとした唇から空気に乗せて微笑むカタリナ。たおやかな首筋は春の香りを纏い、なんの気負いもなしに広い空間で段々に弧を描くように備えられた艶々した机をつ、……と指先で撫ぜたカタリナは、そのあとに慣れた様子で椅子に座る。ざわめく前方よりもずっと人気の少ない後ろの方の席だ。
その隣にするりと腰掛けた気配にカタリナが目を向けると、そこには陽だまりがあった。
「もし。その一等眩い月の髪に命を抱く海の眼差し……君はもしやオルソンの姫では? カタリナ・オルソン侯爵令嬢、春に目覚めた芽吹きの娘」
少年の色気と青年の艶が心地の良い声は歳の割に甘く、とてもなめらかな質感に自信とプライドを溶かしたハリをもつ。
黄味の強い蜂蜜色の長髪は緩く結ばれ片方の肩口から胸元に流される。己の見せ方を熟知しているしなやかな所作が、緑色をした香りに似合っていた。
薄い唇は形良く、穏やかな口調と親しみやすい笑みに上手く誤魔化された肉食獣を思わせる切れ長の新緑の眼差しは、陽だまりを思わせる目の前の彼の端正な雰囲気に唯一無二のバランスで美を損ねる事なく収まっている……
捕食者の冷たさを秘めた双眸に違和感なく合わせられた視線を辿り、名も名乗らない彼は隣に座るカタリナをじっと見つめた。内側を無遠慮に探るような緑の輝きにカタリナが不快を感じる一瞬手前。ぱち、と、カタリナの意識にピリオドを打つみたいにしてけぶるようなまつげを揺らし目を瞬かせると「あれ、ちがった?」なんて態とらしく眦を染め、ヤケに子供っぽくカタリナへ恥ずかしがって見せた。
その顔に、カタリナはアッとした。
「……ぁ、いえ、確かにわたくしはカタリナですわ。オルソン領を治めるクリフトン・オルソンの娘、春に目覚めたカタリナ・オルソン。お初にお目もじいたしますわ、第二王子殿下……美しい方、陽だまりのオーウェン殿下」
「やった、正解だ。ふふ……んー……ふ、ははっ! 陽だまり? 僕が? ふふ、くふ、ふふふ……そんな穏やかそうかい? 僕って。ふふ、あは、ふ、参ったな。僕が陽だまり……ふふ、雰囲気や見た目だけで言ったでしょう」
揶揄うようににこ! と無邪気に口元を綻ばせたオーウェンの顔がぐっ、とカタリナへ近づく。
「僕のこと何も知らないんだね」
温度のない瞳が肩を僅かにこわばらせたカタリナを写した。ふる、と震えたカタリナに愉快な心地で「ふ、」と喉を鳴らしたオーウェンの指先が月光の髪を一房、巻き付けるように弄ぶ。
気ままで、軟派な態度。組まれた足が表す通りにオーウェンに先程までの誠実な暖かさはなく、気怠げな諦念を纏い直した軽薄な唇がカタリナを嗤う。
——くうくう、と。カタリナのなにかが切なく鳴いた。
「わ、……わ、たくし、は、春に目覚めてから日が短いもので、世に疎く……そちらの方面を教えてくださった家庭教師からかろうじて可をいただけるくらい習えたのも、基本的なものを掻い摘むように、で……。それで……ええ、その、大変心苦しくありますが殿下のことも殆ど知りませんの。お顔も、人となりも、わたくしには遠い方だと、皆それくらいで……ですから、はい……オーウェン殿下のおっしゃる通り……お纏いの雰囲気に飛びついて……、口に……」
カタリナは唇をきゅ、と結び、目を伏せて眉を下げた。
「はずかしい……言い訳のしようもありませんわ」
静かに恥じ入るカタリナの薄い肩に、オーウェンは思っていた反応と違った、……と、目を細め、居心地の悪さに粗雑な振る舞いで足を組み替えた。
オーウェンの美に頬を赤らめるわけでもなく、かと言って極度に怯えるわけでもない。男女の違いに構えるような肩の強張りを誤魔化すこともできていないくせに、髪を弄ばれることをなんとも思っていなさそうな幼さは、春の艶やかさをもつカタリナ・オルソンの容姿とはどこか噛み合っていない危うい色香を無自覚にオーウェンへ突きつけてくる。
「……? カタリナ嬢、っ?」
カタリナの肩が震え、薄く開いた唇がほんの僅かに戦慄きながら短く息をする。目元へ耐えるように力を込めた様子のカタリナに、オーウェンが首を傾げて訝しんでいると、忽ち水面を作り溢れさせた海の瞳の煌めきがオーウェンの息を止めた。
思わずカタリナの髪を遊んでいた指先をぱっと髪から離し、カタリナの涙でひかる柔い輪郭に慰めるように手を添える。
——まずい、泣かせてしまった。人の多いこの場で!
ほろほろと頬を濡らし、切ない吐息と「も、もうしわけ、ありませ……」と雨の声を、必死になって止めようとするカタリナ。その場凌ぎではない焦りと謝意をのせて「すまない、」と口にするオーウェンは、目の前の女のいじらしさに腹の底がくつりと沸く感覚にはたと気づく。
自身の変化に戸惑ったオーウェンが身体を引く前に、するりと脳髄を痺れさせる「でんか……」と喘ぐような梅雨の声音が、ぎくりとオーウェンを引き留める。「っ、は」と無意識に詰めていた息を吐いたオーウェンの未だ添えられたままの手へと甘えるように頬をすり寄せるカタリナの、子が親へ甘えるほどの気配しか纏わない純粋さ。
媚びを持たないからこそ匂い立つ幼い婀娜がオーウェンの心を鷲掴んで強く拍動させた。
長いこと諦念に冷えていた心臓が、訳のわからない痛みを訴える。
「こ、れから」
「……? でんか、?」
「これから知っていけばいい」
思ったよりも、熱を持った声だった。
「教えるよ。僕のこと、きみに……カタリナ嬢に」
「……オーウェン殿下自ら、わたくしに殿下がどんな方か教えてくださるの……、……?」
「ッ! ……うん、そうだよカタリナ嬢」
潤んだ瞳でカタリナはオーウェンを見つめる。オリエンテーションの開始を待つ生徒のざわめきが遠い。オーウェンには今、カタリナしか見えていなかった。口が動く。止められず、止めようとも思わなかった。
「僕のことはオーウェンと呼ぶように。ロンダール学術院に入ったからには、同じ学術院生として実りある時を共に過ごすことになるのだし」
するすると言葉を紡ぐ舌と、カタリナを撫ぜる手のひらから伝わるぬくいやわさ。「それに……」と言葉を重ねたのはほぼ無意識だった。
「それに? ……っあ、!」
「互いを知るにはきっと良い事ばかりになるはずさ」
カタリナの右手を、もう片方の手で掬うように握る。ふかふかとした神秘の感触はオーウェンの腹の底をほの甘くくすぐり、きょとりと目を丸くするカタリナの表情はオーウェンの心中に根をはる欲望の若木をさざめかせた。
「互いを、しる? よいこと……ぉ、オー、ウェンさ、ま……、……? ……オーウェンさま?」
「……」
オーウェンがにこにことしてダンマリを決めていれば、カタリナはうろ、……と視線を彷徨わせてから、窺うような上目遣いでオーウェンを見つめる。
「オーウェン」
「……うん、上手に言えたねカタリナ」
機を見たようになったチャイムが、オーウェンの肩を揺らした。
パッと身体を離し、「教授がいらっしゃいましたね」と短く笑ったきり前を向いたままのカタリナ。もはやこれから始まる授業の内容にしか興味がないようなそんなさっぱりとした横顔から、オーウェンは登壇した教授のテノールの演説が始まってもまだ目を離せずにいる。
己の名を呼ぶカタリナの花の声が、心底名残惜しかった。
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