夏風夏鈴と〈大切なひと〉

ラッキーアイテムは〈文庫本〉

 僕の気のせいででもあるか、民子は十三日の夜からは一日々々とやつれてきて、此日のいたいたしさ、僕は泣かずには居られなかった。虫が知らせるとでもいうのか、これが生涯の別れになろうとは、僕は勿論民子とて、よもやそうは思わなかったろうけれど、此時のつらさ悲しさは、とても他人に話しても信じてくれるものはないと思う位であった。――――伊藤左千夫「野菊の墓」



 閉ざされた門の左右に、向日葵のリースが添えられている。まだ本物が咲く時期ではないので、ただの造花だ。


 それが誰の持ってきたものなのか、僕は知らない。生徒だったのか、先生だったかのさえ。仮に生徒だったとしても外される様子はなかったから、教職員の許可か、あるいは黙認はあったのだろう。ただ水泳部の関係者じゃないかとは、簡単に想像は付く。開かれることのなくなったプールと同様に、閉ざされてしまった夏がすこしでも早く開かれるように、とリースに触れた時、祈りのようなものを感じてしまったからだ。


 僕が黄色に染められた造花の向日葵に触れたのが、高校三年の、夏がはじまって間もない、六月十五日のことだ。夏というにはまだ春の名残りはあって、春というには夏のにおいが強すぎる一日だった。


「何、黄昏てるんだよ」

 夕暮れ時、下校のタイミングになって、普段は通らないプールの前に立ち、封鎖された門に手のひらを当てる僕の様子を見ながら、国崎が言った。


「いや、水泳部も大変だなぁ、って思って」

「絶対違うこと考えてただろ。何を考えてたか、当てようか」と国崎がにやにやと笑う。腹の立つこと、このうえない顔だが、嫌な感じがしないのは生まれ持った資質というやつだろう。羨ましい限りだ。「彼女のことを考えてた、当たりだろ。やっぱり気になるよな」


 ひとりの少女が頭に浮かぶ。


『夏風夏鈴って、名前の中にふたつも〈夏〉が入っていて、これでもかって夏を前面に押し出してくる名前でしょ。ナツカゼカリン。だから嫌いなんだ。この名前も夏も』


 そう言った時のうんざりしたような顔で、脳内に再生される。

 だけど、この時点で、彼女と僕に接点はほとんどなかった。だから国崎が邪推するような感情はなかったとはっきり言えるし、何故、国崎がそう思ったのかも分からない。


 ただ僕があの時、夏風夏鈴のことを考えていたのは事実なので、国崎は鋭かったとも、鈍感だったとも言える。


「ところで、どうしてここに」と国崎に聞く。

「それはこっちの台詞だよ」と返ってくる。「お前がふらふらと学校のプールに歩いていく姿が見えたから、何か良からぬことでも企んでいるのか、と思ったんだ。良き友として、悪事は止めてやらないと。俺なりの正義感だよ」

「そんなわけないだろ」と思わずため息が出る。

「まぁ、冗談はさておき、帰ろうぜ」

「部活は?」

「休みだよ」


 スポーツマンのような外見をしているが、国崎は将棋部だ。元々はスポーツ推薦で入学した野球エリートで、一年生の時からベンチ入りのメンバーに選ばれていたくらいの男なのだが、怪我を機に、すぱっと野球を辞めてしまって、将棋部に入った変わり者だ。将棋も初心者だったらしく、なんで将棋部を選んだのかもよく分からない。僕とは高校三年間、一緒のクラスだ。ヤンチャな生徒も多く、野球部には良い印象を持っていないのだが、彼とは、彼が野球部だった頃から、ずっと仲が良い。


 駐輪場から校舎を出る。自転車を引くのは、僕だけだ。国崎は電車通学なので、一緒に行くのは駅近くまでだ。


 最近の雨続きが嘘だったかのように、青空に陽光が射している。気温も高く、一ヶ月後ほど先の未来にいるような気分だ。暑いのはあまり好きになれない。


「俺、さ」と国崎が口を開く。

「うん」

「お前よりもちょっと前から、夏風のこと知ってるだろ。まぁ、野球部関連のあれやこれや、で」

「まぁ、そうだよな。きっと」

 僕も夏風も野球部とは直接の関係はない。だけど僕と夏風、そして僕と夏風の関係について語る時、野球部は切っても切り離せない関係があって、それは大体、僕たちに暗い影を落とす。


「勘違いされちゃうタイプの奴だと思うんだよ」

「それは分かる気がするけど」

「突然、とんでもないことをしたりするから」

「うん」

「お前が支えてやるんだぞ」

「いや、それこそ国崎、お前、何か勘違いしてるんじゃないか。どっちかと言うと、お前のほうが付き合いが古いんだから」


 まだ言葉の途中だったのに、国崎が僕の言葉をさえぎる。


「俺には未来が視えるんだ。お前たちはきっと、浅くない関係になっている未来が視える。これは当たるから安心していいぞ」

「そんなスピリチュアルな趣味なんて、ないだろ」

「んっ、でも俺、朝の占いは欠かさず見てるけど。確か、日比野は」日比野は、僕の名字だ。周りで同じ名字には会ったことないが、日本に数万人程度はいる名字だ。気になって昔、調べたことがあった。「ふたご座だった、っけ。俺の隣にあったから覚えてるけど、今日のラッキーアイテムは、『文庫本』って書いてあったな。帰りに、書店でも寄ったらいいんじゃないか」

「文庫本ひとつで幸せが舞い込んでくる、って信じられるか」

「当たらなくても数百円。当たったら、ラッキーが貰えるなら、悪くない賭けだと思うけどなぁ」

「仮に幸運が舞い降りてきたとしても、『文庫本』との因果関係がどこまであるか分からないだろう」

「因果関係が分からないんだから、別に心の中だけでも、『文庫本』のおかげにしておけるじゃないか」


 そんなどうでもいい話をしているうちに、高校から最寄りの白沢駅に着く。新潟県の白沢市に僕たちの通う清藤学院高校がある。文武両道を謳ってはいるが、基本的には武のほうに偏っていてスポーツ校のイメージは強い。進学にも力を入れている印象を世間に与えたい、という学校側の意志は伝わってくるが、残念ながらまだ上手くいっているようには見えない。元々は女子校で、共学になってからも、長く不良校として知られていた。最近ようやくそのイメージがすこしずつ薄れつつあるくらいだ。


 国崎と別れたところで、

 僕は自転車のサドルにまたがる。帰り道にある、緩やかな勾配の坂道をゆっくりとしたペースで下っていく。一年の時、調子に乗ってスピードを出して、転んで、大怪我をしかけたことがあるので、以降、ここを通る時はいつだって慎重だ。白沢氏から隣の広岡市のちょうど境の辺りに、書店が併設された複合量販店がある。そこから十五分ほど自転車を漕げば、自宅に着くのだが、僕はその店の前で自転車をとめる。


 結局、僕は大変他人に影響されやすい人間なんだな、と改めて思う。もしも国崎とあんな話をしていなかったら、僕は書店になんか寄らなかったはずだ。


 本を読むことは幼い頃から嫌いではなかったが、特別好きでもなかった。気が向けば、小説を年に片手の指で数えられるほど。それが僕と本の関係で、この数分後に起こる未来がなかったならば、その関係はこのまま変わらなかった可能性もある。


 文芸書コーナーをちらりと見たあと、文庫本コーナーに行く。幸せを運んでくるアイテムが、『文庫本』だとしても、これだけ沢山の選択肢がある中のどれが該当するのかも分からない。新潮文庫、文春文庫、講談社文庫、角川文庫……。『文庫本』ならばなんでもいい、というのは、幸運に対して雑過ぎる回答ではないか、と僕は国崎が朝に見た占いコーナーに文句を付けたくなった。


 僕がこれといった特別な理由もなく、新潮文庫棚の前に立ち、一冊の文庫本を手に取ろうとすると、


「あっ、その本は、今回だけパスして」

 背後から覚えのある声が聞こえた。振り返ると、そこには夏風夏鈴がいた。彼女は首に白いタオルを巻き、意外にも元気そうな顔をしていた。元気そうな、と心の中でそんな言葉を添えたのは、彼女が今日、早退していたこともあるし、何よりも二週間近く前に、あの一件があったからだ。余波は当事者以外にも広がり、理不尽な話ではあると思うが、夏風は一部の生徒から憎しみを向けられるようになった。おそらく本人の耳にも多少は入っているはずだ。だから早退の話を聞いた時、理由なんかひとつも知らないのに、学校が居心地悪いんだろうな、と思ったくらいだから。


 夏風が僕の手を見ている。厳密に言えば、僕が手に取った本を、だ。

 何故、そんな本を手に取ってしまったのか、自分でも分からない。何気なく、本当に偶然だ。


「この本?」

「うん。どうしてもいま、それが買いたくて。読みたいんだ。日比野くんがどうしても、っていうなら諦めて、別の書店まで行くけど。でも他の書店、って言っても、どれだけ遠いか。優しい日比野くんなら、女の子にそんなことさせない、と思うけどな。……って、ごめんごめん、冗談。ただ日比野くんがどうしてもそれを買いたい、って感じがしなかったから、もし良かったら」


 めずらしく饒舌だ。この頃はまだ知らず、後になって知ったのだが、夏風は意外とよくしゃべる。特に仲を深めた相手には。


 僕は自分の手元に目を向ける。

 伊藤左千夫の『野菊の墓』だ。

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