ビンタの目撃で出会ったふたり

 目の前には、夏風がプラスチックのコーヒーカップを持って座っている。

 僕が夏風夏鈴という夏に愛されるために生まれてきたかのような名前を持つ女子高生を初めて認識したのは、高校二年の夏だった。もう高校野球の夏予選がはじまっていたので、今よりももうすこし後だったはずだ。彼らの結果がどうなろうと、野球部とは何も関係ない僕にはどうでもいい話のはずなのだが、夏風との出会いに野球部がすこし関わっているせいで、野球部の存在が頭の片隅に貼り付いて、離れないようになってしまった。とても残念ながら。


 あの日、夏休みも近付いてくる中で、僕は教室に残って、テスト勉強をしていた。普段から僕はしっかりと予習復習をする、テスト勉強に真面目なタイプではなかったのだが、そういう生徒に限って、ある日急に、焦燥感に駆られて、取って付けたように勉強に精を出す時がある。あの時の僕はまさにそうだったのだ。結局、三日坊主に終わってしまったのだが、これがなかったら、夏風との出会いは一年近く遅れていたことになる。


 校舎を出て、帰ろうと駐輪場に向かおうとした時、

 連れ立って歩くふたりの女子生徒を見掛けた。遠くからで表情までは分からなかったのだが、仲良しふたりが歩いている、という雰囲気ではなかった。険悪なものを感じた。近寄るべきではない、と僕の本能が危険を訴えていたにも関わらず、僕はふたりを追い掛けることにした。僕は普段、こういうことは積極的に避けるタイプだったので、僕自身、自分の行動に驚いていた。


 校舎裏はカツアゲの定番場所だ。あくまで物語の中では。ただ実際そんなに校舎裏が悪事の場所として使われることはない。いや、僕の個人的な経験に基づく話を、ない、と断言してしまうのは良くないだろう。すくなくとも僕は見たことがないし、僕の周りでもおそらく、ない、と表現しておくのが穏当な気はする。


 校舎裏にふたりの生徒がいる。


 どちらとも顔は知っていて、話したことはないが、同学年の女子だ、ということは分かる。


 ぱぁーん、とからりとしていたその日の夏の風にとけ込むように、乾いた音が鳴り響いた。


 僕の記憶にある限り、初めて見る女の子が女の子に暴力を振るう瞬間で、見てはいけないものを見てしまった、と僕はこの場にいることを後悔してしまった。じゃあすぐに離れればいいのに、僕は魅入られてしまったように、その場から動けなくなった。


 ビンタした女子生徒は赤いジャージを着ていて、確か野球部のマネージャーだったか何かをしていたはずだ。国崎と話しているところを見たことがある。もうひとりの学生服を身にまとった女子は本当に知らない。顔を知っているだけだ。


 それが夏風夏鈴で、彼女のほおは真っ赤になっていた。

 だけど泣いていたのは、ビンタしたほうの女子で、その女子が何かを叫んだ。泣きながら叫ぶその声はいびつな音となって、僕の耳に届いた。何を言っているのかまったく分からなかった。とりあえず理解できるのは、その自分が持つ怒りのすべてを、夏風に向けているのだろう、ということくらいだ。


 その女の子は夏風の言葉も待たずに、いなくなってしまった。

 陽光を受けてきらめいた入道雲が、頭上から僕たちを照らしていて――。


「ねぇ、何、ぼんやりしてるの。対面に相手が座っている時に」

 突然、僕の回想をさえぎるように、彼女の声が飛んできた。コーヒーカップを机の上に置いた夏風が、くすり、と笑う。僕の様子を面白そうに眺めている。確かに目の前に相手がいるのに、無視するかのように過去に思いを馳せるのは失礼な話だった、と僕が反省している姿を見て、また夏風が笑う。


「日比野くんは、面白いひとだね。前から思ってたけど」

 僕たちはいま書店に併設されたコーヒーショップにいる。夏風の前にはアイスコーヒー、僕の前にはカフェオレが。カップにつたう水滴を汗に見立てると、カップもちいさく汗をかいているように見える。アイスコーヒーの隣には、店名のロゴの入ったブックカバーが掛けられた文庫本に輪ゴムが巻かれている。


「あぁ、いや、つい」

「で、何を考えてたの?」

「えっと、国語の小坂先生はなんでいつも授業中、ほうきを持っているのかな、って」

「えっ、あれは『竹刀の代わりだ』って、初めて授業の時、言ってなかった。いや私と日比野くんが初めて授業を受けたタイミングは違うかもしれないけど。小坂先生、元剣道部で、最初は竹刀を持ってたけど、時代の移り変わりに合わせて、ほうきに変えた、ってのも、結構有名な話だよ。なんか親御さんからクレームが来るようになって、って。『昔は称賛されたもんなのになぁ』ってぼやいてたの覚えてるし」

「そうだった、っけ」

「うん。……で、何を考えてたの?」

 意外と真面目に答えてはくれたが、僕の誤魔化しは結局のところ、何の役にも立たなかったみたいだ。


「ちょっと一年前のことを。ほら、初めて会った時の……」

「あぁ、そっちか」

 すこしほっとしたように、夏風が言う。彼女はおそらく、僕が二週間前のことを考えている、と思っていたのだろう。確かにそっちを回想するほうが自然ではある。


「顔を見てたら、急に思い出して」

「あれだ。日比野くんがストーカーみたいに、私たちに熱い視線を向けていた時だ」

「間違ってはいないけど、表現が悪い。語弊を生む言い方だ。あと、断じてストーカーではないよ」

「まぁ、というか、あのあと、私のほうがストーカーみたいになっちゃったからね」

 ビンタされて、ひとり取り残された夏風が何気なく顔を向けたほうに、僕がいて、僕たちは目が合ってしまったのだ。うわっ、やば、どうしよう、と僕は心の中では慌てていたのだが、狼狽えている姿は決して見せたくなくて、もしも彼女のほうから話しかけてきたら、「大丈夫?」と声を掛ける準備はしていた。


 だけど夏風が話しかけてくることはなく、彼女はその場から逃げ出してしまった。

 寂し気な日陰のうえに立っていた無関係な僕だけが、今度こそ完全に、夏の校舎裏でひとり取り残されるような形になったのだ。


 夏風が、『私のほうがストーカー』というのは、この数日後の話だ。

 彼女は僕と会うために、周りのひとに、僕の名前と僕に関する情報を聞き回ったらしい。それこそ変な噂が立ちかねないほどに。その頃は知らなかったのだが、夏風が、『普段は大人しいのに、急に突飛な行動を取り出す子』という周りの評価があったために、実際に変な噂が回ることはなかったみたいなのだが、国崎が、僕と夏風の仲に対して、勘違いをしてしまったきっかけは間違いなくこれだろう。


 ふたたび僕の前に現れた彼女は、

「この前の話、誰かにした?」

 だった。


「もちろん誰にもしてないよ。だって、僕はきみの名前さえ知らないんだから」

「私、私の名前は夏風夏鈴」

「夏風夏鈴?」

「いま、笑ったでしょ」

「いや、笑ってないよ」この時、僕は本当に笑っていなかったので、それはただの難癖だった。まぁもしも僕がにやけ顔だった、とか言われてしまったならば、それは諦めて、「ごめん」と謝るしかないのだが。


「夏風夏鈴って、名前の中にふたつも〈夏〉が入っていて、これでもかって夏を前面に押し出してくる名前でしょ。ナツカゼカリン。だから嫌いなんだ。この名前も夏も」


 困惑する僕に、彼女は言った。聞いてもないのに、言わなくてもいいことまで。不思議な子だな、と思った。そしてそれが不思議と嫌ではなかった。そこも含めて不思議だった。彼女はそれだけ言うと、また逃げるようにしていなくなってしまった。


 結局、あのビンタが何故起こったのか。あの時は分からないままだった。ただそれをきっかけに仲良くなるわけではなかったが、すれ違えば、目が合えば、会釈する程度の関係にはなった。ただそれだけ、と言えば、それだけなのだが。


「また、回想をはじめちゃったね」と今、目の前にいる夏風が笑う。今日の夏風はいつもよりも笑顔が多めな気がする。

「ごめん」

「別に怒ってないよ」

「僕もとりあえず謝っただけだから」

「とりあえずで謝らない。本当に大事な時に、言葉が軽くなるよ」

「これは、癖みたいなものだから」その後に、ごめん、と続けそうになって、心の中で慌てて止める。

「なんてね。これ、私の言葉じゃなくて、昔、そう教えてくれたひとがいたんだ」そう言った時だけ、彼女が遠くを見るまなざしになったような気がした。「私も軽い感じで謝っちゃうタイプなんだけど、ね。……えーっと、まぁ、そろそろ話を戻そうか」夏風が手元の文庫本を指で叩く。「本当にいいの。私が買っていって」

「うん。何気なく手に取っただけだし、別に欲しかったわけじゃないよ」

「そもそも、なんで『野菊の墓』なんて手に持ってたの。あっ、あれか、実は文学青年なのか」

「いや、ほとんど読まないよ」


 そう答えて、僕が書店に来ることになった経緯を、夏風に教える。国崎が朝のテレビ番組の占いコーナーで、僕の今日のラッキーアイテムが、『文庫本』だったことを話していると、こんなにも笑い上戸だったかな、と思うほど、彼女が笑い出して、周りの目が夏風に集まる。それに気付いた夏風がすこし照れたように、咳ばらいをする。


「国崎くん、って感じだ。そういうところ。可愛い性格だ」

 その言葉に国崎と親しげなものを感じる。国崎は、僕と夏風が浅くない関係になる未来が視える、なんて言っていたが、夏風と国崎のふたりのほうが、ずっと深い関係に僕の目には映る。


「僕もそう思う」

「でも、その言葉を聞いてすぐに本屋に入る日比野くんも、大変可愛い性格だと思うよ」

「たまたま通りかかったから、それだけだよ。別に帰り道になかったら、行かないよ」

「あっ、慌ててる。そうか、でもラッキーアイテムか。せっかくそんな縁で手元に行くはずだった本を読めないままなんて嫌だよね」

「いや、別にそんなに嫌じゃないけど……」これは本心だ。「それに文庫本なんて他にいくらでも」

「でも今回、結局、何も買ってないわけでしょ。じゃあ読み終わったら、貸してあげるよ。で、感想を聞かせて」

「えぇ……」思わず困惑した声が口から漏れてしまった。

「そんなに嫌がらなくてもいいじゃない」

「読書感想文とか嫌いなんだ。三行くらいがいつも限界で」

「もっとカジュアルな感じで構わないから。せっかくの本との縁、ひととの縁、簡単に切り離しちゃうのはもったいないでしょ。って、これは、受け売りの言葉なんだけど」

 意外と強引な性格だ。


「夏風は」

「うん?」

「どうして、この本を読もうとしてたの。それに、なんだか急いでいる感じだったけど」


 僕の言葉を聞いて、夏風の表情が翳る。普通のことしか言っていないつもりだったけど、何かまずいことを言ってしまっただろうか。僕は焦ってしまった。


「あぁ、えっと、私の〈大切なひと〉のおすすめなんだ」

「〈大切なひと〉?」

「うん。私にとって、とても〈大切なひと〉。今日、早退して病院に行ったんだけど、そしたらこの本の話をしてくれて。『大好きな小説なんだ』ってすこし懐かしそうに」

 誰かが入院しているのだろうか。〈大切なひと〉が病院に。学校の誰かだろうか。だけどそんな入院している奴なんて……。


「でも、それを聞いて、ちょっと嫌な気持ちにもなったんだ」

「嫌な気持ち?」

「うん。だってもうすぐ死ぬかもしれないのに、〈大切なひと〉と死別する物語を、私にすすめるなんて、さ」


 もうすぐ死ぬ。彼女の言葉は自然だった。もうすぐ退院する、くらいに言葉はあっさりとしていて、彼女の言葉を聞き間違えたかも、と思ったほどだ。深く突っ込んで聞くのは失礼な気がして、僕は何も聞けなかった。僕と夏風の関係は、残念ながら現時点で、浅くない、ものではなかったからだ。


 彼女がちいさく息を吐く。

 疲れを吐き出すように。もうすぐ死ぬ誰かは、夏風と同世代の恋人か友達なのだろうか。それとも、もしかして……。ふいに頭に浮かんだ言葉をすぐに振り払う。考えすぎだ。


〈大切なひと〉

 という表現に託して、夏風が自分自身について語っているかもしれない、なんて。アホな妄想だ。だけど一度貼り付いてしまうと、根拠がまるでなくても、頭からは意外と離れてくれない。


「まぁ、ということで、せっかくだから。読んだら貸すから、読んで感想を聞かせて」


 何が、ということで、なのかまったく分からなかったのだが、結局僕は、『野菊の墓』を読み、感想を彼女に伝えることになってしまった。

 外に出ると、夕暮れの光が辺りを茜色に染めていた。

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