#9 週末

 あるのはふわふわとした浮遊感。ああこれは夢かと何となく理解する。

 さらさらとした黒髪からするシャンプーの花の香りと甘い匂い。そして包み込まれる様な暖かな体温。柔らかな胸の感触。何故だか分からないが抱き締められているというシチュエーション。本当に訳が分からない。でも自然と心地が良かった。

『ももちゃん』

 嬉しそうな優しい優しい声色で、私の名前を呼ぶ彼女は抱き締められているせいで顔は見えないがきっとこれ以上無く微笑んでいるのだろう。懐かしいと感じたその響きは真っ白な画用紙に落としたインクの一滴の様にじんわりと心に染み渡る。

 私は何かを忘れている?大事な、大切な何かを。それともこれは夢が見せたただの幻なのか?

 答えが分からぬまま、スマートフォンのアラームの音で夢現の狭間からリアルに引き戻され、うとうととする思考の中欠伸を噛み殺して両手両足を伸ばし、寝起きの気怠さの中双眸をゆっくりと開き何度も瞬きする。カーテンの隙間から漏れる朝日は快晴を予感させた。

 起きたはいいものの当然ながら夢は夢でしかなくベッドには自分一人だけ。あの温もりだって夢が見せた幻だ。

 でも――嫌じゃなかった。寧ろ嬉しいと感じた。彼女の淡く仄かな甘い匂いに包まれるのは決して嫌いじゃない。

 不思議な感覚を感じながら再び欠伸を噛み殺し、鳴り続けるアラームを止めていつものSNSチェックから始める。昨日夕飯後に上げたみきつば短編小説に関するいいねや拡散、感想の通知がいくつもある。これらを見た瞬間大袈裟かもしれないが生きててよかったと思えるのだ。

 SNSを一通り確認して感想には返事を送る。中には夏鈴さんからの感想もあった。それを見て思わず頬が綻び、スマートフォンの画面を指でなぞった。

 今日は週末の土曜日。夏鈴さんとの約束の日だ。SNSチェックを終えトークアプリを開いて夏鈴さんとのトーク画面を出すと『おはようございます。今日はよろしくお願いします』と手短に一文だけ送った。

 約束場所は最寄り駅の改札口にあるモニュメントの前。分かりやすい場所故に迷ったり探せなかったりという事は無いだろう。

 さて、とカーテンを開けば部屋の中に太陽の光が差し込む。やはり空は雲一つない澄み渡る様な快晴。出掛けるには丁度いい天気で良かったと思う。

 あの美人に並んでも違和感の無い様にとクローゼットを開けて出掛けるとき用に買ってあるオシャレ着の白の清潔なワンピースと淡いピンクのジャケットを合わせ、バッグもブランドものの白で合わせて彼女に貰った洗い立てのハンカチとメイク直し用のファンデーション、財布、ポケットティッシュにリップを分かりやすく入れてハンガーラックに掛ける。

 ルームウェアのポケットにスマートフォンを捻じ込みすぐにリビングへ向かいまたカーテンを開け日差しを浴びるとキッチンに向かう。朝食は軽めにインスタントのコーンスープでいいかとマグカップにインスタントスープの袋から粉を投入してポットからお湯を注ぎスプーンでくるくると掻き混ぜた。

 リビングのローテーブルにマグカップを置き、ふかふかの長座布団に座るとスマートフォンが振動しポケットからそれを取り出す。画面を確認すればそれは夏鈴さんからで、『今日、凄く楽しみにしています。よろしくお願いします』という文面だった。自然と笑みが零れ、ゆるキャラのスタンプを送り付けてから画面を閉じる。

 とろみが付いたコーンスープをふうふうと息で少し冷まして一口啜っているとまたスマートフォンが振動する。何だろうかと開いてみればそれは兎月――椿からのメッセージで『今夜飲みに行かない?』というお誘いだった。

「今夜……今夜かぁ……うーん」

 夏鈴さんとの約束はパンケーキを食べる事でそれ以上の予定は無いと言えば無い。ならいっそみきつば仲間として合流して三人で飲むというのもアリかもしれないなと思い至る。

 画面を操作して『一人増えても良い?』と椿にメッセージを返す。一拍置いてすぐに『いいよ~』と返事が届きほっとした。夏鈴さんには直接伝えればいいか、と椿とのメッセージで詳細を送り合い夕方に駅前で会う約束を取り付けてスマートフォンの画面を閉じた。








 時刻は午前十時前、夏鈴さんと約束したモニュメントがある改札口に向かうと彼女は秋らしいブラウンのセットアップ姿でサングラスだけをしてそこに立っていた。とにかくスタイルが良いので似合いすぎているが、逆に堂々とし過ぎていて往来する人に紛れている。二人組の女学生達が「七海夏鈴に似てない?」等とひそひそ話ながら通り過ぎていくのを横目に、夏鈴さんの方へと向かう。

「あ、桃色さん!お、おはようございます」

「おはようございます。てか夏鈴さん早すぎません?まだ全然時間前なのに居るからびっくりしましたよ」

 こちらに気付いた夏鈴さんが駆け込んで来て甘いいい香りと共に嬉しそうな笑顔を浮かべる。釣られて頬を緩めると冗談交じりにくすくすとスマートフォンのロック画面に表示されている時刻を見せ付ければカッと夏鈴さんの顔に赤みがさす。

「そ、その……桃色さんと会えると思うと、早く来過ぎてしまって……」

「毎日会ってるのに?」

「まっ、毎日が新鮮で大事……なんです」

「夏鈴さん、本当に不思議な人ですね」

 彼女と居るとどうにも普段以上に表情が緩む。誰と会ってもこんな事無かったのに。同人活動以外でただ人と会っているだけで楽しいなんて思えるとは考えてもみなかった。

「……その、桃色さん……今日は凄く、可愛い……です」

「え?」

「アイシャドウも秋の新色で似合ってる、し……服装もオシャレだし、髪の毛も今日は巻いてて、ふわふわしてるって、言うか……その……いつも可愛いんですけど、もっと可愛いなって」

「現役モデルに褒められるなんて明日は槍でも降りますかね」

「う、嘘じゃない……ですよ?」

 両手を同時に優しく掴まれて、そのまま彼女の手に包み込まれる。サングラス越しでも真剣な眼をしているのだろうなと分かった。褒めても何も出ないというのに。

「夏鈴さんの方が長身でスタイル良いし美人だし良いと思いますけどねぇ」

「でも昔からじゃ、なくて……小さい時は背も低かったですし、この性格だし……で」

「人間どう転ぶか分からないってやつですかね」

「……で、でも、桃色さんに会えたから……人生も、悪くないなって思いました」

「大袈裟だなぁ」

 握り込まれた両手はとても暖かくて、落ち着く温度だった。段々彼女の不思議な言動にも慣れて来ている自分もまた不思議で、でも居心地は決して悪くない。

「さーて、今日の本命のパンケーキ!食べに行きましょう!」

「……っ!はい!」

 ようやく握られていた手が離れ、私が少し先導する様に歩き出し二人並んでパンケーキが有名な駅前のカフェに向かう。

 危ないからと歩道側にスマートに引き寄せられて、こんな美人にそんな事されてはとほんの少しだけドキっとしたが道中も必死で喋りかけて来る夏鈴さんに笑いながら返事をした。

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