あれはうたかたの日々だったのか?
水野泳は彼女を憎んでいる
クロエはベッドに横たわっていた。モーヴ色の寝巻きを着、上からピケ織のサテンの軽いオレンジがかったベージュ色の長い部屋着をはおっていた。彼女は周りをグルっと花に取り囲まれており、中でも蘭とバラが多かった。その他にもあじさいとかカーネーションとか椿とか、桃やアーモンドの花がついた長い枝やいく抱えものジャスミンなどもあった。胸ははだけており、右の乳房のアンバー色の上に青い大きな花冠が浮き出ていた。頬骨のところはポーと赤く、目は輝いていたが乾いていた。そうして彼女の軽い髪の毛はシルクの糸のように電気を帯びていた。――――ボリス・ヴィアン「うたかたの日々」(伊東守男訳)
五日前に、別の女の子と一対一でテーブルを挟んで座っていた場所に、今日は他の女の子が座っている。僕と水野泳は先日、夏風とふたりで話した書店併設のコーヒーショップにいた。
「ちょっと話したいことがあって、ねぇ、帰り道、本屋にでも寄っていこうよ」
と言われた。そこを選んだのはおそらく偶然で、他意はなかった、とは思うが、なんでよりにもよってそこに、と断りたくなったのは事実だ。とはいえ断るのも変な気がして、僕は曖昧に了承したのだ。そして現在、コーヒーショップで、水野が選んだ席まで、あの日と一緒だった。なんで本も買わないくせに、こんな場所を選ばないでよ、と外に吐き出せない内心のもやもやはある。
レジにいるスタッフさんも同じだ。貼りつけた笑みに、『あっ、この子、こんな年齢でもう浮気か、これだから最近の若い子は』と相手の内心なんて分かりもしないのに、そんなふうに思われている気がして仕方がない。叶うことなら言い訳したいが、もちろんそんなことできるはずもない。
「女の子と、一対一だよ。緊張しない?」と水野が言う。
「さすがに幼稚園の頃から毎日顔を合わせていたような子を、異性として意識はしない」
「青春ドラマとかだったら、幼い頃の結婚の約束とともに結ばれたりするのに、ね」
「だって、青春ドラマの登場人物じゃないからね。いまの僕たちは。もっと現実的な存在だ」
「現実は非情だ」
「妹に異性としての恋愛感情なんて抱かないのと一緒だよ」
「妹もいないのに? なんで分かったように言えるの」
「なんとなく想像で話してるだけだよ」
「でも、妹との禁断の恋なんてのもあるでしょ。家族との秘密の恋」
「恋愛小説か恋愛映画なら、ね。でも、恋愛小説でも恋愛映画でもないだろ、いまの僕たちは」
「現実は非情だね」と水野がかすかな笑みを作る。
水野泳はたぶん僕の人生において、もっとも気軽に言葉を交わせる異性だ。家が二軒しか離れていない近所で、幼稚園から高校まで、ずっと一緒の学校に通っている。いわゆる幼馴染だ。思春期のはじまった小学生の高学年くらいから、中学の終わりくらいまでの時期は周囲の視線や冷やかしを受けることへのおそれみたいなものもあって、話さない時期もあったが、基本的に仲は悪くない、と僕は思っている。
あくまでも遠慮のない、友人関係として。
「そう言えば、今日、部活は……」軽々しく口にしてしまって、やばい、と慌てて言葉をのみ込もうとしたが、遅かった。禁句だったかもしれない。
「終わってしまったよ。私たちの夏は、とっくに、ね。まぁ知らなかったとは思うけどね」
三日前に、水泳部の県予選は終わっている。運動部の大会の日はそれとなく耳には入ってきても、運動部ではない僕にはそれほど重要じゃないから、簡単に右から左へと流れていき、こうやって会話のやり取りで失敗してしまう。何気なく、ぼんやりと生きているから。
「ごめん」
「いや、意外とそんなもんだよ。他の部活のことなんて。特に日比野くんは、どこにも属していないんだから」
決して僕を責めようとこんなことを言っているわけではないはずなのだが、言葉にはどこか棘があり、詰められているような気分になる。こういう水野はめずらしい。数年に一度、というイメージだ。
水野は水泳部だ。母親も有名な水泳の選手で、彼女は小学生の頃から水泳をやっている。水泳をすることを運命づけられたような名前を持ち、場合によっては強烈な反抗を生みそうなものだが、本人は楽しんで水泳に打ち込んでいるみたいだ。とはいえ、水野は母親ほど有名な選手なわけではなく、うちの高校もそこまで強豪というわけではない。
それでも、どんな選手であろうが、真面目に三年間もひとつの部に所属していれば、最後の大会に懸ける想いはあるはずだ。どこかの部に所属しているわけでもないふらふらした僕が、言えることではないけれど。
「大変だったね」他人事のような言葉しか出てこないが、それしか言うことが思いつかなかった。僕の口調に、水野は気にした様子もない。
「そう、なんで、プールで、事故、があったから、って」言葉が途切れ途切れになる。事故、と言葉にした時だけ、水野の語調が変わった。「どうして、プールそのものを取り上げるんだろうね。私たちから」
「それは、本当にそう思う」
「あの一件があってからの期間は、他の高校の練習施設を貸してもらってたんだ。でも練習は他の学校でできるから、なんて言っても、そんな簡単なことじゃないよ」僕の軽口を無視して、水野が続ける。「環境が変われば、ストレスだって溜まるし、他校の水泳部の生徒に見られながらする練習も気持ちいいものじゃないしね。こんな一番大事な時期に」
僕は相槌の言葉に困ってしまって、目の前のカップを手に取る。先日同様、中身はカフェオレだ。前よりも、どこか苦みを感じた。気のせいかもしれない。たぶん気のせいだろう。
「そうか……まぁ、そうだよね」
「だから、私は夏風さんのことが嫌いなんだ」
これを言いたくて、水野は僕をこの場所に誘ったのだ、と確信した。何故かと聞かれると困るし、付き合いの長さから分かる感覚的なものとしか言いようがないのだが、絶対に間違っていない自信があった。
「どうして……」
「そんなの、今、言った理由に決まってるでしょ。もちろん嫌いを表明するなんて、褒められたことでもないし、嫌ったところで何かが改善するわけでもないんだけど、感情はそう簡単に抑えられるわけでもないからね。私、一年の時、クラス一緒、でさ。元々、好きじゃなかったんだけど、今回の件で、明確に嫌いになった。私、怒ってるんだ。めずらしいくらい。そりゃ彼女だって、すこしは反省しているのかもしれないけど」
確かに水野が怒る姿を見るのは、めずらしい。そしてその怒りは激情に任せた叫びではなく、静かで冷たく、淡々としていた。
「いや、僕が、どうして、って聞いたのは、そういうことじゃなくて」
「『なんで、僕に言うんだろう』っていう意味? だとしたら、それこそ、あなたが一番知っている、と思うけど」
水野がテーブルの手元の何もない場所から、何かを掴むふりをして、そして僕にそれを差し出すふりをした。僕が夏風から、『野菊の墓』を受け取った場面だ。
「ごめんね、実は見ちゃったんだ。デート現場。私も何気なく、あの日、ここに寄ったんだ。試合前の緊張で、家に帰るより、どこかに寄っていきたくて。そうしたら、見覚えのある顔がテーブルを挟んで、楽しそうにしてたから。こんな近場なんだから、誰かの目はつねにあるもんだよ」
「あれは、偶然会っただけだよ。デートなんかじゃなくて」
「偶然会ったわりには、かなり長い時間、一緒にいて、親密そうだったけど、ね」
今は実際、そんな場面ではないし、僕自身、そんな体験はしたことがないのだが、浮気を問い詰められているような気持ちになってしまった。ただ僕としては何も悪いことをしてないのだから、堂々としていればいいのだけれど、見慣れぬ水野の怒りに、こっちの自信もなくなってきてしまう。
「いや、その」
すると、水野がちいさく舌を出した。
「……なんてね。冗談だよ。そもそも日比野くんを責める理由も、資格も、私にはないし、ね。それに、夏風さんが嫌い、っていうのも嘘。だってあれは封鎖を決めた偉い大人たちが悪いんだから。ちょっと、からかってみたくて。だから今の話は、何も気にしなくていいよ」
『夏風が嫌い』という嘘は、それこそが嘘だ、と思った。嘘、というよりは自分自身に言い聞かせているように思えた。慣れない負の感情に、水野自身が戸惑っているのかもしれない。
お互い無言のまま、書店を出る。
帰り道は一緒なのに、僕たちはそこで別れることになった。気まずい空気に耐えられず。
別れ際、水野が言った。
「ねぇ、なんで夏風さんは、あの日の夜、プールに忍び込んだのかな。知ってる?」
「いや、知らない」
「今度、聞いてみてよ。仲、良いんでしょ」
「いや、そんなに」言い添えそうになってしまった、まだ、という言葉は隠した。
「ふーん。じゃあ、もし聞く機会があったら教えて欲しい。もしかしたら、私も今の気持ちを、私なりに飲み込めるかもしれないから」
たぶん水野は飲み込みたいのだろう、と思った。
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