拝啓、あの夏の俺

汐良 雨

残夏


「暑いな」


 時刻は午前8時を回った頃。真中まなか夏生なつおは椅子に腰掛けたまま、軽く伸びをしながらそう言った。


「そっすか?今日は涼しい方でしょ」


 真後ろの椅子に座りながら夏生の方を振り返り、そう言ったのは猛島たけしまあきら。デスクに置かれている麦茶のグラスには、びっしりと露が貼り付いている。薄くなった麦茶の中で、溶けかけの氷がカランと涼しげな音を立てる。

 扉の開け放たれた派出所の中は、たとえ冷房を付けていてもじんわりと汗が吹き出る暑さだ。扉の外では、けたたましく響くセミの声をBGMに、ゆらゆらと蜃気楼が揺れている。こんな日のことを「真夏日」とか「猛暑日」とか呼んでいたのは、もうずいぶん前のことだ。

 ふと、賑やかな声に誘われて視線を動かす。茹るような熱気の中を、制服を着た学生の集団が通り過ぎていくのが見えた。時刻は一般的な登校時間だ。平日の朝としては何の不自然もないはずの光景だが、夏生はそんな彼らの真っ白なワイシャツを見て深く息を吐く。


「にしても、最近の子はこんな気温でも長袖か」

「こんな気温だからじゃないっすか?ほら、鳥取の人たちなんて、昔からみんな長袖着てるじゃないっすか」


 そう言って、陽はグラスの中に残っていた麦茶を一気に飲み干す。


「何年くらい経ったんでしたっけ?」

「何がだ?」

「ずーっと夏になってから」


 陽の問いに、夏生が一瞬考え込むように空を見上げる。鮮やかな青空に、大きな入道雲が浮かんでいる。ふと、蘇る記憶。鼻の奥がツンと熱くなる。あの日も、こんな空だった。


「先輩?」


 陽の声に、夏生がふっと我に帰る。


「……18年だ」


 低く掠れるような夏生の返事に、陽が「ふーん」と鼻を鳴らす。

 

「じゃあ、あの子らはもう夏しか知らない世代ってわけだ」

「そうか、そうなるのか」

「まあ、俺ですら季節があった頃なんてうっすーらとしか覚えてないっすもんね。そういえば昔のサンタさんは随分あったかそうな格好してたなぁ〜ってくらい」


 そう言いながら軽やかな笑い声を上げると、陽は空になったグラスを片手に椅子から立ち上がる。グラスを覆っていた水滴がポタポタと床に滴り落ちる。


「先輩も要ります?」

「ああ、頼む」


 夏生がグラスを手渡すと、陽は愛想の良い笑顔で「了解でーす」と言いながら給湯室へと入っていった。


「そういえば」


 思い出したように大きな声でそう言った陽が、給湯室の扉からひょっこりと顔を出している。


「すんなり出てきましたよね、18年」

「ん?……ああ、そうだな」


 夏生の気のない返事を聞き流しながら、陽は再び扉の中に姿を消す。


「なんか特別な思い出でもあるんすか〜?」


 給湯室の方からは、製氷機から氷を取り出す大きな音。その後に、コポコポ、カラランと、氷のたっぷり入ったグラスに麦茶が注がれる涼やかな音が聞こえてくる。


「別にそんなんじゃない。あの夏にある程度の歳だった奴はだいたい誰でも覚えてる」

「えー?なんでっすか?」


 軽い調子でそう言った陽の両手には、並々に麦茶が注がれたグラスが握られていた。夏生はそのうちの一つを受け取ると、そのままごくりと一口飲み込んだ。キンと脳に染みる冷たい刺激と共に、煎られた麦の香ばしさが舌の上を転がる。


「今、快星かいせい何年だ?」

「えっと、18っしたっけ?」

「あれは元年だった」

「はあ、なるほど」


 陽がポンっと手を打つ。


「猛島、お前今いくつだ?」

「俺すか?24っす」


 夏生はじっくりと陽の全身を眺める。正直、もう少し上だと思っていた。夏生よりもひとまわり近く大きな逞しい身体からは、ある一定以上の年齢の貫禄が感じられた。しかし、その身体の頂点に位置する顔や髪の質感からはまだ瑞々しい若さを感じられることに、夏生はその時ようやく気がついた。


「……そうか、24か」

「なんすかその間は!見えないってのはよく言われるっすけど」

「いや、すまない。そんなつもりではなかったんだ」


 とは言ったものの、事実そんなつもりで見ていたので夏生は胸の内で陽に対して詫びた。


「24ってことは、もう冬を知らない世代か」


 問われた陽の視線が一瞬揺れる。


「ふゆ……。ふゆって、何すか?」


 ジェネレーションギャップ、と言う言葉を思い出す。夏生がまだ若かった頃、親戚の何人かに言われたことがある。昔流行ったドラマとか、音楽とか、確かそんな話題だった。夏生が知らないと答えると、彼らはいつも嬉しそうにそう言っていた。

 今、目の前の陽の不思議そうな顔を見て、夏生は少しだけ当時の彼らの気持ちがわかった気がした。


「そうか、知らないか」


 少しにやけながら出た声は、若者には自嘲的に映るだろうか。


「日本の季節はな、昔は四つあったんだ」

「へ!?季節って三季じゃないんすか?」

「俺が小さかった頃は四季だったんだよ。春、夏、秋があって、次が冬」


 陽は「へえ」と言いながら目を丸くする。


「秋と春の間…‥ってことは、その間にも暑くなる時期があったとかっすか?」

「逆だよ、冬は寒かったんだ」

「じゃあ、秋よりも寒いってことっスか?」

「そうだな。地域によっては、冷蔵庫の方が暖かいなんて言うやつも居るくらいには寒かった」


 「ひえ〜」と言いながら、陽が凍えるポーズをする。ガタガタと震えるフリをしながら、陽はふと何かに気が付いたように手を叩く。


「あっ、そうか、だからか!」

「ど、どうした」


 急に大きな声を出した陽に驚いて、夏生は少し吃ってしまう。


「暖房ですよ!」

「暖房……がどうした?」


 困惑する夏生をよそに陽は椅子から立ち上がると、部屋の奥の壁を凝視する。


「ここにもある!ほら、古いエアコンには暖房って機能あるじゃないですか!ずーっと何に使うんだろうって思ってたんですよ!」


 陽は一人納得したように大きく頷いている。


「外が冷蔵庫よりも寒いなんて季節があるなら、そりゃ部屋を暖かくする機能も必要ですよね!長年の謎が解けました!」

「お、おう。よかったな」


 キラキラと目を輝かせてそう言う陽に、夏生は少々気圧されている様子である。


「それで、冬ってどんな季節なんですか?」

「冬はそりゃあ、寒いんだよ」

「寒い以外にです!ほら、春には桜が咲いたり、秋には葉っぱが赤くなったりしたじゃないですか?冬ってどんなのなんだろうって」

「ああ、そういうことか」


 夏生は自身の中にある遠い記憶を探り出す。


「冬……、冬かぁ……」

「なんでもいいから!教えてくださいよ〜!」


 陽は相変わらず目を輝かせている。初めて聞く「冬」という単語に興味津々といったところだろう。


「あ、そうだ」


 夏生の脳内を、一瞬はふわりと冷たいものが通り過ぎる。


「雪が降るんだ」


 そう口にした夏生の顔が、懐かしさに少し歪んだのが陽にはわかった。


「ゆき……」

「そう、雪。空から、雨みたいに氷の結晶が降ってくるんだ」


 「へぇ」と言いながら、陽の表情はパァッと輝きを増す。


「氷って、ひょうみたいなものですか?」

「雹よりももっと軽くて柔らかいんだ。雪が降ることを舞い散るなんて表現することもあった」

「舞い散るって、なんだか桜みたいっすね」

「そうだな。今思えば、よく似ていたかもしれない」

「そっかあ、綺麗だったんだろうなぁ」

「綺麗……、そうだな。綺麗だった」


 束の間の沈黙。二人は黙ったまま、きっともう2度と見ることは叶わない雪に思いを馳せている。そんな静寂を破ったのは陽だった。


「18年前、初めて夏が終わらなかった年、先輩何してました?」

「なんだよ急に」

「俺は覚えてないっすから。どんなふうに夏が終わらなくなったのか、知りたくなったんすよ」


 陽の無邪気な質問が、夏生の胸の深いところをチクチクと痛めつける。陽に悪気がないことなんて夏生にもわかっている。夏生があの夏に置いてきた感情を、陽が知る由なんてないのだ。

 取り出すつもりのなかった記憶にゆっくりと触れる。胸の奥にずっと大切にしまっておきたいと思う夏生の心に反して、唇はぱくぱくと動き言葉を紡ごうとしている。


――もしかしたら、こうして誰かに聞いてもらえる時をずっと待っていたのかもしれない。


 一瞬過ぎったそんな考えをきっかけに、言葉は濁流のように溢れ出す。


「18年前、俺は高校三年生だった。野球部だった俺にとって、高三の夏がいかに特別だったかくらい想像がつくだろう?」

「さっきは特別な思い出なんて無いって言ってたじゃないすか!」

「うるせえ。気が変わったんだよ。話してやる」


 夏生の眼差しに、陽がしゃんと姿勢を正す。


「当時は夏の大会を最後に3年生は引退するのが一般的でな、俺にとってもその夏は最後の夏だった。あんまり強い学校ではなかったけど、その年の一年に凄え投手が入ってな、『もしかしたら甲子園に行けるかも』って、俺らもテンション上がっちまって、それまでとは比べ物にならないくらい練習に没頭したんだ」


 クックッと、夏生は懐かしそうに喉を鳴らす。陽は黙ったまま静かに聞いている。


「練習の甲斐あってか、その年は俺たちにしては順調に勝ち進んだ。地区予選の準々決勝で強豪校に勝った時は、みんなで声が枯れるくらいに叫んで喜び合ったなぁ。楽しかった。今思い出してもそう思えるくらい、楽しかったんだ」


 言葉とは裏腹に、夏生の表情が哀愁に変わる。


「準決勝、エースが調子を崩した。多分、俺らがプレッシャーをかけ過ぎたんだ。みんなで『大丈夫だから』って声を掛けて、必死で後ろを守った。失った点を取り返すように必死でバットを振った。そうやってなんとか同点のまま繋いだ9回裏。白球は、センターの俺のはるか頭上を飛んでいった。綺麗な放物線を描く白球を目で追いながら、ふと『このまま夏が終わらなければいいのに』と、そう願ってしまったんだ」


 かける言葉を見失った陽は黙り込んでしまっている。沈黙を埋めるように、外ではセミがけたたましく鳴き声をあげている。


「その年、秋は来なかった。その夏を最後に、日本の季節は夏だけになった。あの夏俺が願った通り、俺の夏は、あれからずっと終わっていない」


 夏生はそう言って乾いた笑いを漏らす。


「後悔、してるんですか?」


 陽の問いは、夏生の意表を突くものだった。


「やめろよ、俺はそんなに自惚れちゃいない」

「だったらなんでそんな顔……」

「季節が!……夏が終わらない理由は科学的に説明されてる。誰のせいでもない、自然の摂理だ。そもそも、夏が終わらないことを願う高校球児なんて、俺以外にも星の数ほど居たはずだ。俺のせいじゃない、俺のせいじゃないと何度も自分に言い聞かせてきた。それでも、それでも……」


 夏生がだらりと肩を落とす。


「あの夏のことを思い出すたびにいつも、ほんの少し、『俺が願ったから』と思ってしまうんだ。後悔……、そうか、これを後悔と言うのかな……」


 夏生は背中を丸めて首を垂れる。どう声をかけるべきかわからないままその姿を見つめていた陽の視線が、開けっぱなしの扉の外、夏生の頭越しに見えた「それ」に釘付けになる。


「……先輩」

「なんだ、慰めなら要らないぞ」

「違いますって!あれ!何ですかあれ!」


 陽の声が一段と大きくなる。夏生は軽く興奮している陽の声に驚きながら、彼の指さす方に視線を移す。


「あ」


 その光景に、思わず声が漏れる。


「すごい、あんなの初めて見ました!」


 二人の視線の先、明るい日差しの中を、鮮やかな赤いトンボが飛んでいた。


「真っ赤なトンボなんて!あんなの居るんですね!」

「ああ、珍しいこともあるもんだな」


 ふらりと夏生が扉の外に出る。人差し指を立てると、トンボは静かにその指先に留まった。


「アキアカネだ」


 18年ぶりに、夏が終わる気配がした。

 

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