出国怪忌譚
来栖
プロローグ
「ハァッ…ハァァッ…」
深夜、鬱蒼と茂る薮の中を少年が駆ける。
枝葉に擦れ体中に幾つもの傷をつくり、靴は泥に塗れて元のデザインは見る影もない。
石と木の根で凸凹とした地面に幾度も足を取られても少年は走るのを辞めない。
「そっちは危ない。こっちに来い、ご馳走も着替えも寝床もあるぞ。」
嗄れた声が少年に問いかける。
こちらの低木の影から、そちらの木の洞から、あちらの岩の上から、まるで獲物を追い立てる猟犬の様に声が上がる。
「来るなッ!こっち来んな!」
声変わりすらしていない幼く高い声で息も絶え絶えの拒絶、しかしそれが追う物達の嗜虐心を煽るだけだと少年は気付かない。
もう何時間走っているのだろうか声の数は徐々に増え距離を縮める、反面に少年の体力と精神はガリガリと削れ最早“その時”は間近であるのが瞭然だった。
次第に声だけでなく多種多様な人ならざる足音や息遣いさえも加わり、濁流かのような様相で木々のざわめきが少年を追い掛ける。
パッと、視界が開けた。
なんの脈絡も無く、今まで走り続けた森も先程まで追われていた気配も何もかもが唐突に失われた。
有るのはどこまで続くかもわからない様な広大な平原だった。くるぶし程の高さの植物が地平線まで生え、風に吹かれてサァサァと靡いている。全天を覆う月と星達は涼し気な光で照らしつけ、その眩しさに目を細めた。
「私の庭に何の用だい?少年」
突然に声がかかる。
先程までの聞いていたのとはまるで違う、人間性に満ちた声だ。しっとりとしていて、どこか神秘的な声。
ふるりと振り返れば、女が居た。
女性にしては高い身長を黒い和服で包み月明かりを艶やかな黒髪が反射しハローを纏っている。
「ちょっとこっち来てくれないか」
普段なら怪しい存在には決して近付かない、それなのに一切の躊躇いも警戒も無く女の元へと歩き出す。行かない方がいいという思考そのものが頭に登って来ない、まるでそうするのが当然だと言うように。
「キミ、名前は?」
スっと屈み目線を合わせながらそう問われる。
「宍戸獅郎」
人外で無くとも、ただの人間の不審者が相手でも言うのがはばかられる自らの氏名が口からするりと吐き出された。
「シロウ、シロウか」
俯きながら長い黒髪をプルプルと震わせ、クックと喉の奥で笑う。
「あぁ、いや失礼。キミの名前を笑った訳じゃないんだ。」
ただちょっとね。と女は笑みを浮かべる
「キミ、面白い“才能”だ」
ファサりと髪を靡かせ、まっすぐとこちらを見据える目。
背中がぞわりと痺れる。
先程まで追いかけられていたモノ達が-死を覚えるほどまで恐怖させられたモノ達が-まるで比較にならないような純粋な生存本能から来るけたたましいアラート。
人ならざるモノのみが持つ生者と決して相容れない穢れそのものが、人の形をしてそこにいるという気持ちの悪さ。大型の肉食獣を前にしたときのような恐怖、大量の虫がひしめいているような汚らわしさ、霧深い森を一人歩くような不安感、そんな途方も無い圧力が脳の奥をチリチリと刺激する。
「キミの“ソレ”は、言ってみれば我が家の汚点なのかもね。謝罪する気は毛頭ないけれど、同情するよ。」
女は心の底から申し訳無さそうにかぶりを振ってそう呟く。
だが、それが嘘であるというのは明白だった。まるで一流の俳優が魂を込めずに演技をしているような、一切の感情が伝わらない形だけの猿真似。
奥歯はガチガチと噛み合わず身体は脳の命令を聞かずに凍りついたかのようにその場を動かない。
「なんだ、これが通じないのか。ますます興味が出てきた。」
ならもう少し後の方がいいか。と女が思案する。
するりと女の右手が袖から覗く。ゆっくりと近付いて来るその手がヒタリと額にあてがわれる。
「魔除けを施してあげよう。特別に強力なやつだ、何者もキミを害す事はできなくなる。私はゆっくりと待たせてもらうことにするよ。」
とんっと軽い衝撃が女の手から放たれた。
途端に抗いようの無い睡魔が体を支配する。
「キミの成長を楽しみにしているよ少年。次は私から招待しよう」
薄れゆく意識にその言葉だけが燦々と響いた。
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