第5話

 ──景色が広がる。


 彼女はきっとヴィーナスに違いない──ボッティチェッリ作のその誕生さながらの格好で目の前に立っている彼女を下から覗くようなアングルで観るのは如何なものか。正直に言ってしまえば見惚れてしまう他ない。恍惚とした存在──まさに女神である。きっと側から見れば変態でしかないビジュアルだけれども、いちいち出来事の光景を客観視していては小心者になってしまう。


 女神は僕におはよう、と見下ろしながら挨拶をすると続けて、

 「ベッドがあるのにわざわざ床で寝るなんて変わりものね」


 ──床?なんのことやら。………ああ、昨晩ぼくは床に寝たのだった。


 リビングのフローリングに。


 理由は読者の方には見当がつくだろう、既に窺われることだろうけれど、改めて言えば眼前の女神に──それも会って間もない、接触の殆どない男の家に上がり込んではすぐに裸体を晒して先にベッドに寝られてしまったからである。事が事なだけに一緒に住むことになったとは言え、よく知らない男の家でなんの警戒もなくよくもまあその格好でいられるものだ。ぼくがしっかり理性をはたらかせられる男であることに感謝して欲しいものだ。


 しかし、ぼくもぼくとで大概である。このことに今更ながらに思い出しぼくの理性がまったく機能していなかったことに驚いた。


 何せ彼女が何者であるのか知る以前に名前すらまだ訊いていないのだから。不確かな存在である彼女を不覚にも容易く家に入れてしまったのだから。


 「──そう言えば、名前、名前は?」

 「ウィンターよ、ウィンター・ウォルガム。ウィンターって呼んでいいよ」

 「ウィンター………そうか、ぼくはシラシロ・ハルヒだ」


 ウィンターは女の子みたいな名前だねと笑顔を見せて応答したけれどぼくはそれを無視して、

 「君は何者なんだ?」

 「君じゃなくてウィンターって呼んでよ………」

   

 ぼくは黙ってウィンターを見つめた。


 「異世界人」


 ウィンターはよんどろこないといった様な表情を見せて言った。


 ──異世界人?なんだそれ。よく分からない。

 ぼくは露骨に首を傾げてみせた。


 「住む世界の違う人間なんだよ、私は」


 そう言って抜け殻へと振り返ってはパンツを拾い上げそれ履いた。


 ──ちなみにノーブラ派らしい。

 どうでもいいか。そうだよね。


 「住む世界が違うっていうのはこことは別に世界があって、そこの住人ということか?」


 つい同じ言を繰り返して訊ねてしまったが、ぼくが言いたいのは、ええと………、

 「この世の人間ではないんだよな?」

 「だからそう言ってるじゃない」


 ああ、そうだね。明らかに動揺してしまっている。繰り返し言うけれど、ほんと今更だ──。


 「それで、どうして君は狙われてるんだ?」

 「かわいいから」


 残りの抜け殻を拾い着替えるとこちらを見やって、かわいいでしょ、私と訊ねる。


 「…………」

 「なあに、照れてるのさ」


 て、照れてないし。

 ていうか、かわいいだけじゃ命なんて狙われるわけがない。ぼくはそう言うと、そりゃそうだねとウィンターは笑った。


 「特別なの。特別な存在なんだ、私。特別なものを持っていて、皆んなそれを狙ってるんだ」


 そう言いながら、ウィンターは窓を開けるとベランダへと立った。袖の中から煙草を取り出して吸い始めようとしたけれど、ライターが切れていることを思い出し、ただ煙草を咥えて遠くを見やった。


 「なんだよ、特別なものって?」


 ウィンターの背中へと問う。陽に照らされる煌びやかな彼女の長髪が風に吹かれ、猫の尻尾の様に左右に揺れ靡く。


 「もう見せてるよ」


 顔だけをこちらに向けてそう言った。

 そんなもの見せてもらった覚えは──彼女の裸でベッドに寝転ぶ昨晩の光景が頭に浮かんだ。


 いやいや、まさか。かわいいからって言うのがその理由じゃないのだし、確かに秀でた可愛さではあるけれど──。


 「いつかはっきり教えてあげるよ」

 「そう………」


 何か不思議な力を見せてくれるのだろう。この時のぼくはそう思っていた。しかしそんなことはお別れの時、最後の時であるのだ。


 ── ── ──


 喫煙者であるウィンターの為にライターと灰皿を買った帰りのことであった。彼女を連れて歩いていたところ、突然にズドンと轟音が響き渡った。なんの音かと思わず見回したが、特に異変は目につかない。


 「なんだろう、今の」


 ぼくの訊ねにウィンターは遠くの空を見上げながら、来たねと呟く。


 ──何が?


 よく分からないながら、ウィンターの視線の先へと振り返るとそこに暗闇があった。


 夜である。


 大きな楕円形の暗闇が真っ昼間の絵に描いたような青い空に異様な夜が訪ねてきたのだ。宇宙がこの地球に押し寄せて来たのかと思ったが、そんな馬鹿なことが起きるわけないと思いつつ、既に馬鹿みたいなことが起きてる今そうなのかと改めて思いもしたが、ウィンターが言うにはそうじゃないらしい。


 「敵が来たよ」

 「敵?」

 「そう、私を狙う敵」

 「あの女の子か?あの女の子は確か襲ってくるまでにまだ時間があるはずじゃ」

 「アレじゃあないよ」


 じゃあなんだと思う前に、それは隕石の如くぼくたちの目の前に飛来した。気づけばぼくはウィンターに小脇に抱えられ後ろに跳んでいたが、先までいた地面は噴火口状に穿たれ、避難が遅れていれば確実に潰れていたに違いない。


 異様にやって来た奴は異様であった。


 穿たれた地に立っていたそれは、二メートルは優に超えているだろう、白髪の男性だか女性だか一見分からない中性的な見た目であり、筋骨隆々でウィンターと似たような衣服に身を包んでいる。

 きっとウィンターと同じ世界の住人なのだろう。


 「面倒な奴がきたね。ハルは絶対に手を出しちゃいけないよ」


 口ぶり的にやはり知っている奴なのだろう。


 ──ハル?


 まるで親密な関係であるかのような呼び方を唐突にされ、こんな状況であると言うのに少しときめいてしまった──それは心に秘めておこう。


 そんなことはさておき、眼前のそれは僕たちを見つめ──いや、違う。その目に映っているのはウィンターのみであり、ぼくの存在はどうやら眼中にないらしい。


 敵は両の目に掛かる前髪を掻き上げると、

 「わたしから逃げられるとでも?──ウォルガム。その全て、君がもつよりわたしがもつ方が相応しい」


 その声は見た目に不似合いな低い声であった。


 「弱いからって焦がれないでよね。それに、別に逃げてたってわけじゃあないよ。君は弱い癖に面倒だからさ、後にしようと避けてただけ。氷菓子アイスを食べて当たり棒を引いたけれど、その日の内に氷菓子と交換しにわざわざまたお店に行こうだなんて面倒でしょ、そんな感じ。やろうと思えば、アンタをキャンキャン言わせるのなんて造作もないんだから」


 ウィンターはそう言って片手を敵へと差し伸べる。


 「お手してくれたら見逃してあげるワン」


 ──チッ。

 敵は舌を打ち、


 「──舐めるなよクソガキ。すぐに貴様を手中に帰してやる」


 そう言い終えた刹那、敵の姿が消えた。正確に言えばぼくの動体視力では相手の動きを捉えることができなかったのだ。ぼくの目が捉えたものは穿たれた地が更に穿たれた光景で──瓦礫が空を飛んでいた瞬間であったが、すぐにその光景は遠のいた。


 どうやら敵は跳躍し一瞬にして距離を縮めて来たらしく、しかしそれよりも素早くウィンターは後ろへ下がっていた。お互い再び地へと足先が触れるのは刹那の時であり、はっきりと視認できたわけではないけれど、敵の手や足が眼前を幾度とあらゆる方向から飛び交って、ウィンターの小脇に抱えられるぼくは左右に揺さぶられる。


 「逃げてばかりじゃないか」


 敵が言った。


 「手も足もでぬか」

 敵の攻撃は止むことはなく、反撃の余裕がないのか絶えず避けてばかりだったが──

 「──違うよ、手も足もだしたくないのさ」と、些か眉を顰めた表情をみせる。


 「ふふ、触れないことには意味がないだろ、君は」

 「お互い様だね」


 そう言って突如右手を横に伸ばしたかと思えばその先にどこからともなくあの錫杖が現れそれを掴むや否や石突を地面へと突き刺した。唐突の反撃ともとれる行為に敵は思わず反射的に後退してみせたが、後悔を顔に浮かばせ舌を打った。


 それは一瞬であり、その様子はどういう訳なのか分からなかったけれど、避けていなければ体は木っ端微塵になっていたに違いなく、ウィンターが突き刺す様に振り下ろした錫杖は地面を大きく穿ち、その衝撃で辺り一五〇ヤードの建物を吹き飛ばすほどだった。

 

 砂埃が舞い上がり互いの姿が見えなくなったのを良いことにウィンターはぼくを抱えたまま軽々しくと走り逃げて行く。その速さたるは異常で、目を開けていることにはむつかしかった。


 漸く普段通りに目を開けられるようになった時にはぼくは自宅にいて、リビングに入るや否やまるで手提げの荷物でも下ろすかのように床に下ろされると、窓を開けてベランダへと出た。


 「やれやれ参ったねー」


 間延び口調で言いながら袖口から煙草を取り出すと新品のライターで火をつけ、これまた新品の灰皿をエッジに置いて寄り掛かると、溜息のように大きく煙を吐き出す。


 「そんなに強いのかよ、あいつ」

 「ぜーんぜん」


 ウィンターは背中を見せたまま応えた。


 「じゃあなんで逃げるんだよ。あんな破壊的な力があるなら倒せたんじゃないのかよ」

 「そうだね」

 「…………」


 それから暫く沈黙が来て、ふーと煙を吐く音が聞こえてくる。

 ウィンターが煙草を灰皿に押し潰したところで、「このままここに居ていいのかよ」


 ぼくは言った。


 「敵がここに来てしまうんじゃないか」

 「………ダメなんだ」


 ──え?


 「ダメなんだよ、それじゃ」


 ──何が?


 「彼を傷つけちゃダメなんだ。傷つけたくはないんだ」

 「どういう意味だよ」

 「わたし、彼が欲しいの」


 ──それって。

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また会う日まで 円城めいろ @Meiro3

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