僕たちはキスをする。七年振りに

 書店の隣にあるコーヒーショップで、僕たちは対面するように座った。夏風の前にはアイスコーヒー、僕の前にはカフェオレが。お互い無意識に選んだのだとは思うが、飲み物まであの時とまったく同じだ、と思って、僕は思わず笑いそうになってしまった。表情を見る限り、彼女も気付いているみたいだ。


「初デートの場所だって。まぁあの頃とは、お店の名前も変わっちゃったけど」

「初デート?」

「私も意識はしてなかったんだけど、泳ちゃんに言われたんだ。でもなんで、泳ちゃんは私たちがここで一緒にいたことを知ってたんだろう」

「さぁ、何のことだろう」と僕はまたとぼけてみた。そんな僕を彼女がじっと見る。「知ってて言ってるだろう。水野なら、そこまで言ってるはずだよ」

「バレたか。さすが幼馴染同士、付き合いの長さが違うね」

「さっき時間と心の距離は別だって自分で言ってたじゃないか」

「まぁ、そうなんだけどね。ちょっと悔しくなって」


 夏風が紙容器のカップを口もとに運ぶ。記されている店名のロゴも変わっている。以前、ここに入っていた全国チェーンのコーヒーショップは撤退し、今はあまり聞き馴染みのない名前のお店になっている。時代の流れ的なものなのか、それともこのお店特有のことなのかは分からないが、プラスチックだった容器も、紙製になってしまった。


 夏風が続ける。


「だって、泳ちゃんともここでデートをしたわけでしょ」

「デートじゃないよ。きみの話になったんだよ。もう時効だから言うけど。ほら、あの頃、きみを目の敵にしていたから」

「まぁあれに関しては、私が悪いからね。プールの底に横たわる女……ってもしかしたら、母校では都市伝説にでもなっているかもしれないし、ね」

「なってるかもね。なってそうだ」

「笑わない。私の黒歴史なんだから。まぁ私だけじゃなくて、安達くんにとっても、結構な黒歴史か」


 久し振りに聞く名前に思わずどきりとする。安達は今どこで何をしているのだろう。途中までは知っている。


「いや、良い思い出になったんじゃないかな」

「プールでの失恋が? プロ野球選手にまでなった男が?」

 安達は高校を卒業した後、西武ライオンズにドラフト指名された。その時、結構な騒ぎになったので、僕ももちろん知っている。ただそのあと、彼の話を聞くことはなかった。僕がプロ野球を熱心に追うファンだったとしたら、その後を知ることもできたのかもしれないが、残念ながらそこまで興味を持つことはできなかった。もし仮にこれが国崎だったなら、こまめに確認していたかもしれない。ただ僕は結局、安達とは一言も会話をしないままだったのだ。僕と夏風を繋ぐうえで、野球部と安達は切り離せないのに、僕を繋ぐうえで、となると、その縁はあまりにも薄くなってしまう。


「プロ野球選手になろうが、あの時はただの高校生だよ。失恋は中々につらいはずだ」

「まぁ、それもそうか」


 その後の安達がどうなったのかを夏風は教えてくれた。夏風も卒業後、一度も会ってはいないらしいが、それでも元々は仲の良い相手だったわけで、気にはなったのだろう。安達は卒業後、プロ野球選手になり、そのほとんどを二軍で過ごし、去年選手として戦力外になった後は、球団の職員をしながら働いているそうだ。「私が知っているのもその程度だよ。ネットで調べれば分かる程度のことだけ」


 七年の間に、みんなの人生は色々と動いている、ということなのだろう。

 外に出ると、夕暮れの緋が辺りを染めている。


「これから、どうする?」と聞くと、

「学校でも行ってみる?」と返ってきた。

「不審者だと思われるんじゃない」

「じゃあ担任の先生に電話でも入れてみる? こっちに帰ってきた生徒がいるので、挨拶に行ってもいいですか、って」と言って、彼女が学校に電話を掛けはじめた。夏風が掛けるとしたら、僕たちが三年生の時の担任だ。夏休みの時期でも問題なく来ているのだろうか。しかもこんな時間帯に。すくなくとも僕はあまり担任とのエピソードがないので、困ってしまった。

「どうだった?」

 僕の声はちょっとだけ震えていた。


「先生、いいって」

「あんまり話したこと、ないんだよなぁ」

「じゃあ仲良くなるチャンスだ」

「今更、そんなに仲良くならなくても……」

 とそんな話をしつつ、僕たちは学校に向かった。


 かつて清藤学院高校と呼ばれていた僕たちの母校は、別の名前に変わっていた。なんでそんな名前に変わったのか、由来までは分からないが、斜棟館高校、という噛みそうで、強そうな名前に変わっていた。職員室に入ると、「おぉ、久し振りだな」とちょっと老けた元担任の先生が僕たちを迎えてくれた。夏風のことは覚えているみたいだったが、僕のことは完全に忘れているようだった。僕の名前を呼ぶことを避けながら話しているのが分かった。ただこれはお互い様、というやつで、僕も先生の名前が思い出せずに困っていた。


 話を終えて、校舎を出る。ふたりで図書室に行く話も出たのだが、図書室は閉まっていたし、それに今ここに通う生徒は、あまりに我が物顔で色んな場所を出入りする卒業生に対して、いい顔をしないだろう。


「どうだった。久し振りの先生との再会は?」

「名前が思い出せなかった」

「先生も忘れている感じだったね。別の生徒のエピソード話してたし」

「あれは困ったよ。どう反応すればいいか分からない。でも、夏風のことはしっかり覚えているみたいだったよ」

「でもそれは良い意味ではなかった、と思うよ。先生は気を遣って、そのことは言わなかったけど、ね。だって私は問題児だよ。プールの底で一夜を明かしたんだから。今でも退学にならなかったのが奇跡だと思う。実は、ね」

「うん?」

「退学になる可能性もあったらしいんだけどね。先生が説得してくれたみたい。後で知ったんだけど、ね」

 僕たちは歩きながら話す。向かっているのは、学校のプールだ。


「そうなんだ」

「それがなかったら、あなたとこうなる未来も訪れなかったわけだから感謝しないとね」


 プールの門の前に立つ。門は閉まっている。誰かが練習している様子もない。たまたま今日は使われていないか、水泳部がもう存続していないのか、時間帯の問題なのか、あるいはまた事件があって封鎖中なのか、そのどれかは僕にはまったく分からない。


「ここに昔、向日葵の造花が掛けられていたんだ」

 過去を思い出しながら、僕は言った。


「それ、私が昔、先生にお願いしたんだ。ごめんなさい、って意味を込めて。開かれるようになるまで。私から、ってことは内緒にしてもらって」

 七年越しに知る真実だった。


「知らなかった」

「泳ちゃんは知ってたらしいけどね。意外と口の軽い先生で。でも、だからこそ私たちの仲直りは、はやめにうまくいったんじゃないか、って気もするんだけど」


 夕暮れの陽は落ちて、辺りが黒ずんでくる。


「どうする?」と彼女が聞いてくる。

「どうする、って?」

「プールに侵入でもしてみる?」

 冗談めかした言葉だ。


「しないよ」

「うん。まぁそう言うと、思ってた。でも聖地巡礼、というなら、やっぱりこの中も、そのひとつだとは思うんだけどね」

「それは、きみと安達の物語で、僕とは何ひとつ関係のない物語だよ」

「でも、間違いなく地続きにはあると思うけどね」

「だとしても、じゃあ僕が、『侵入しよう』なんて言ったら嫌だろ」

「必死に止めるよ」と彼女が笑う。「さて、次はどこに行こうか」

「じゃあ、ひとつ行きたいところが。と言っても、ここも。地続きにあるだけの場所なんだけど」


 そして向かったのは、桜花高校近くのファミレスだ。電車で次の駅まで行き、そこから歩いてすぐの場所にある。夏風はこの場所に何の思い入れもないので、ぽかんとしている。桜花高校は今でも県内有数の進学校のままで、当時とそれほど変化のない学生服を着た生徒たちが散見される。


「誰か別のひととの思い出と間違えてる? はっ、もしかして浮気?」

 僕たちの関係に浮気という概念は存在するのだろうか、と思ったが、さすがに口に出すのは野暮なので、言わなかった。


「十五の頃、僕には特別な友達がいて」

 特別な友達、という言葉を使う時、僕の口から出たそれは頼りなかった。慣れない言葉を使ってしまって。


「国崎くん、意外にも友達がいたんだね」とくすりと夏風が笑う。

「失敬な」

「ごめんごめん。それで、その友達のこと聞かせてくれる」

 僕ははじめて彼女に、いや誰かに、五十嵐とのことを話す。十八で死のうと思っていた少年の話を、結局、生を選んだ少年の話を。新たな道を歩み出して、今はどうしているかも分からない青年になった話を。そのきっかけとして恋人の事故があった話を。生きてて良かった、と心から思った話を。たぶん僕はずっと誰かに話したかったのだが、言うべき相手が見つからずにいたのだ。


 語り終えた僕を見て、ぼやけた夏風がほほ笑む。


「日比野くん、気付いてないかもしれないけど」

 と自分の目じりを触ってみせた。彼女の真似をするように、僕も触ってみる。


「恥ずかしいな」

「いいんじゃない。どうせ私が見ているだけなんだから」

「だからすこし恥ずかしいような気もするんだけど」

「せっかくだから、飲み物持ってくるよ」と言って、夏風がドリンクバーのコーナーに向かった。

 そして夏風が持ってきたのは、コーラだった。


「私の知らないところで、そんなことがあったんだね」

「話したのは、きみが初めてだよ。……いつか結婚したら電話するよ、って彼が言ってたんだ。でも今のところ、連絡はないね」

「そっか、じゃあ逆に日比野くんが結婚した時にでも、こっちから電話してあげれば」

「僕のほうじゃ意味が……っていうか、そもそも結婚する相手なんて、僕にはいないよ」

「へぇ、いないんだ」そこで僕たちの言葉は止まり、無言の時間があった。「っと、冗談はこれくらいにして、そろそろ出ようか。ほら、もう真っ暗だよ、外」

 支払いを終えて外に出る。夜の空気は暑かったが、意外にも爽やかだった。


「どうする。もう帰る?」と僕は言うと、

「まだすこし。公園に戻ろうか」と返ってきた。「このタイミングを逃して、明日になったら、また会えない時間が続いてしまいそうだから。これは私の予感に過ぎないんだけどね」

 夏風が僕の手を取る。


 僕たちはスタート地点の公園に戻った。


「今日はありがとう」

 公園灯が僕たちを照らしている。公園には僕たち以外、誰もいない。というか、こんなちいさな公園で、夜に誰かがいるようだったら、場所を変えていたはずだ。


「いえいえ、こちらこそ。楽しかったよ」

「いや、それだけじゃなくて」

「何?」

「夏風も共犯者だったんだろ。国崎と。今日、国崎に騙されていた振りをしていたけど」

「分かるか」

「分かるよ。だって、この場所をわざわざ選ぶなんて、国崎が考えるはずがないんだから」


 夜気が、木々を揺らした。


「ごめんね。嫌かもなぁ、って思ったけど、日比野くんが失業中って聞いて、何かできないかな、って。国崎くんにお願いしちゃった」

「国崎なら喜んでやりそうだ」

「励ましたかったのと。あと……私の個人的な感情もあった」

 僕の周りにいるひとたちはみんなお節介ばかり焼くんだな、と思った。僕もすこしはそうなれたら、なんて気持ちになったりもするが、これは生まれつきの性格だからどうしようもないだろう。


「それは深く聞かないほうがいい?」

「昔から思っていたことだけど、心の触れたくない部分に触れてこないのは、羨ましいくらいの日比野くんの美点であり、魅力だよ。でもあなたになら聞いて欲しい、とそう思いながら話している時は、寂しくなる。とても」

「人間関係っていうのは、難しいんだよ」

「そう難しいんだよ。だから、くっついたり、離れたりする」

 そして、いつでも再会できる程度の距離にお互いがいたのに、僕たちは七年も掛かってしまうわけだ。勝手に想像して、心の距離を遠く離してしまう。


 昔の記憶がふいによみがえる。目の前のブランコには、あの時、ラムネの瓶が二本置いてあって、僕たちを見ていた。今は当然、そんなものはない。唐突に、この世界には僕たちふたりしかいないかのような感覚に囚われた。そうであってくれても別に構わない、とさえ思った。


「会いたかった。ずっと。別にその結果として、恋人同士にならなかった、としても」


 後半の声は消え入りそうだった。夏風のほおから涙がつたって、それに気付いたのか、彼女は公園灯を逸れて、夜闇の中に自分の姿を混ぜた。涙を見せたくなかったのだろう。さっきファミレスで、『いいんじゃない。どうせ私が見ているだけなんだから』と言っていた彼女が。


『そっか。まぁそれはそれとして、私は、あなたたちふたりに話し合って欲しい、と思っている。率直なあの時の気持ちを、ふたりきりで。私は日比野くん、あなたの幼馴染で長い付き合いで、彼女とは決して付き合いが長いわけではないけれど、親友だと思っている。だからそれなりにあなたたちの性格を把握している自覚がある。大事な時に、大事なことを言えない性格だ、ってね。仮に本当の訣別になったとしても』


 これはかつて、水野が僕に言ったことだ。『お互いの歩みを止めるだけだ』と僕は水野にも、自分の心の中にも言い訳して、夏風に会おうとはしなかった。怖かったのだ。その恐怖を隠そうとして。水野は僕の感情にも気付いていて、夏風の心も知っていて、そのうえで、あんなふうに言ってくれたにも関わらず。夏風の涙を見て、初めてその事実が本当の後悔に変わった。


「ごめん」

「謝らないで」と夏風が涙声を震わせる。「結局のところ、会わないことを選んだのは私なんだから。こっちから会わないことを選んでおいて、会わなければ会わないでヒステリックに喚き出す。なんて嫌な性格なんだろう。あぁヒステリックに喚き出す、は別に比喩じゃないよ。だいぶ泳ちゃんには迷惑を掛けちゃったから」

 夏風がベンチに座る。暗がりの中で、はっきりと彼女の顔は見えない。


「また、会ってくれますか」

 と彼女が言った。

「会いましょう」と彼女の丁寧になった言葉につられるように、僕は言葉を返した。「だって僕はまだ、きみから、『君の膵臓をたべたい』の感想を貰ってないから」


「何それ」

「あの日の感想会は、まだどっちも終了宣言をしてないからね」

「あぁそう言えば、そうか」と夏風もなんとなく照れくさくなったのか、話を変えるように、「どんな話だった?」と聞く。


「本好きの高校生の男子が、『共病文庫』っていう膵臓に病気を抱えた余命幾許もないクラスメートの日記を見ちゃうところからはじま……あぁ、この話はやめとこうか」

「なんで」

 と彼女が笑う。


「だっていつかふたりで感想会をするんでしょ。その時に話せばいいかな、と思って」

「それもそうだ。今のうちに話しちゃうと、やっぱりいいや、と気が変わったあなたに逃げられちゃう可能性もありそうだもんね。約束だけにとどめておくのが一番いいのか」

「逃げないさ」


 僕もベンチに座る。

 涙で顔をぬらした彼女に近付く。彼女が目を閉じる。


 僕は夏風とキスをした。七年振りに。

 二度目のキスだ。

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