第2話 うつくしい子ども


 オルソン領は雪解けを迎えた春の心地だった。

 

 普段は慎ましいオルソンの領民は花よ咲けと心を震わせ、歓びと祝福の思いに浮かされるまま歌を歌い風を起こす。原初の力である歌によって起こされた風に巻き上げられる魔力の花たちは、芳しい甘さと共に領主邸へ運ばれ、やがてその身を綻ばせ濃密な魔力の蜜となってオルソンの姫への贈り物になる。

 春の芽吹きを押し上げる心地の良い賑やかさに心を温めた精霊は、ひとの感情と共振しはしゃぎ回る妖精たちと共に祝福のまたたきをより合わせ、黄金の瞳を持つ青い鳥にして友の娘の下へ送り出した。

 

 ——ああ、なんて良い日なんだろう! ああ、なんて喜ばしい日なんでしょう! オルソンの、春の姫が目をさまされた! 若君の献身が月女神に届いたのだ! 春の芽吹きが姫を連れてきた! オルソン万歳! オルソン万歳!

 

 領地に満ち溢れる感情の力を夜闇の青さを混ぜ込んだ濃紺の瞳に煌めかせるクリフトンは、書斎に備えられた品の良い革張りのソファへ深く腰掛ける己の最愛……妻のジャンヌの下へ近づいて涙をほろほろとこぼしながら神へ感謝を祈るほっそりと組まれた指先を格式ばった硬い手で殊更柔らかく包んでやった。

 

「ジャンヌ。私の海。私の真珠……私の愛しのジャンヌ。もう、恐れることはないのだ。私たちの春を、女神は返してくださった」

「……ええ、ええ……なんて、なんて慈悲深いことでしょう……御身に願っておいて詰ってしまうような身勝手なわたくしの間違いを、ひどい罪をお許しくださるなんて! まさに月光のように寄り添われる女神さまね……でも、月の慈悲を降らせてくださったのはあの子の……セドリックのおかげだわ、きっと…………」

「ジャンヌ、君はよくやってくれた。あの時が間違いだなんて、罪だなんてそんなことはない」

 

 クリフトンはジャンヌへ真心のこもった温かい声を重ねる。

 

「幼すぎる蕾だったカタリナに、君の心からの愛の発露である初めての魔法は月桂樹の揺籠よりも母の愛を感じられたはずだ。君の愛はカタリナの褥だった、起こす役目がセドリックに与えられた。それだけのことだ、それだけのことなのさ……」

「クリフ……」

 

 今まで、どれだけクリフトンが抱き締めてやろうとも罪の意識に冷えていたジャンヌ。いま、カタリナの目覚めと共に、ジャンヌの凍土のように頑なな心も雪解けの気配を見せる。

 

 クリフトンは今までと同じように、宵闇の静けさを纏う優しさでジャンヌの雪解けを後押しする。愛おしさを織り込み、指先を甘く動かす。

 

「春は訪れた。なら、これから始まることだってある。私たちはカタリナが望んだものからより美しいものを与えていくことができる。そうだ! これからは、カタリナの唇から望まれたものは全てカタリナのものにする。君が自身を許せずにどうしても心を冷やしてしまうのなら、カタリナが望むものをカタリナに相応しい形に整えて……そうしてカタリナに与えれば良い。カタリナの笑みはきっと、君を温めてくれるはずさ」

 

 ジャンヌの唇が息を吐く。春の気配を含んだやわい吐息を。

 

「この世の一切がカタリナのものだ。美しいものはより鮮やかに、そうでないものはより相応しく……そうだ、そうしようジャンヌ! 私たちにはそれができるのだから」

「クリフ、……そうね、そうよね、それがきっと一番だわ。わたくしのクリフトン……」

「ああ、そうだよ、私のジャンヌ……」

 

 ほっそりと組まれたジャンヌの冷たい指先をクリフトンの指先がなぞり、解き、自分の指と絡め直す。ジャンヌの眩さを損ねる雲を払うように言葉を重ねたクリフトンの真摯な心の温かさに、ジャンヌは漸く白すぎた頬に血色を取り戻すことが出来た。カタリナを産んだ日よりも確かに鋭さを増したジャンヌの輪郭や首筋の細さの切なさに、クリフトンは「ああ、」とたまらずジャンヌの涙で濡れた唇へ己の唇を重ねた。愛を込めて。慈しみを込めて。

 

   ☆

 

 クリフトンの妻、ジャンヌは産月に満たない時期にカタリナを産んだ。

 まだ、どうかまだここにいてと己の胎へ何度も何度も語りかけ、月女神に毎夜祈る。そんな慰めも虚しくジャンヌはカタリナを産んだ。産んでしまった。

 

 その時初めてジャンヌは己の身を恥じ、恨み、嘆いた。クリフトンへ申し訳がないと……セドリックへどう伝えようかと、小さな小さなカタリナになんと詫びようかと……

 

 ジャンヌは代々より芽吹きの魔法と相性が良く、さらに研ぎ澄ませた魔導を民へ施している善良なリース伯爵家の長女として生まれた。

 

 祖父の熱烈な求婚に絆された祖母に流れていた海の民の血を色濃く受け継いだゼニスブルーの豊かな髪に、淡いクリーム色の肌をした涼やかな目元の令嬢。碧い芝を駆ける爽やかな風のようなジャンヌ。鮮やかな初夏を思わせる溌剌さで皆を笑顔にするジャンヌは、その魂の輝きを太陽の瞳に煌めかせ、ひたすらに力強く、また眩く育った。

 

 ジャンヌが生まれ落ちてから五回の春を過ごし、新緑の輝きの鮮やかさをふくふくとした頬で迎えた頃、神の庭から送り出された子どもたちの魂が地に根付いたとされるその時期に行われたリース邸での儀式で、ジャンヌは己を新たに知る。

 ジャンヌのために教会からやってきた司祭と数人の聖職者が思わず令嬢の今後を憂いてしまったほどに、ジャンヌの健康で命の奔流溢れる身体は魔法との相性が壊滅的に悪かった。

 

 魔法との相性。正確には、身体に流れる魔素を直接、思うままに形作る相性。

 

 世界の理へ干渉する扉を、思うだけで開くことのできる力。それが魔法である。

 

 魔法が扉を自在に開く力ならば、人の叡智で一から扉を作り出す行為が魔導の力だ。魔導で起こせる事象は形式が決まっており、形式以上以下の力を持たない代わり、相性を無視して力を出せる。無論、生まれ持った器以上の魔素を使う魔導の行使は、毒の杯を呷る行為ではあるのだが。

 

 魔法との相性が悪いものは、いくら器が大きかろうと魔導を通さない力の放出では小さな結果しか表せない。

 相性が良ければ扉が大きく開き、悪ければ悪いほど小さい扉へ。しかしいくら相性が悪いと言っても、大抵のひとは足元で眠る小花を咲かせ、ランプの火を消す風を起こし、愛おしさを歌にすれば力を乗せることはできる。

 だが、ジャンヌはそうではなかった。思おうと、歌おうと、指先から光の一つも溢れやしない。目を瞬かせた父がその場でジャンヌへと教えた魔導というしるべをなぞらなければ、ジャンヌは花の一つも咲かせることができなかった。

 

 子を胎で育てなくてはならない貴種の女には致命的とも言える魔法からの拒絶。

 産み落とされる前の赤子は魔導を受け付けない。これはどれだけ魔法と見紛う魔導が生まれたとて覆すことのできていないこの世の理であった。

 

 貴族の、肉体的には瑕疵のない健康な女として生まれたからには、なんとしても……たとえ伯爵令嬢であるこの身と家格の釣り合わない男爵家の令息であろうとも嫁いで、婚家で子を産み育てなくてはならない。

 魔法で自身と子を守ることのできない不安は初潮がきてから母と家庭教師に教わった。魔法で守られない母体や子の受ける恐ろしい病や苦痛のこと……生まれることなく儚くなった赤子や、赤子を産み落とす際に最後の息を吐いた女を受け入れる冥府の街のこと…………

 

 ——ああ! 魔法が使えれば!

 

 一時期は、世で一番の不幸者はわたくしだと悲しみに泣き暮れていたが、父や母、二人の兄に注がれた偽りない愛情がジャンヌを立ち直らせた。

 

 魔導を覚えれば覚えるほど、難解な魔導を理解すればするほど優秀なリースの血に基づいた大きくな器と、力漲る健康な身体は応えてくれる。楽しかった。繊細に扉の向こうまでのしるべを構築する時間が、どれよりも、何よりも。

 

 とうとう家庭教師ではジャンヌの若葉茂る頭脳に水を与えることができなくなり、執務の時間を押してまで惜しみなく知識を授けてくれた父からの薦めもあり、ジャンヌは幅広い分野を学べる王都のロンダール学術院に足を踏み入れる。

 その尽きることのない叡智への渇望、休めども脚は止めない弛まぬ努力でジャンヌは目覚ましく花開いた。

 聡明な唇に豊かになびくゼニスブルー、太陽の熱を輝きに変えた黄金の瞳と淡いクリーム色の若く瑞々しい肢体。学びや知識を求めながら結婚相手も選ばねばならない貴種の令息たちにとって、ジャンヌ・リースという美しい女は魔法が使えない不安を持って余りある魅力的な姿に映っていた。

 

 そこで出会い、惹かれて、恋をし……結ばれたのがクリフトン。春を呼ぶオルソン侯爵家の嫡男。主席の座を譲ることのなかった、才溢れる頭脳の持ち主。今のジャンヌの燃ゆる愛の形、未来の夫クリフトン・オルソンその人である。

 

 魔法との相性が良くないジャンヌはセドリックを無事に産んでから十年、クリフトンの望みもあり第二子、第三子産むことも、つくることもなくただ一人の子セドリックが健やかにあるように尽くした。

 また、セドリックと同じ歳に産まれ、健やかにお育ちになった次期国王を望まれる第一王子は品行方正であり兄弟間の関係の目立った懸念も少なく、柔軟でありながら折れないしなやかな意志をしっかりともっている。王室の乱れもなく、国は変わらず穏やかに富んでいる。ロンダールの未来の明るさを民たちは僅かにも疑わず、誰もが笑顔で過ごしていた。

 

 ジャンヌが二人目を望んだのは、そんなロンダールの眩さに当てられたのもあるが……クリフトンとの子をもう一人、この胸に抱きたいと強く思い始めたからだった。ジャンヌが身を寄せ、愛する人にだけ聞こえるように「あなたの馬車で、太陽神の庭に招いてほしい」と濡れる唇で愛を願えば、クリフトンは澄んだ目尻を少しだけ赤くして……、……

 

 そうしてジャンヌはカタリナを胎に宿した。

 

 己に眠る小さな愛を、セドリックの時のようにきちんと抱けるはずだった。祝福された誕生であるはずだった。

 

 しかしそうはならなかった。

 

 ——ああ、! ああ! お生まれになりました! 女の子でございます! オルソンの姫君でございます! なんて小さな……! 息は⁉︎ しておいでです! あ……? 奥さま、……? ああ! 奥さま、ジャンヌさま!

 

 血の気の失せた真っ白な顔のジャンヌは朦朧とする意識に微かに、だが確かに届いた弱々しい産声へ手を伸ばす。

 

 どうか死なないで。どうか生きていて。ああ女の子なのね。小さいこ。かわいいこ。わたしの子。わたしの愛。

 

 ああ、この子をわたしへ送り出してくださった月女神よ、この子をあなたの庭へ連れ帰らないで。この子を、カタリナを、……時よ止まって、カタリナを害す全ては去れ! わたしからカタリナを奪う全ては去れ! 時よ、カタリナ、止まって、死なないで、カタリナ、カタリナ! ああ! どうか、どうか!

 

 斯くして軋む器は生まれ変わり、母の願いは魔法となる。

 

 その日からカタリナは母の愛により命と成長を約束され、月女神の気まぐれで魔素で生きる、微笑むばかりの人形となった。

 

   ☆

 

 ——そんなカタリナが、漸く人として息を始めた。

 

 クリフトンは決意を新たにし、ジャンヌは暗がりから光を見つけ、セドリックはただ一つの愛を離すまいと胸に抱く。

 

 母の愛の褥で微睡んでいたカタリナはかつてと混じり一つとなることで己を取り戻し、鮮やかなこの世に真実生まれ落ちた。己の意思で息を吸い、己の意思で何にでもなれ、何処へでも行ける。

 

 庭でセドリックと戯れ合うカタリナのほっそりとした足首は、目覚めてから程なく大地を踏みしめる力強さを取り戻した。妖精のイタズラにころころと笑ったカタリナはセドリックの胸へ羽根のように飛び込んで、逞しい腕を撫でてカタリナのための首元に手を回す。二人の互いへの愛おしさを隠さない瞳の美しさよ……ああ、見なさいこの尊い兄妹愛を! なんて幸せな光景だこと!

 

 カタリナはうつくしい子どもだ。

 

 月光をより合わせ、丁寧に紡いだように繊細なホワイトブロンドは太陽の祝福に煌めき、華奢でありながら稚い少女らしい柔らかさとじゅわりと蜜が滴るような女の気配を匂わせる肢体は柔らかなドレスを纏い風に舞う。真珠のようにまろいなめらかな肌は血潮の熱を帯び生命の温かさを見るものに与え、爪先の淡い桃色が芽吹きのオルソンの姫らしく青空にかざされる。

 

 形の良い眉を辿り、すうっと通る鼻梁を視線でなぞる。深く静かな海の瞳は眩い希望を抱きしめて、青い甘さにつやめくふっくらとした唇が、ベルの音よりも心地よく、小鳥の囀りより軽やかに、晴れやかな声音を紡いでいた。

 

 これから大輪の花となり、芳しく熟れる果実となるだろう芽吹き始めたうつくしい子ども。

 

 誰よりも幸福を、愛を捧げられるべきオルソンの、春の姫。

 

「父さま聞いて、母さまも呼んで! セド兄さまったらひどいのよ? にこにこと、わたくしを揶揄って!」

「ああ! 許せカタリナ! あんまりお前が可愛くてだな、ふくれた頬の愛らしさを手のひらに感じたかったんだ。幼稚な兄を許してくれカタリナ……」

「まあ、兄さま、……それなら……」

「ふ、はは、! セドリックは余程ジャンヌに叱られたくないらしいな。ふふ、ははは!」

「まあそうですの? セド兄さま! わたくしへの言葉に込めたのは純な心じゃございませんの?」

「そんなわけがあるか! なんて人だ、今言うことですか父さま!」

 

「ふふ」と頬を緩ませたジャンヌは影から一歩足を伸ばし、賑やかな庭へ踏み出す。さくり、と芝生を靴越しに感じれば、身体を包む暖かな日差しの香りが碧色の風に運ばれジャンヌの肺を満たした。

 

 カタリナ・オルソン。カタリナ。ジャンヌの大切な娘。未来を手に入れたうつくしい春の姫。

 

 これから何にでもなれて、何処へでも駆けていけるジャンヌの、家族の、……オルソンの、ロンダールの、一等とくべつな宝もの!

 

 ——カタリナはうつくしい。注がれた愛をくつくつ煮詰め、宝石のようにして己を飾る。綺麗なそれにくちづけて、もっともっとと求め手に入れるたびカタリナはさらにうつくしくなっていく。

 

 くう、となったのはなんだったか。

 

 こてりと首を傾げ薄い腹に手を当てるカタリナは、今はまだうつくしいだけの子どもだ。

 

 家族の愛だけで息をすることができた瞬きの日々。澄んだ想いだけで満たされた束の間の今。

 

 カタリナの唇を人知れずぺろりと舐めたカタリナ自身の赤い粘膜だけが、カタリナの飢えを知っていた。

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