『野菊の墓』を読んだふたり

『野菊の墓』は短編小説くらいの長さの小説で、伊藤左千夫が明治三十九年に発表した最初の小説だ。


 葛飾区柴又から千葉県の松戸市下矢切へと渡る渡し場が舞台になっている。互いに想いを寄せ合いながらも、ふたつの年の差や周囲の無理解によって、離れざるをえなかった少年と少女を描いた悲恋の名作として知られている。小雨の降る矢切の渡で、それが生涯の別れになることも知らずに、民子と離れて、中学校へと行く政夫、想いがストレートに伝わってくる表現が魅力的な作品だ。十五歳の政夫と十七歳の民子、たった二歳の違いが、恋の障害になってしまう、というところに、時代性は感じるものの、そこにある登場人物たちの想いは普遍的だ。


 僕が感想を告げたのは、高校の図書室。僕が感想を言う場所として夏風が選んだのが、そこだったのだ。六月二十日。夏風と書店で会ってから、五日経っていた。六月十七日の放課後に、夏風から手渡され、僕は三日で「野菊の墓」を読んだことになる。短い小説なので、慣れたひとならば、一時間もかからないのかもしれないが、普段小説に読み慣れていない僕にとっては、結構大変だった。


 高校の図書室に入るのは、高校生活の中で三度目だ。一度目は学校案内の時、二度目は用事で図書室にいた担任の先生を呼びに行った時に。司書の先生がひとりいるだけで、周りには誰もいない。ちいさい図書室で、利用するひとはほとんどいない。司書の先生に聞こえないように、夏風が、「聞かれたくない話をする時の、穴場なんだ。そういう意味でも、結構いいところだよ」と言った。


「そんなに聞かれたくない話でもないと思うけど」と僕は返す。これも聞こえないように、ちいさな声で。一応、気を遣って。

「女の子としゃべってた、って冷やかされるでしょ」

「そんな中学生でもあるまいし」

「いや、中学生も高校生も考えることにたいした差なんてないよ」

「まぁ、それはそうだけど」

 と、そんな話をしつつ、夏風が僕に感想を催促してくる。僕が必死に考えてきた感想を伝えると、「なんか真面目だね。読書感想文みたいだ」と彼女が笑った。「そんなに気負わなくてもいいのに」


「気負わないといけないくらい、慣れてないんだよ。じゃあ、夏風も聞かせてよ。どんな感想なのか」

「えっ、私。私かぁ。考えてなかったな」

 お互い言い合うんじゃなかったのか、と突っ込みたいような気持ちになった。こっちは何度か紙に書き起こしては消すを繰り返したのに。


「いや、そこはお互い、さ」

「あぁそうだね。私は、そうだな。私がもし政夫だったら、あのお母さんにキレると思う。暴れるかな。『おい、くそばばあ、俺の大事な民子になんてことしちょるんじゃ、ごらぁ』とか言っちゃうかも。良いでしょ、あのお母さん、自分で自分のこと、『悪党』だなんて言ってるんだから」

「政夫の性格が変わり過ぎてるよ。そもそも、政夫は、母親に、『俺』なんて絶対に使わないでしょ」


 政夫の母は嫌がる民子を嫁に行かせ、その嫁ぎ先で、流産し、その後の経過も良くなく、亡くなってしまった、という心が苦しくなる結末を迎える。


「私の感想は、現代語訳版『野菊の墓』なんだよ」

「意味が分からない」と返しつつ、僕は思わず笑ってしまった。「じゃあ、民子の立場だったら?」

「うーん、呪い殺すかな。『大好きなひとから、私を切り離しやがって、くそばばあ』って」

「怖いな」

「私を主人公させると、こうなるんだよ。これくらい気軽でいいんだよ、感想なんて、ね」

「だけど、夏風、ならすこし分かるような気がする」

「どうして」その言葉の時だけ、彼女が問い詰めるような口調になった。「どうして、そう思うのかな。日比野くんは」


 疑問形のようでありながら、夏風は僕の答えを知っているかのような口振りだった。


 そういう子だから、きみは――。

 直接聞きたい気持ちを心の中で押しとどめながら、「なんとなく、だよ」と僕は鼻の頭を指でかく。


「そうか、日比野くんの嘘をつく時の癖は、鼻を指でかく、なんだね。今度から覚えておこう。……大丈夫。日比野くんは自分で思っているよりも、嘘が下手だから」

 何が、大丈夫、なのか、さっぱり分からなかった。


「本当に嘘なんて」

「じゃあ、私が言い当ててあげようか? 『だって、この女は水のないプールの底に向かって、ダイブするような女だからな』だ」

「いや、そこまでは考えてなかったよ」

「でも、やっぱりこの辺のことを考えてたんだ」

「……まぁ、正直、否定はできない、かな」

 そして僕はこの噂を全面的に信じているわけではない。一部分は真実なのかもしれないが、噂の中には大抵、多くの嘘が混じっているものだ。


「知りたい?」

「いや、別に。隠し事がひとつ増えても大変なだけだから」

「誠実だね。隠し事にしてくれるんだ。深く突っ込んで聞こうともしないし」

 だってそこまでの仲じゃないから、という言葉は口にしなかった。自分自身の心なのにはっきりとはせず、薄い靄がかかった感覚ではあったが、たぶん僕はこうやって夏風と関わりを持てることがそんなに嫌ではなく、繋がりが途絶えてしまうのは寂しいと思っていたのだろう。


「じゃあ、こっちも言わないようにする」

 彼女がにこりとほほ笑む。


 夏風夏鈴が校内に併設されたプールの水槽で倒れていたのを発見されたのは、六月はじめの朝のことだ。厳密には倒れていたわけではなく、水の張っていない水槽の底で眠っていたらしい。顔を怪我した状態で。そんな大怪我ではなかったそうだが、表情を変える時は、いまもどこかぎこちない。その事故を聞いたから、なんとなくそう思ってしまうだけなのかもしれないが。時折、変わり者、という評価を受ける夏風だが、その出来事はちょっとした騒動となり、事情を聞かれた夏風は、『つい出来心でプールに忍び込んで、足を滑らせて、顔からプールの底に突っ込んでしまいました。ごめんなさい』と答えたそうだ。


 夏風の言葉を真実だと捉えている人間は、教職員の中にも、生徒の中にもいなかったはずだ。


 だから色々な噂が広まり、そこには必ず尾ひれが付く。犯罪行為に加担した、なんてものもあった。だけど広がれば広がるほど、おそらく真実とはかけ離れていっているはずだ。信用できるのは、深夜にプールに忍び込んだのは夏風ひとりではなかった、という噂くらいだろうか。ひとりでそんな奇矯な行動を取る、というのは中々、理解ができない。


 この騒動がきっかけで、今年の夏、学校の屋外プールは使用中止になり、僕自身はそれほど困らないのだが、水泳部は練習施設を奪われた格好になり、その憎しみは夏風のほうに向いているみたいだ。水泳部のみんなも翳りゆく夏に心が荒んでいるのだろう。憎しみを露骨に向けることには納得できないが、気持ち自体は理解できる。


 学校側の対応は過剰反応にしか思えないのだが、保護者会の声と権力だけが大きい誰かの鶴の一声で決まったのだ、とか。今はプールの入り口門の上部分に侵入できないために、鉄線が絡ませてある。正直、どこまで効果があるのかは分からない。本気に侵入しようと思ったら、それくらいは侵入可能な気もする。


「じゃあ、この話はこれで終わりにしよう」と僕の言葉に、

「うん。そうだね」と返ってくる。「あぁ、話が逸れちゃったね。『野菊の墓』の話をしてたのに。うん、私は、野菊みたいに可憐にはなれそうにないね。三回くらい人生をやり直したら、なれるかな」

「なりたいの?」

「なりたくはない、かな。だって……」そこで彼女が一度、言葉を止めた。わずかの沈黙のあと、口を開く。「私は別に、死にたくないし。そうだ、感想の続きがあった」

「感想の続き?」

「うん。私、恋人とか大切なひとが死ぬ話は嫌いかな。悲しすぎるから」

 そう言うと、夏風が立ち上がり、文庫の並ぶ書架のほうへと歩き出した。そして一冊の本を手に取り、戻ってくる。『野菊の墓』ほどではないが、厚さの薄い文庫本だ。ボリス・ヴィアンの『うたかたの日々』だ。


「じゃーん、今回のラッキーアイテム。次の課題図書だよ」

「課題図書?」

「一回きりなんて、もったいないでしょ。せっかくだから、短くても夏の間くらいは、こうやって感想会を、ね」

「そんな文芸部じゃないんだから」

「私、文芸部に憧れがあったんだよね」

「じゃあ、入ればいいじゃないか。文芸部」

「うちに文芸部なんてないでしょ」

「そうだっけ」

「そうだよ」

 確かにそう言えば、聞いたことはない。


「じゃあ、次はこれが課題図書。私はもう読んでるから、日比野くんが読み終わった時点で、スタート」

「で、この本は?」

「肺の中で睡蓮が生長するお話だよ」

「抽象的な」

「まさに、そういう話だから。これも、私の〈大切なひと〉が教えてくれたんだ」

 そう言うと、夏風は自分自身の胸に手を当てる。〈大切なひと〉という言葉にした時、また彼女のその表情が翳る。


 夏風は、〈誰〉の話をしているのだろう。


「分かった。じゃあ、また読んでくるよ」

「ふふ、ありがとう。……で」

「で?」

「本の借り方、分かる?」

「分からない」

「じゃあ、教えてあげるよ」


 僕は『うたかたの日々』をカバンに入れて、校舎を出たところで、バスを利用する夏風と別れる。夏風はバスを利用したり、自転車を利用したり、電車を使ったり、と登下校の手段を使い分けているそうだ。大雪でも降らない限りは、頑なに自転車しか使わない僕とは大違いだ。夕暮れの陽に黒が混じり、空は濁りはじめている。正門に生徒もほとんどいない時間帯なので、注目を浴びることもなく、ほっとした。


 ひとり駐輪場へ行くと、後ろから声を掛けられた。

 振り返ると、同級生で別のクラスの、水野泳がいた。


「へぇ、仲が良いんだね。夏風さんと」

 水野にはめずらしく、そこには冷たい響きが含まれていた。

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