空白の先で、僕はきみと

僕たちは二十五歳になった

 よくよく考えてみれば、恋する人間が盲目であることを僕が知っているのは物語上だけでの話で、本当の人間の心に触れてこなかった僕に、生身の人間の行動を読むなんておこがましいことだった。物語の登場人物と、本当の人間とは違う。物語と現実は違う。現実は、物語ほど美しくもいさぎよくもない。――――『君の膵臓をたべたい』住野よる



「本当に。だから夏は嫌なんだ。誰かさんは、こんな罠まで仕掛けるし」

 七年振りに会った夏風は外見こそおとなのそれに変わっていたが、持つ雰囲気は昔のままだった。だけどそれを口にすると、「成長していない、って意味?」と怒られてしまった。そういうつもりじゃなかったんだが。


 待ち合わせ場所を聞いた時から、嫌な予感はしていた。

 この公園は、僕たちが最初で最後のキスをした場所だ。甘い記憶だとも言えるし、苦い記憶だとも言える。


 大学卒業してから三年が経ち、僕は今、新潟の実家に戻ってきていた。一時的な話ではなく、実家で暮らしている。半年前、勤めていた文具メーカーを辞めた。心身の調子を崩してしまったのだ。仕事はどれだけつらくても三年は続けなさい、というのが母の口癖で、三年を待たずにやめてしまった僕は、そんな母の反応が怖くもあったのだが、母はそこまで責めるようなことは言わなかった。ということで、僕は失業中だ。仕事を探さなければ、と焦る気持ちはあるものの、そのための一歩が踏み出せなくなっているのは自覚している。実家に帰ってきたことは、知り合いにはなんとなくばれないように、と気を付けていたのだが、まぁそんなのは簡単に分かってしまうもので、まず水野が知ってしまった。そして水野が知ると、当然、国崎にもばれてしまう。だってふたりは結婚したのだから。


『よし、今度、飲みに行くぞ』

 と国崎から連絡が来て、場所として指定されたのが、この公園だった。場所が場所だけに、すぐに怪しいな、とは思った。


 そこには国崎の姿はなくて、いたのは、夏風だった。蝉時雨の降る暑い夏の陽射しに照らされて、夏風の顔からとめどなく汗が流れて、ときおり、ハンカチで拭ってみせるが止まる様子はなかった。


 示し合わせたかのように、電話が鳴った。国崎からだ。「ちょっと、ごめん」と言って、すこし離れて電話に出ると、開口一番、


『わはは、すまん。行けなくなった』

 と快活な声が聞こえてきた。特に理由もないのに、こんなにも大きな声を出す奴だっただろうか、酒でも飲んでいるのだろうか。年齢による変化というよりは、その可能性のほうが高い気がした。


「なんでだよ。それになんで、彼女がいるんだよ」後半の部分は間違っても夏風に聞こえないように、声をちいさくした。


『会いたかっただろ』何、当たり前のことを、とでも言いたげな口調だった。『じゃあ、頑張れよ。俺は俺で、忙しいんだ』


 切られてしまった。


「国崎くんはなんて?」

「忙しいだって、さ。自分から誘っておいて。夏風は忙しくないの?」

 暇な僕と違って。自虐的な自分が出そうになるのを抑える。


「うん? 今日はお休みだから。それに、せっかく日比野くんと会える機会があるなら、すこしくらい無理はするよ。それにしても、そうか。国崎くんは来れなくなったのか」そして夏風が続けて、「本当に。だから夏は嫌なんだ。誰かさんは、こんな罠まで仕掛けるし」と笑った。

「変わらないね、きみは」

「成長していない、ってこと」

「いやなんでそう捉えるんだよ。……そう言えば、夏風、って今、何を?」

 僕はそれさえ知らなかったことに気付く。


「国崎くんから聞いてないの。っていうか、大学以降の私のこと、何も知らないんだね。こっちは定期的に、国崎くんとか泳ちゃんに聞いてたのに」


 水野は……、いやこの言い方は正しくないのか。もう国崎泳になってしまっているが、僕は昔の癖が抜けていなくて、先日、本人の前でも、水野、と呼んでしまった。当分、これは続きそうな気がする。


「その、まぁ、離れて暮らすとそうなるものだよ」

 と僕はとっさに言い訳をする。


「別に怒ってないよ」と夏風が笑う。「日比野くんもあんまり変わらないね。私と一緒でそんなに成長していない感じだ。もしかしたら、私たちの時間が止まってしまったせいかもしれないね」

 かすかに、夏風の表情が翳る。その表情に、僕は戸惑ってしまう。


「えっと」

「って、まぁ、私がそう望んでいるだけなのかもしれないね。話が逸れちゃったね。私は今、看護師だよ。あくまで、今は、って言葉は付くけどね」

「今は?」

「誰だって、国崎くんだってそうだったように、仕事の悩みなんて尽きないものだよ。ねぇなんで、日比野くんは……あっ、これは聞かないほうがいいよね。さすがに不躾だった」

「別に大丈夫だよ。ただ向いてなかった、それだけだよ」


 これは何かを隠しているわけではなく、素直な気持ちだった。辞める前には、もっと複雑な感情がうず巻いていたような気がするのに、結局、落ち着いて整理してみると、その一言でしか表すことができなくなってしまう。情けなさを認めたくなくて、自分で複雑にしていただけのような気もする。


「たぶん、それだけじゃないでしょう。ただ日比野くんが、その辺を詳しく周りには語らないだけで。勘違いされるよ」

「もしも勘違いされたなら、その時はその時、だよ」

「そう?」

「そう」

「分かってくれるひとがいないと寂しくならない?」

「もちろんすこしは寂しくもあるけど、ただ言葉を重ねたからといっても、分かりあえるとは限らないし、ね。そう思ってしまうのは傲慢なような気もしてしまう」

「まぁそれは確かにそういう側面もある。でも日比野くんはもうすこし、語ったほうが良い気もするね。そのほうが、ね」


 そうすれば、私たちの関係も変わっていたかもしれないのに、と彼女の目がそう告げていた。


「と言っても、夏風が今の僕がどういう人間かなんて知らないわけだろ。一緒にいたのは、あの三ヶ月程度の短い時間だけだ」

「うん。そうだね」と夏風があっさりと認める。「でも心の距離を決めるのは、決して時間の長さだけじゃない、と思うんだ。すくなくとも私は、ね」


 否定できなかった。


 だって僕はこうやって彼女と話すことに、至上の喜びを感じているのだから。失われてしまった時間が戻ってきたように。


「さて、これから、どうしようか」

「せっかくこの公園が選ばれたんだから、私たちの過去でも巡ってみる? 物語なら、聖地巡礼だよ」

 選ばれた、という言葉を聞いて、僕は改めて気になっていたことを聞く。


「そう言えば夏風。国崎か水野に、この公園のことを話した?」

「うん? ふたりとも別にこの公園くらい知ってるでしょ」

「あっ、いや、そういう意味じゃなくて。僕たちのエピソード込みで」キスした場所、と言葉にするのは、さすがに照れくさい。

「いや、言ってないよ」

「そっか」

「まぁまぁ、いちいち変なことは気にしない。さぁ、聖地巡礼の旅に行きましょう」と夏風は楽しそうだ。


 僕たちはもう免許も持っているし、足として使える車もある。地方都市では必需品に近いものなので、それは普通のことなのだが、今回はバスと電車を使うことになった。夏風の提案だった。気持ちのうえでも、時をあの頃に戻したいのだろうか。


 県道を駆けるバスが最初に僕たちを届けてくれたのは、市と市の境目にある複合量販店だ。そう、僕たちが『野菊の墓』をきっかけに関わるようになった場所だ。そこの書店に入るのは、大学の頃以来だ。店員さんの数もお客さんの数も今日がたまたまなのかもしれないが、すくなくなっている。背の焼けた本も目立ち、棚もスカスカだ。当時がどうだったかまでは分からない。文具メーカーの営業として、文房具を扱う書店に出入りすることも多く、その時は必ず書店の本棚を眺めていたので、今の僕が陳列に神経質になっているだけなのかもしれない。ただ時代の流れとともに、手入れが行き届かなくなっているのだとしたら、とても寂しい、と思った。


「あっ、まだ、あるね」と夏風が嬉しそうに、一冊の本を手に取る。『野菊の墓』だ。「たまに不思議な気持ちにならない?」

「何が?」

「百年以上前に書かれた本が、今を生きる私たちの本棚に、当たり前のように収められている、って。いや百年前どころじゃないか。トルストイもシェイクスピア、紫式部も。すごく不思議だ。で、この不思議はずっと続いていって欲しい、と思ってる。私が死んだあとも」

「まるで今、死ぬみたいな……」

「もちろん死ぬつもりはないよ。まぁ一秒先のことなんて誰も分からないけど、ね。今のところはその予定もないよ。そして、その言葉、あの時、言ってくれたなら、これを簡単に返せてたのになぁ」じゃあ、言い方を変えるね、と夏風が続ける。「私たちが死んだあとも、ずっと続いていって欲しい」

「そうだね、うん。僕もそう思う」

「そう言えば、あれから日比野くんは何か読んだりしているの?」


 最初に浮かんだのは、『ノルウェイの森』だったが、冬華との中の思い出の一冊だったので、それは言わないことにした。


「『君の膵臓をたべたい』かな」

 もちろん読んでいた本はそれだけではない。大学時代ほどはあまり読まなくなったが、それでも多少は読んでいる。今でも月に数冊程度は読んでいるので、挙げられる本はいくつかあるのだが、夏風と思い出を辿っている今、これよりも適切な答えが見つからなかった。


 以前、とある文房具店のスタッフと話していた際、すすめてもらった本で、その前からもちろんタイトルは知っていたのだが、発売当時は読む気にはなれなかったし、多少強引なレコメンドを受けて、ようやく重い腰を上げる気になったのだ。読もうとしなかったのは、作品の問題というよりは、僕自身の心の問題として。だから実際に読んだのは、そこからもっと時間の経った、割と最近だ。


「そっか、じゃあ私も読もうかな。文庫がどかんと平積みになっていたから。まだまだ人気、ってことだね」

「良かったら、貸そうか」

「それはいいかな、まだ」

「まだ?」

「ほら、今の私たちの関係値として」

 それ以上は深く聞かなかった。レジに行き、カバーを巻いてもらい、彼女が文庫本を受け取る。


「そう言えば」

「そう言えば?」

「さっき、国崎くんからラインが来てて、日比野くんに伝えてくれ、って」

「何」

「今日のラッキーアイテムは『文庫本』なんだって。なんか昔、そんなこと言ってたよね」

「さぁ、そんなこと言ってたかな。もう忘れちゃったよ」

 僕がとぼけると、彼女が見透かすように笑った。

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