第1話 めざめ
——ああ、わたしはカタリナ。カタリナ・オルソン。
目覚めの時だと、唐突に理解した。頭が、心が、魂が。鏡面越しのわたしが手を伸ばし、わたくしに解けて混じり合う。すっかり一つになって仕舞えば、瞬くたびに世界はわたしを受け入れる。
ぼんやりとしたインク色の景色に突然色が付いて、肺腑を満たす春の芳香が一段と鮮明になる。穏やかな風が幼い肌を甘く愛撫し、ほう、と吐き出した息は声帯を震わせ微かだが確かな音となって鼓膜を引っ掻いた。
ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ……瞼の裏の星の瞬きを見る度に、わたしはこの世界に歓迎され、受け入れられ、夢幻のような美しさで自由に生きろと言祝がれる。
微睡む意識のヴェールの向こう側へ、わたしは今日この麗らかな芽吹の頃にやっと、わたしとして足を踏み出せた。
オルソン領主邸。王から賜った地を治めるクリフトン・オルソン侯爵ならびにその家族、使用人たちの住む静謐な美を追求された邸宅の庭。手入れされ整えられた芝生と庭木、愛らしい花々……鮮やかな思考と視界はガゼボの椅子に座らされ、人形のように微笑む時間以外はただ柔らかいベッドの中で生きているだけだったわたしへと新鮮な命の輝きをもたらす。
ああ、花ひらく。血潮は熱を帯び、瞳は輝きを増しているだろう。きゃらきゃらと笑う妖精の羽ばたきが起こすそよ風に遊ばれた髪が頬にくすぐったくて、稚い指先でそっと押さえたならばもうそこにいるのは微笑むばかりの人形ではない。
「……カタリナ?」
それは困惑と期待、焦燥と感動を滲ませながらも優しげな……豊かな低音を孕んだ声音であった。
陽の光で輝き、そよ風のイタズラで瞬く赤みを帯びた重い金髪。風に揺れる麦穂のようにうねる髪は、先ほどわずかにわたしの視界に入った自らの髪の金よりも、ずっといのちを宿しているように見える。視線の先のそれと揃いの自身のなめらかな肌は真珠のようにまろい色と輝きを持ち、皮膚の下の血色が透ける薄さはかつてのわたしの象牙色の肌よりも細かいきめをしているのだと見ただけで理解できた。
しっかりとした眉毛は凛々しく、少し垂れ気味の甘い眼差しは空の青さを知っていた。今は、わたしを……カタリナを映しながら祈るような色をしている。
服の上からでもわかる逞しい身体。わたしをどこへでも連れていけるようにと、領主になる兄さまには本来ならば必要のない剣技を騎士科の単位を納めてまで身につけた、正真正銘わたしのための体躯。剣を持つものの腕から伸びるぺんだこの目立つ青年の手が、ゆっくりとティーカップをソーサーへ戻した。
わたしは知っている。わたしは覚えている。学園を卒業してからはほぼ毎日のようにわたしを庭へと連れ出し、言葉を、愛を、献身を尽くしてくれた声の主。ある日は暖かな陽光の下で世界の美しさを心を込めて語りかけ、ある日は優しさばかりが詰まった物語を朗々と紡ぎ出して、それがどれだけ僅かであろうと時間の許す限り、ベッドに沈むわたしの慰めとなってくれた尊いひと。
セド。セドリック。わたしの、カタリナの兄さま。
わたしにのみ向けられたセドリック兄さまの誠実な心根は、わたしにのみ注がれたセドリック兄さまの無常の慈しみは! 確かにわたしの頑なな殻を割って見せた……。誰にも恥ずることのない、綺羅星のように特別な兄妹愛で!
「兄さま、兄さまの仰った通りだわ……兄さまが教えてくださった通り! 世界はこんなにあたたかで、鮮やかで……美しい命の輝きに溢れているのね……兄さまの髪と瞳のなんて祝福されていること! ええ、ええ! 兄さまが言葉を尽くしてくださった通り! いのちを育む太陽の輝き、実りの麦穂と空の色だわ……! ねえ、ね、ぇ、わたくし、わかるわ……わ、わかるの、っ! セドリック兄さま……っ!」
「ああ、そんな……こんなことが……ああっ! カタリナ……!」
わたしの向かいの尊い輝き……涙の水面越しのセドリック兄さまは、愛を囁くことがよく似合う唇を不恰好に戦慄かせ、まるで幸福に怯えるように頭を振って……乱暴に立ち上がりわたしの元へもつれる様に跪き逃すまいと掻き抱いた。
「カタリナに熱がある。血潮が生きて巡っている。カタリナが、あたたかい……現実であれ。うつろではなくまことであれ! だがもし、もしも白昼の夢であるなら、どうか永久に見させて、決して醒めないでくれ……どうか……ああ、だが、この輝きは、この命の音は!」
「兄さま……セドリック兄さま、そうなの、そうなのよ! あたたかいわ、あたたかいの……! わたくし、涙があたたかいだなんて、セドリック兄さまがあたたかいだなんて、わたくし、知らなかったの……命が熱を帯びることを、わたしはいま、兄さまのおかげでわかるのよ……」
「カタリナ、カタリナ……! 私の妹、私の輝き、わたしだけの愛……現実だと……どうか、どうかその唇で私に教えておくれ! 私の浅ましく、悲しみしか残さない瞬きの夢などではないと言っておくれ……!」
——おまえの熱が真実であると! どうかこの兄に!
縋り、喘ぐ様な懇願。セドリック兄さまは湧き上がる想いに耐えられない! とばかりに涙を流しながら、わたしの濡れる輪郭を温める様に手のひらを添え、唇を親指でなぞる。確かめる様に、促すように……いやらしさのかけらもなく、そこにあるのはひたすらに愛だった。
「現実だわ、兄さま」
「ほんとうに?」
「この熱も、涙も、歓びに震える心臓の叫びも! わたくしはこんなにも艶やかに感じている……風の柔らかさも、光の優しさも、芽吹の香りの甘さだって! そう、現実で、まことで、確かなの。兄さまのカタリナは、確かにここにいて……兄さまの熱を感じているのよ……」
「カタリナ!」
セドリック兄さまの赤みを帯びた濃い金の髪がふわりと舞って、わたしはセドリック兄さまの腕の力強さを感じ、逞しくも愛に満ちた胸元に抱かれる安らぎを知る。
今ここに幸福を、愛を、輝きを抱きしめ合うオルソンの若君と姫は、話の聞こえない距離で背を向けていた従者と侍女がただならぬ気配にそっと視線を向けるまで、今までの愛おしさを、憎らしさを、爪先まで満ちる互いへの想いを薪にして、飽くこともなく泣いていた。
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