第2話・時給5000円ぐらいで良い?

 まぶたの向こう側から光を感じ、目を開けた先にあったのは見知らぬ天井だった。

 また鼻孔びこうに入る空気からは、何処となく化学的な匂いがした。


 たったこれだけで、今自分がいる場所が自宅ではないことが瞬時に理解出来た。


「う、んん」


 妙に肌がひりひりとする感覚を覚えながら体を起こす。

 どうにか上半身を起こすと、何となく予想していた光景が目の前に広がった。


 一言で表すならば、まさしく病院の一室。

 簡素な造りの窓に、引き出しが複数付いた棚。

 そして、貢郎のすぐ横には点滴スタンドが鎮座ちんざしており、管の先には貢郎の腕に繋がっていた。


「何でこんなところにいるんだ?」


 つぶやいてみたものの、まだ寝ぼけているのか少しも思い出せない。


 そうして貢郎がウンウンとうなり始めて数秒後。

 唐突に病室の扉が開いた。


「え、起きてる……!? 貢郎兄!」


 のどを震わすなり、部屋の中に飛び込んで来たのは貢郎の妹である愛奈あいなだった。


「おはよう愛奈――ぐっふぇ!?」

「このバカバカバカ! 貢郎兄のバカァ!」


 そばまで来たと思った途端、彼女は全力で兄の腹部目掛けて抱きついた。

 さらりとした黒髪が目に入りそうになり、思わず目をつむってしまう。


「だから帰る時は明るいところを通って、って言ったのに!」


 妹の言葉により、忘れていた昨日の出来事が段々と脳内に浮き出てくる。


(そっか。綺麗な人をかばって刺されたんだった)


「貢郎兄まで死んだらアタシ、ひとりぼっちになるとこだったんだよ!」


 段々と涙声になる妹の叫びのせいで、心が締め付けられるような痛みを貢郎は感じた。


 貢郎達の両親は2年前に他界している。

 もし貢郎が亡くなっていれば、肉親が誰もいないという十字架を背負わせるところだった。

 まだ中学生3年生の妹に与えるには、大き過ぎるごうだ。


「悪かった。軽率だったよ」


 整った顔立ちをしているのに、くしゃくしゃになった妹に向かって頭を下げる。


「本当反省して。大体バイトのシフト入れ過ぎ! だから!」


(……え?)


 予期せぬ言葉の出現に、急に頭の思考回路がフリーズする。


「あれ? 俺が倒れた理由って過労なの?」

「そうだよ! 夜の公園で倒れているところを女の人が見つけてくれたんだから!」


 記憶と伝聞。

 み合わない事実に頭が、脳が、思考が揺れる。


 まるでハンマーで頭をぶん殴られたような衝撃がこのやり取りだけで走った。


(そうだ! 傷!)


 咄嗟とっさ患者衣かんじゃいの上着のすそをめくり、刺されたはずの腹部を見る。


(ない!? 傷がない! 何で!?)


 どれだけ注意深く見ようとも、ナイフのあとは一切見当たらない。

 あったのはやたらと広い擦り傷だけ。

 刺し傷の形跡など少しも見つからなかった。


「どうかした貢郎兄? 顔色悪いよ」

「あ、いや」


 気遣うように妹が声を掛けてくる。

 しかし、貢郎の方は気の利いた返事をすることが出来ず、衝撃的な事実に打ち震える事しか出来なかった。


「何か口に入れた方が良いよ。水飲む?」

「ああ、悪い」


 床頭台しょうとうだいの上に置いてあった水差しを手に取り、同じく配置されていたコップに水を入れてくれる。

 普段は思春期特有の冷たい態度を取ってくるものの、今日は非常に当たりが柔らかい。


「はい、貢郎兄」

「ありがとう」


 水の入ったコップを受け取り、中身を胃に流し込む。

 喉を鳴らすたびに頭の中に掛かっていたかすみが晴れていくようだった。


「ふぅ」


(生き返ったぁ)


 空になったコップを妹に渡して一息吐く。


「この分なら朝ご飯は食べられそう? 下の売店で何か買ってくるよ?」

「いや、こういうところの売店って高いイメージが」

「過労で倒れたの忘れたの? ちゃんと栄養取らないとまた倒れるよ」

「む」


 正論。

 貧乏だからといって、体の資本をケチるのは間違っている。


「お前の言う通りだな。適当におにぎり買ってきて」

「りょうかい」


 悲しい気持ちはすっかり吹き飛んでしまったのか、愛奈は軽い足取りで病室から出ていった。


(心配かけちゃったなぁ。入院代っていくらなんだろ?)


 いなくなった妹と、そう遠くない未来の出費に思いをせながら天井を仰ぎ見る。

 そうして数秒ほど経った時、病室のドアを叩く音が聞こえた。


「あ、どうぞ」


(お医者さんから)


 だが貢郎の予想は大きく外れており、入ってきたのは少女だった。


「おはようございまーす」


 流暢りゅうちょうな日本語の挨拶をぶちかまし、スタスタと部屋の中央までやって来る女の子。

 それも昨日見た女性と同じ銀髪だった。


 しかしながら、髪色は同じだが昨日の女の子とはあまり似ていない。


 記憶の中の女性はモデルのような体形だったが、今目の前にいる少女はまさに小学生のような背丈。

 それに髪の長さも異なっており、ロングとボブで全然違う。髪色もほんのりと赤い。


「あのー、俺に何か用――ですか?」


 子供だと思い、ため口で話そうとしたところをギリギリこらえる。

 彼女は貢郎の話し方が面白かったのか、はたまた最初からその気だったのか、少しばかり笑みを作った。


「話に来たの。君が昨日助けてくれた女の子の件で」

「は?」


 淡々と述べる少女の言葉に頭がバグる。

 見事なまでに、開いた口がふさがらなかった。


「いや、本当大変だったよー。急に電話が掛かってきて何かと思ったら、『暴漢に刺されそうになった』なんて言ってくるもんだからさー」


(え、あ、はぁ?)


「おまけに男の人にかばって貰ったとかねー。後処理とかいきなり頼まれても、そんなさっさと対応出来るわけないってーの」


 矢継ぎ早に話す子供。

 微妙に本筋からズレていることもあり、ちっとも頭がついていかない。


「ちょちょちょちょ、ちょっと待って。ひとまず1個だけ聞きたいんですが、その話は俺の体に傷が無いことと関係あります?」

「大アリだよ。だって傷を治したのは君が助けた人だもん」

「はい?」


(もしかして医者だったのだろうか? いやだけど、った後どころか傷口すらないし)


「ボク達さー。まともな人間じゃないんだよねー」


 ベッドの足元付近に腰を下ろした少女が言葉を並べる。


「ちなみに君を治療したのはボクの姉のリンス・リック。ボクは妹のラビ・リック。宜しくね」

「は、はぁ」


 何が何だか分からないとばかりに、中身の無い言の葉を紡ぐ貢郎。


「色々訳が分からないと思うけど、ボクが君に聞きたいことは1つ」


 やたらとつややかな動きでベッドの上をすり寄ってくる。

 そして、彼女はくりくりとした瞳を近付けると静かに口を開いた。


「ボク達の下で働いてくれない? もちろんそこそこ給料は出すよ」

「ど、どうして?」


 首筋に氷を突き付けられているような迫力に押され、声が上擦うわずってしまう。

 対面する少女は見た目とかけ離れた化け物という事実が、体の芯に刻み込まれるようだった。


「ボク達の秘密が一般人にバレると色々と面倒臭いんだよねぇ、これが。だから詳しい話は回答のあとね」


 子供とは思えないほど鋭い目つき。

 口角は上がっているが、表面上だけなのがすぐに分かった。


「君を手荒な目に合わせても良いんだけれど、折角助けたのにこちらで酷いことをするのもお互い辛いでしょ?」


 今にも首元をかき切るような勢いで述べてくる。

 これでは肝心の拒否権があるようで無い。


「わ、分かりました。従います」

「そう? 素直で助かるよ。ありがとう」


 ラビがベッドから跳ねるように降りると、急に空気が軽くなった。

 雰囲気の落差の違いに、つい貢郎はひたいに手を当てた。


「働いたら身の安全は保証されるんですよね?」

「当然。もちろん可愛い君の妹さんもね」


 彼女の口からは『親』が登場しなかった。


(家族構成も把握済みかよ)


「それで、俺は何の仕事をすればいいんです?」

「簡単だよ? 姉の、リンスの世話」

「たったそれだけ? じゃあ給料は?」

「そうだねー。時給5000円ぐらいで良い?」

「はっ!?」


 予想だにしなかった金額に貢郎の目が点になる。


「少なかった? じゃあ1万にする?」

「はああああああああああああああああっっっっ!?」


 いとも容易たやすく上がった提示額に、貢郎はここが病院であることなどまるで無視した大声を上げた。

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