伝えたい言葉ほど伝わらない

 冬華と別れた場所は、大学の図書室だった。僕たちが大学の四回生の夏だ。

 図書室が別れの場所として適切なのかどうかは分からないが、僕は振られる側だったので、そんなことを考えても意味のないことだった。冬華がそこでいい、と考えたのだから、そこで良かったのだろう。


「一途すぎるのが、あなたの悪いところかもしれない。だってその想いを向けられない相手は惨めな気持ちになるしかないから。でも向けられた相手にとっては、良いところか。そのひとが羨ましいね」


 別れを切り出した冬華は、僕にそんな意味深なことを言った。僕は冬華に夏風のことなど、一言も話したことはなかった。だから知っているはずはなく、僕たちの間でのやり取りの中から、気付いたとしか考えられなかった。


 怒っている様子も、責めている雰囲気もなかった。泣いてもいなかった。いつも通りのドライな雰囲気を崩さず、冬華は僕に告げた。だけど外側から見える情報だけが真実とは限らない。もしかしたら冬華は心の中では怒っていたし、責めていたし、泣いていたのかもしれない。


 あの日、僕が何のために図書室に行ったのかは、あまり覚えていない。図書室に行ったのだから何かを読みに行ったことは間違いないはずなのだが、その何かを読む前に冬華が会いに来て、冬華とのやり取りのインパクトで、すべてが吹っ飛んでしまったのだ。僕は吹っ飛ばされて、塵になって、風でどこかへ流されていきたいとさえ思ったが、残念ながら現実は非情で、そういう不条理を許してはくれない。


 冬華から借りた『ノルウェイの森』は、僕のもとに残ったままだ。返す機会を失って、別れた後にわざわざその話をする気にはなれなかった。もしも僕が『ノルウェイの森』を読んでいて、冬華にその感想を伝えていたとしたら、僕たちの関係は変わっていたのだろうか。ふとそんなことを思った。


 大学二回生の夏、確かに僕は『ノルウェイの森』を読みはじめた。だけど途中でやめてしまったのだ。今はそのタイミングじゃない、と何故かそんなふうに思ってしまった。僕が本当に『ノルウェイの森』を読むことになったのは、冬華と別れたあとだ。あんなにも遠ざけていたのに、読まなければいけない、と駆り立てられるように。


 冬華が僕の前を去って初めて訪れた秋、満月が夜空に浮かぶ長い夜に、僕は『ノルウェイの森』を読みはじめた。ベッドサイドのライトをともして、夜明けまで、僕は一睡もせずに、ページをめくる手は一度も止まらなかった。途中でやめてはいけないような気がしたのだ。読み終えて、カーテンを開くと、朝焼けが出ていた。僕は泣いていた。涙が止まらなかった。何の涙かは自分でもよく分からなかった。作品に対する感動だけではなかったはずだ。良い作品だが、たぶんそれだけだったら、僕は泣かなかった。冬華から借りた本だったから、というのは間違いなくあるはずだ。


『ノルウェイの森』は八十年代も終わりを迎えた頃、出版された。僕が生まれるよりすこし前の小説だ。青春小説の永遠の名作。そう言ってしまっても問題ないだろう。そのくらい世評の高い作品だ。


 物語はハンブルク空港に着陸した飛行機の機内で、三十七歳の〈僕〉が、二十歳を控えた十八年前の秋の記憶を回想している場面からはじまる。草原の風景。直子との記憶。『ノルウェイの森』は、愛し合う、と表現するにはすこし複雑な、だけど、特別な関係のふたりの軌跡を静かな文章で綴り、そして青年の喪失を描いた小説だ。チープな、どこにでも落ちているような感想しか出てこないが、そう思ってしまったのだから仕方ない


 高校二年の時に出会った直子は、〈僕〉の唯一の友人だったキズキの恋人で、彼らは幼馴染だった。キズキ高校時代に死に、やがて直子は心を病んだことを理由に大学を休学し、京都の療養所で過ごすことになる。ふたりだけでなく、同じ寮に住む年上の東大生の永沢や療養所での直子のルームメイトのレイコさんなど、印象的な登場人物たちが脇を固めている。


 そういった印象的な登場人物と重なり合う人間は、僕の周囲にはひとりもいない。僕が、作中の〈僕〉と似ているわけではない。

 なのに、ここには僕がいる、と思ってしまった。


 そして、たぶん、そう感じた人間は僕だけではなく、この世界に何万人といるだろう。ある程度の年齢をこえて。そもそも、だからこそ、『ノルウェイの森』は大ベストセラーになったのだ。だけどそう思ってしまったのだから仕方がない。


 ふと、誰かに感想を伝えたい、と思った。例え、チープな感想だね、と笑われたとしても。適当に誰かを捕まえれば、聞いてくれるひとはいるだろう。もちろん、そういうことではない。誰かに伝えたい、と思いながら、誰でもいいわけじゃないのだ。


 感想を伝えるだけが読書という行為ではない。もちろんそんなこと分かっている。うまく言葉にまとめられないほど強く感動しているのに、なんで言葉にする必要がある。もちろんそんなことも分かっている。なのに、伝えるべき、届いて欲しい相手がそこにいないのは、思いのほか、寂しい。


 僕は『ノルウェイの森』を読んだ翌日、冬華に一通のメールを送った。送れなくなっていることはなく、しっかりと向こうに届いてくれた。


『今更だけど、借りてた本、読んだよ?』

『ノルウェイの森? 本当に今更だね』

 苦笑している冬華が目に浮かぶ。


『これも今更だけど、返そうと思っているんだ。本来の持ち主の場所に』

 手渡した時、一言だけでもいいから、感想を伝えようと考えていた。別によりを戻したいなんて思っていたわけではない。どちらかと言えば逆だ。あとで気付いたのだが、僕は綺麗に別れたい、と考えていたのだ。たぶん自分自身を守るために。僕は本質的に嫌われることへの恐怖があったのだ。そのことを自覚した時、僕はなんて汚い奴なんだろう、と思った。


 冬華は僕の心を見抜いていたのかもしれない。実際にどうだったかは、言葉からだけでは判断できないのだが、その可能性は高そうだ。


『別にいいよ。特別、大事な本でもないから。必要になったらまた買えばいいだけだし、ね。せっかくだからあなたのほうで持っておいて。面白かったなら、何度も繰り返して読むといいよ。ほら、その話の主人公も確か、気に入った本を繰り返し読むタイプだったでしょ』

『分かった』

『あと、ごめん。もう連絡してこないで欲しいな。私は、あなたが思っているより、強い人間じゃないんだ』


 そこで本当の意味で、僕と冬華の関係は終わったのだ、と僕は思っている。

 そして冬になった。僕は十一月になって、これも今更か、というように就職活動をはじめた。大体、この時期に就職活動をはじめようなんて人間は、特別な事情があったりするものだ。研究に没頭していて忙しかった、とか、僕みたいなふらふらしている人間は、そのままフリーターになったりするので、ここからいきなり、初めての就職活動を、なんて稀だ。いや僕が知らないだけで、実は意外といるのかもしれない、と言い聞かせて、残っていた企業の中から何社か受けてみた。


 その中のひとつが、僕は拾ってくれた。北陸にあるちいさな文具メーカーだった。新潟から近いのも、僕にとっては良かった。就職が決まったあと、僕はひとりで北陸を旅行することに決めた。電車に乗って、石川、福井、富山の三県をあてもなく、歩いてみる。それだけの旅行だ。観光名所に行くとかではなく、ただその土地を歩く。道なんてどこも同じだと思うだろうか。意外とそんなことはない。似ているようで、どこか違う。最後に選んだのは、福井だ。


 福井の土地を踏んだ時、僕は五十嵐の言葉を思い出した。彼らは、福井の自殺の名所を目指していた、と。もちろん僕はそこに行く予定もなかったのだが、それでも思い出さずにはいられなかった。


 そうやって僕の卒業旅行は終わった。

 特別なことは起こらなかった。別にそれで良かった。特別なことなんて、こっちから無理に起こしにいくもんじゃない。


 僕の大学生活が終わった。

 止まっていた僕たちの時間が動き出したのは、そこから三年後、僕たちは二十五歳になっていた。

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