襲来(一)


 扉を開けるとムワリとした粘つく熱気が体に張り付いた。

 セミ達が生を謳歌する騒音が耳に痛い、朝のニュース番組によると去年の冷夏と今年の猛暑で六月だと言うのに異例の大量発生をしたらしい。

 ガチャリと鍵を掛け、斑に錆びてギシギシと軋む階段を降りればすでに滝のような汗をかいていた。

 大学入学を機に一人暮らしを始めたのはいいが、安さと立地に釣られ入居したアパートは獅郎以外に誰も入居者が居ない。

 駅にも大学にも近く周囲にはコンビニとスーパーが何店かある、本来ならいくら古いとは言えもっと値が張るはずだが“訳あり”という点から破格の家賃で案内された。

 ふと目を向けた先、足場が刺さったままの電柱と年季を感じさせる荒いブロック塀の隙間に黒くモヤ蠢いている。

 人やら犬やら虫やらの顔がモヤの表面に現れては消えを繰り返す。

 近付けばそれらが恨めしそうにジッと睨み付ける。

「…そんな顔するなよ」

 フッと軽く腕を振ればモヤはシャボン玉が弾けるように霧散した。


 「獅郎、お前なんかヤバいことしてないよな?」

 照り付ける太陽を何とか乗り越え、教室に入った獅郎にかけられた第一声はコレだった。

 声の主は猫宮幸太朗、獅郎の数少ない友人と言える人間で普段ならば喧しいほどに快活な男だ。

 それが人目を憚りながらコソコソと耳打ちをして来る。

 チラチラと周囲の様子を警戒する様子はいつものおちゃらけと人のパーソナルスペースを易易と突破するコミュニケーション能力の欠片も無い。

 ジッとりと染みている汗をまるで気にせずに目を据わらせ尋問かのように問い詰める。

「ちょっと落ち着けって、何があったんだよ」

 どうどうと宥めながら聞き返す。

 “ヤバいこと”という表現だけでは何も伝わらない、もちろんコイツに詰め寄られるようなことをした身に覚えもさっぱり無いのであまりの剣幕に圧されつつも頭にはクエスチョンマークが浮かぶばかりだ。

 俺の体質について以前にしつこく聞かれたことがあるので─それのおかげで幸太朗との交友がはじまった訳だが─おそらくそれ関係だろう。好奇心旺盛なコイツのことだ、またぞろオカルティックな話でも振られるのでは?と思案していると、

「出国さんがお前を探してる」

 ことさらにトーンを落とし決して周囲に聞かれまいとそう告げた。


 出国夜雨

 彼女の名前を知るものは極小数だ。

 しかし、一部の界隈ではその名は知れ渡っているを通り越し最早アンタッチャブルの域にまでなっている。

 俺は幸太朗から噂を聞いた程度だが、その突拍子の無さに最初は冗談にしても出来が悪いと話半分で受け取っていた。

 曰く、昔から連綿と続く旧家の出。

 曰く、莫大な資金を投じ日本全国の怪談やオカルティックな物品を蒐集している。

 曰く、出国の家系は呪術や超能力の類で成り上がった。

 曰く、血筋の者はもれなく特異体質である。

 曰く、彼女が訪れた心霊スポットはその特異性を失う。

 曰く、神社仏閣が匙を投げる問題さえも解決する。

 などなど枚挙に遑がない。

 しかし、その噂を語る幸太朗の目に冗談を語っている様子は一切無い上に彼の知人のオカルティストも皆が口を揃えて「曰く、曰く」と語るその様には純然な本気の色があったのを覚えている。

 出国夜雨本人と会ったというあるオカルティストは「彼女はバケモノ共より危険という訳では無い。だが、人間側に傾き過ぎている。」

 アレはバランスブレイカーだ。とそう話していた。


「それで、出国さんが俺になんの用があるって?」

 場所を移し人気の無い取り潰された喫煙所跡地で話の続きを催促する。

 健康増進のため大学構内の喫煙所は閉鎖されて久しい上に敷地内の隅に設置されたこの場所は内緒話をするのにはうってつけだ。

 周囲を気にして人が居ないことを確認したのか幸太朗は少しいつもの調子を取り戻して語り出した。

「木内さんって覚えてるか?前に取引するからって手伝い頼んだときの。あの人から二日前に連絡があったんだ『君の友達を出国夜雨が探してる』って。オレも良くわかんなかったけど向こうもだいぶ取り乱してて。『出国夜雨が宍戸獅郎に会わせろと言って家に来た、君の友達のことだろう?』ってさ。そう言って直ぐに電話切りやがった。」

 幸太朗も困惑しているのか、バッグからペットボトルを取り出し一息に飲んだ。

 木内…木内…と思案する。たしか去年の冬頃に幸太朗の付き添いで会った男だ。初老ではあったがピンと伸びた姿勢と快活な喋り口で年を感じさせない人だった、そちらの界隈には疎い俺にも気さくに話し掛けてくれたのを覚えている。幸太朗の言うことには「界隈の有名人」であるそうだが。

「獅郎は出国夜雨に会ったことないよな?」

 首を振って肯定する。

「探してる理由とかは言ってなかったのか?」

 そこが疑問なのだ、俺自身は出国さんと面識が無い上に俺の体質を知ってる人間は幸太朗以外に両親すら知らない。つまり、会おうとする理由がまったくわからない。

「それがなんにも、こっちから連絡しても電話に出ないし会話はさっき伝えたことくらいしか無かったからなぁ…」

 オレにもさっぱりだよ。とオーバーなジェスチャーを交えてかぶりを振る。

「木内さんには悪いけど、会うつもりはないよ。」

 知人の紹介と言えば聞こえは良いが明らかに厄介事だ。

 幸太朗はオカルティストといえども有名という訳ではないし俺はその界隈に出入りしていない。最初からこちらに直接来るのではなく木内さんとの接触を図ったことからも俺たちの所在は知らないのだろう。こちらからアクションを起こさない限りは向こうから来ることは無いということだ。

 だから、少し悪い気もするが今回は無視させてもらう事にした。

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出国怪忌譚 来栖 @Yorihisa-Okuniya

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