第3話
ウィンターは徐に袖口から煙草を取り出すと、一本咥えて火を灯す。口の端から煙を吐き出しながら、「わたし、ボックスタイプは嫌なんだけれど。これからはソフトしてよね、ソフトのマルボロ。それがいい」と言った。ボックスは箱の形が崩れると嫌だから、ソフトは形が崩れても何とも思わないからと──ぼくにはよく分からない拘りこだわが彼女には、いや、彼にはある。
彼は胸元に両の手を出すと、手を拍った。その瞬間ぼくたちは元の世界──見慣れた光景が広がる場所へと戻っている。
「いつまで、その身体でいるんだ?」
「一ヶ月」
「一ヶ月か………」
ウィンターは定期的に身体を乗り換える。その言葉が正しいかどうかは分からないけれど、手にした身体の主はあのように消滅してしまうから取り憑くとは違う、寄生するというのもやはり違うだろう。その理由をぼくはよく知らない。一度だけ訊いたことはあったけれど、彼女は──ああ、いや、彼か、彼は──こんなことをしないと私は死んでしまうから、私が私でなくなってしまうからと答えた。何故と、更に口を開きたくなったったけれど、そう言葉にしようとしたけれどその時の彼の表情からは悲哀が覗かし、まるで黒鉛筆で描いたような輝きはあれど鮮明さをその瞳から感じとれなかった。これ以上彼のことを知ったら何処かへ、ぼくから離れていってしまうように思えた。
──その方が良かったのかも知れないけれど。
「あまり外へ出歩かないでくれよ。そんな見た目では目立ってしまうから」
ぼくの部屋──二人で住むにしても少し広いと思えるこの箱の中のまた箱の中──ベッドと机と椅子しか調度のないこの寝室で彼は窓際にあるその椅子へと腰掛け開いた窓から煙を吐き出している。
「うん」と、鼻から彼は音を漏らし返事をした。
さて、彼がここに住むようになった経緯を話さねばなるまい。彼との、いや、彼女との出会いを少し語ろう。
特別な日ではない。いつもと同じ──その日の昨日と変わり映えない平日のことである。講義をサボって翡翠の街へとぼくは出かけた。翡翠の街は今回のぼくが語っていくことになる件について特別関わる事ではないのでそう詳しく長々とは語らないけれど、その翡翠の街が何故そう呼ばれているかといえば草木が繁り緑に覆われているからである。一年中季節関係なくである。昔からではなくつい最近のこと、半年前のことだった。その街に突如一晩にして雲を貫く大樹が顕在し建物の外壁には苔が覆い蔓が纏わりつき、アスファルトは草にのみこまれてしまったのである。そこで暮らしていた街の住人たちは姿を消し、噂では子どもの時にだけ訪れる生物の仕業だの神隠しだの皆木々に変貌したのだのとされているが現実的ではない、彼女然り翡翠の街然り現実的ではないことが実際起きている以上そうであると信じる者は多いが、否定するものも一定数いる。興味本位で立ち入った人間が行方不明になるなど捜索届も多く出されているが未だ一人として見つかっていないのが現状であり、ぼくもまた興味本位でそこへ立ち入った人間であった。
何かを期待していた訳ではない。ただ………いや、期待していたのだろう、何もない自分に何か面白いものが降りかかってこないかと。小説や漫画のような非日常がぼくを迎え入れてくれないかと。
今思えば、遠くから翡翠の街を眺めているだけにしておけば、つまらない日常に満足しておけばきっと──。
翡翠の街に近づくにつれ次第に足元に雑草が広がっていく。暫く歩いていくと緑色の電柱やその辺の木に立ち入り禁止のロープが括られ規制されていたが、一晩のうちに生まれたこの場所に留まり正義を翳かざす人間の姿は何処にもなかった。ロープを容易く潜り抜けさらに先へと進もうとした矢先だった。薄暗い森の奥に二人の人影が見えた。目を細めてみれば、学校の制服を着た女子高生のように見えた。ぼくもまた奥へと一歩踏み込んだところで、突如女性の声に全身を包まれ、まるで石にでもされたかのように動けなくなった。
「それ以上中へ行かない方がいいよ」
声のする方向へ瞬時に顔を向けた。気づかなかった。いつからそこへいたのだろうか、着物に似た衣服を身につけた黒髪の女性が木に背を預けて座り込んでこちらを見ていた。しかしこの女性、ただの人間ではないとすぐに分かった。木陰でその顔は陰っていたが、琥珀色をした双眸は陽に翳したガラス玉のように煌めいていた。
「お、お前人間か?」
震えた声でぼくは訊ねていた。
「人間、ではない」
その表情は笑っているように見えた。
「人間という定義はよく知らないから分からんが、まあこの世の人間ではない」
冷たく感じた。彼女の口から溢れでた音に。だからだろうか、ぼくの体は震えていた。その様子に彼女はふふ、と鼻で笑って立ち上がろうとした。彼女の姿に目が留まって気がつかなかったが、傍らに地面に突き刺さった錫杖があった。それに捕まって立ち上がろうとした彼女を見てぼくは反射的に逃げようとしたけれど、足がいうことをきいてくれず動かせない。鼓動が全身を揺らす。
逃げなければ。逃げなければ。逃げなければ逃げなければ──。
動けない。
あの錫杖で体を貫かれると勝手に思っていた。
あたふたと身動きとれないぼくの背後に彼女は迫る中追い風が吹き甘い香りが鼻奥へと流れ込んできた。なんの花かは知らないけれど花のような香り──彼女の匂いだろうか。そんな事を思ってしまった瞬間背に何かが触れ、目の前が暗くなった。どうも情け無いことに気を失ってしまったらしい。目を覚ました時にはぼくは仰向けに倒れていて、空は朱色に染まっていて美しいと思わず吐露してしまいそうになるほどだった。
──夕暮れか。
ふと自分が生きている事にはっとして上体を起こすと眼前に胡座あぐらをかいた、歳の頃は三十代半ばのように見える白髪の男がいた。男は足に乗せた本を何やら熱心にを読んで──いや、何かを書き殴っているようで、こちらの様子に気がついていないようだ。しかし、この男は何故こんなところでそんな事をしているのやら、周りを見回すがあの彼女の姿は見当たらない。
──ううん。
男が唸った。頁と頁の間にペンを転がすと、右手で頭を掻き毟り、かとおもえば足の上にある書物を地面へと置き、膝に左手で頬杖をつきそれを俯瞰する。が、徐々に頬から上へた掌の位置は変わり額を支えたところで男はまた唸り声を漏らし、そして頬杖を解いて顎を三度撫でたところで漸くこちらに顔を向けた。
「おや──」
男は書物を閉じながら続けて、
「やっと目を覚ましたか。男の癖にこんなところで気を失うなんて情け無い」
ぼくのことを見守ってくれていたのか──。
「あなたは?人間………だよな」
「如何にも人間である」
そう言って立ち上がり腰に手を当て胸を張る。
──威張るほどのことか。
しかしほっとしたのも束の間、こちらに視線を落とし、「見た目は、だがな」
その言葉にぼくの脳裏に彼女が一瞬浮かんだ。また逃げようとした──けれど、この状況から逃げ切れるわけがない。体勢を立て直すよりも男の手がぼくに掛かる方が断然に早い。
諦めた。
瞬く間に眼窩に涙が溜まっていくが、すぐに溢れていく。こうなるとは思わなかった。特別やりたい事なんてない。やらなきゃいけない事なんてのもない。惰性で生きて退屈していたけれど、それでも死にたいとは思わなかった。辛いことの方が多い悲しいことの方が多い、その先に幸せがあるわけなんかなくて、不幸せを裏返しに幸せがあるなんて欺瞞で、幸せを裏返しても幸せな奴もいれば不幸せを裏返しても不幸せな奴もいる。不幸せで始まって不幸せで終わる、そんな最悪な人生ではなかったけれど、いい事ばかりじゃないけれど、でも最期くらい、いい事でも起きて欲しかった。幸せを思えて──最期の幸せってなんだよ。終わりはいつだって悲しいだろ。
ああ、痛いのは嫌、
──生きていたい。
色々と頭の中を駆けまわったけれど、最後には真っ白になって、ただぎゅっと、目を瞑った。
「ふはははは」
男が暗闇の中で笑った。ぼくの情け無い姿が面白いのだろう。
「覚悟を決めたか、この拳で痛みを感じる間もなく逝かせてやろう。抗うこともしないただ受け入れるだけの間抜けめ」
拳を振り翳しているのだろうか。
ああ、さようならぼく。
ごめんよ、ぼく。
「死ねぇ」
男が叫んだ。
瞬間、ぼくの頭頂部に衝撃が走った。刹那であり、小さな──それはもう本当に小さな衝撃で、直後男の笑い声が聞こえた。
「なんつって!」
ゆっくりと目を開くと、男は哄笑していた。
「まさか、殺されると思っていたのか。馬鹿な奴だ。臆病な癖によくもまあ、こんなところに足を踏み入れたな」
「え………」
「揶揄っただけだ」
口角を吊り上げて男は見下ろすが、胸を撫でおろすことはできず、目の端にしがみつく涙を腕で拭い両の手を地面について立ち上がる。初めてお互い立った状態で向かい合ったが、一七十センチあるぼくよりも背丈は高く、軽く二メートルはある巨漢であることに物怖じしてしまいそうなるが、小刻みに震える体に力を込めて平静を装おうとした。
「ほ、ほんとに殺すつもりはないんだな?」
しかし、その声は震えており、男はふっと鼻を鳴らして、「理由がないからな」
──やはり、怖い。少しでもこの男の気分を害せばやられてしまうかも知れない。
「………もう、日も暮れてしまったことだし帰るよ。気を失ったぼくを見守っていてくれてありがとう。そ、それじゃ」
「──バァ!」
振り返った瞬間、そんな言葉に弾かれぼくの体は刹那だけ硬直した。
──彼女である。琥珀の双眸の女。
「な、何がしたいんだよ。も、目的は何だ?」
胸をおさえてぼくは訊ねた。
「揶揄っただけだよん」
こいつら揃いも揃ってどれだけぼくに寿命を縮める思いをさせる気だろうか。
「ここに来たのは、何かしてやろうってわけで来たわけじゃないんだ。ただ好奇心に駆られて──」
じっと彼女はぼくを見つめている。柔らかい風に溶け込んだ甘さが全身を包み込む。
「──と、兎に角もう、帰るので」
彼女を避けてぼくは漸く帰路に着いた。
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