夏と夏風夏鈴が教えてくれた、すべてのこと

サトウ・レン

プロローグ

夏が嫌いなきみを思い出す。

 ――――大切な相手と死別する物語を憎んだ、すべての僕たちへ。


 だから夏は嫌いなんだ、

 と呟いてしまったのは、軒下に吊るされた風鈴が、ちりん、と音を立てたからだ。夏にしか鳴らない鐘の音をリビングで聞きながら、酷暑の夏がすこしだけひんやりとしたような気がするのは、風鈴の音が奏でる、夏らしさの魔法だろうか、とどうでもいいことを考えながら、僕は思わず吹き出してしまった。


 妻がそんな僕を気味悪そうに見ている。ちょっと思い出し笑いだよ、と伝えると、何を思い出してたんだか、と呆れた声が返ってきた。しかしどういう風の吹き回しだろうか、と妻を見ながら、僕はぼんやりと考える。結婚してから五年経つが、いままで風鈴なんて一度も吊るしたことがない。


「なんで、今年は風鈴なんて」

「貰ったんだ。友達から。『たまには、夏っぽい世界を演出してみたら、彼もあなたのこと、惚れ直すかもよ』って」

 妻が、その友達の名を告げる。お節介焼きのそのひとは僕たちの共通の知り合いで、僕にとっては大変懐かしい名前だった。今でもたまに会うが、頻度は昔の比ではない。


 風鈴の音に合わせたかのように、降り注ぐ蝉時雨に耳をそばだてながら、僕はもう一度、心の中で、呟く。


 妻には聞こえないように。

 だから夏は嫌いなんだ。

 僕はそれほど嫌いではなかった。特別、夏が好きだったわけではないが。実はこれは僕の言葉ではない。彼女が昔、そう言ったのだ。どこまでも夏が似合っていて、夏が嫌いだった彼女が。あれからもう何年の月日が経ったのだろうか。いまの自分の年齢から当時の年齢を引き算してみる。小学生でもできる暗算だ。そうか、あれから十二年前も経ってしまったのか。まだビールも飲めない年齢だった。まぁ周りにはこっそり飲んでいるようなクラスメートもいたが、僕はそれほど飲みたい、とは思えなかったし、飲める年齢になったいまも、別に飲みたい、とは思わない。誰かから誘われた時くらいだ。


 机の上に置いてあるノートパソコンを開く。メールが届いている。開くと、小説の原稿データが添付されていた。


『夏の夜風に光を落として』というファイル名が作品のタイトルになっている。

 すでに事前の情報として知っている部分もあるが、概要を改めて確認する。海辺の田舎町を舞台に、高校生の男女の恋物語にミステリ要素を加えたものだ。陰惨な事件も起こるのだが、爽やかな余韻が残る結末になっているそうだ。あくまでも伝聞なので、本当に爽やかな気持ちになれるのかは、実際に読むまでは分からない。


 電子ゲラはいまだに慣れないんだよなぁ、と心のうちでぼやきつつ、なんとなく導入にだけ目を通して、閉じる。今日は休みだ。休める日はしっかりと休もう。集中できない時に読んでも、逆に作者に失礼だ。作者は僕が出版営業として働く出版社の今年一推しの新人だそうだ。うちの会社が開く新人賞の佳作に選ばれた作品でもある。選考委員からの評価はあまり高くなくて、担当した編集者が怒っていた。


「あれを大賞にしないなんて、審美眼を疑うよ。まったく」

 ちなみに大賞は出なかったそうで、その佳作が一作出ただけなので、比較の話だけするならば、一番評価されたことは間違いないのだが、それはたいして慰めにもならないだろう。


 おめでとう、とまだ本人には伝えていない。

 スマホひとつで簡単に連絡を取り合える相手なのに、まだそれをできずにいる。おめでとう、長年の夢が叶ったんだな。昔からの友人としても鼻が高いよ。ストレートに本心を伝えればいいだけなのに、結局、僕は照れくさがっているのだ。あと反応が薄かったら、ちょっとショックだし。


 僕がそんなことを考えていると、そう言えば、と妻が後ろから話しかけてきた。

「どうしたの?」

「今夜、花火大会があるんだって」


 どこまでも夏っぽい一日だな、と思う。結婚なんて遠い未来を考えたこともなかったあの頃の僕にもしも、『きみはいつか、結婚相手と花火大会に行くことになるよ』って伝えたとしたら、きっとあの頃の僕は鼻で笑うだろう。夏から逃げ続けてきた僕には似合わないよ、と夏から逃れられなかった僕は。


「えっ、もしかして行きたい?」

 妻の言葉に、思わず驚いた声を上げてしまう。だから夏は嫌いなんだ。突然、思いもよらなかったイベントが舞い込んでくる。また昔、聞いたような言葉を思い出す。


「なんで、そんなに驚くの」

「いや、今まで、花火大会に行こう、なんて言ってくれたことなかったから」

「いや、たまには、ね。……だって、あなたのことだから、暑いのはいいや、って断りそうだからね。夏、嫌いでしょ」


 夏、嫌いでしょ。


 そう言って、苦笑いを浮かべる妻の表情に、夏風夏鈴の面影が重なる。もう夏風夏鈴なんて、どこにもいないのに。過去を懐かしむのは悪いことではないが、今がこうやって目の前にある状態で考えてしまうのも、大変失礼な話だ。


「僕は一度も、夏が嫌いなんて言ったことないよ。高校の時、いつもそう言って、周りを困らせてた奴ならいたけどね」

「へぇ、そんな奴、がねぇ。嫉妬しちゃうな」と妻が笑う。嫉妬なんてひとつもない様子で。

「夏になると、ついつい思い出しちゃうんだよ」

「そっか」話を戻すように、彼女がひとつ頷く。「で、どうする。花火大会、行く? 行かない? 夏にしかできないことも、数年に一度くらいはいいんじゃない」


 開けた窓から飛び込んでくる、からりと渇いた風がカーテンを膨らませるように揺らす。


「そうだね、たまには行こうか。どうせそんなに遠くないし、ね」

 妻が嬉しそうに笑って、リビングから出て行く。部屋に準備をしに行ったのだろう。浴衣姿の妻がぼんやりと頭に浮かぶが、そもそも浴衣なんて持ってないだろうなぁ、と考え直す。


 その時、机の上のスマホが音を立てた。

 そこに記された人物の名前を見て、僕はちいさく息を呑む。思いもよらぬことは続くものだ。特に夏は。


『だから夏は嫌いなんだ。突然、思いもよらなかったイベントが舞い込んでくる』

 また夏風夏鈴の言葉がよみがえってくる。


 あの短い夏、具体的な期間にすれば、六月十五日から九月の最初の週までだろうか。濃密で、とても長く感じたのに、たった二ヶ月半の短い期間だ。どこを起点にして、どこを終点にするかで、大きく前後はするだろうが、あくまで彼女との夏に焦点を当てるならば、やはりこの期間を選ぶのが良い気はする。


 僕はスマホを手に取る。

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