#8 初めての感情
その日の夕方は雨だった。
暗い雲に覆われたグレーの空からしとしとと降るそれは強さは無く細かい霧にも似た小雨ですぐに通り過ぎてしまいそうなものだ。
秋雨か……なんてぼんやり思いに耽りながら広げた折り畳み傘を手に、いつもの公園で明かりが点き始める始める街灯を横目に待ち人を探す。
相手が誰であれ、どんな人物であれ知った所で約束は約束なので反故にする訳にはいかない。それにとても優しく良い人であるという事は紛れもない事実なのだから猶更だ。
相手が腐女子で、私の二次創作のファンで、そしてたまたまそれが有名モデルだっただけ。態度を変えてしまえば彼女も気を使ってしまうかもしれない。だから――覚悟を決めて折り畳み傘の手元の部分を握り締める。
「お、お待たせしました、桃色さん。こんな天気なのに……待っていて下さってありがとうございます」
「……約束、なので」
やはり彼女が現れる時はふわりと仄かに甘い香りがする。それは嫌な雨の匂いを搔き消して穏やかな気持ちにさせてくれた。
声のする方へと向くと花柄の傘とランチトートを手に嬉しそうに頬を緩めた夏鈴さんがそこに居る。毎日こうして顔を合わせて、彼女の手作りのおかずを受け取り、洗った空のランチボックスが入ったトートを返す。それがもう日課の様に染み付いていたのだ。
「今日はサバの味噌煮を作って来ました。あの……お好きですか?」
「サバの味噌煮かぁ……美味しいだろうな。私、嫌いな物ないんですよ」
「良かった……あ、お口に合わないものがあったらすぐに言って下さい!桃色さんの事何でも知りたいので!」
「何でもって……相変わらず面白い人だなぁ。でもいつもありがとうございます」
「SNSでも色々好みとか、休日何してたとか、そういうのは垣間見れるので嬉しいんですが……その、もっと、ちゃんと知りたくて」
おずおずといった様子でランチトートを差し出され、それをいつも通りに笑顔で受け取る。ちゃんと知りたいなんて今まで誰にも言われた事がない。
「私の事なんて知っても何の得にもなりませんよ?」
「そ、そんなこと!ありま……せん……知りたいんです、もっと、たくさん。いっぱいお話したい、一緒に居たい……ダメ、ですか?」
「ダメなんて言いませんよ。でもモデルの仕事だって忙しいでしょうに……毎日こうして作ってくれてますけど、本当は飲み会の誘いとかだってあるんじゃないですか?」
「そっ、それは!……気付いてたんですか?わたしがそういう仕事なの」
「仕事の絡みで、知りました」
慌てた様子の夏鈴さんを宥める様に優しく声をかけた。こういう時は嘘をついても仕方がない、素直に知った経緯を伝えようとそのままを口にする。
「飲み会とか、好きじゃなくて……同窓会とかも行った事ないですし……わ、わたし、昔からコミュニケーションが苦手で。でも桃色さんは違うんです、作るのだって好きでやらせて貰っています」
「私は良くして頂いて嬉しいですけど……そんなに美人なのに、勿体ないですよ。出会いの機会だって沢山あるでしょうに」
「ううん、わたしは……!……その、えっと……なんというか……ずっと好きな人が居て、でも進路が違ったから離れ離れになっちゃって……ずっとずっと、あの人は何してるんだろう、また会いたいなって思ってたらたまたま二十歳で今の事務所にスカウトされて。モデル始めたらその人は気付いてくれるかなって思ってたんです。だから正直あの人以外……出会いとか興味……なくて」
夏鈴さんが必死に言葉を紡ぐのを待ち、ふうんと相槌を打つ。コミュニケーションが苦手なのだろうなというのは何となく気付いていた。でもそれだけ一途に人を好きで居られる事がある意味とても羨ましくすら思う。
「好きな人かぁ……その人の事が忘れられないって事なんです?」
「そう……です。ずっと、忘れられなくて……」
「初恋?」
「……初恋、です」
恥ずかしそうにそう呟いた夏鈴さんを見て、甘酸っぱい話だなーなんてまるで恋愛小説のフィクションでも読む様にすら感じる。自分には無い物だ、本当に羨ましい。
「桃色さんは……その、彼氏とかは……」
「ああ、私は独身ですよ。恋愛とか二次創作では想像で何となく書けるけど、現実じゃよく分からなくて」
「そっか……――……」
どこか何となく嬉しそうに小声で何かを呟いた様子だったが雨の音で聞き取る事は叶わなかった。まぁ良いかと気に留めず徐々に暗くなっていく空を見て現実に戻る。
「天気も悪いし、そろそろ帰りましょうか」
「あっ!お引止めしてしまってす、すみません!」
「週末、ゆっくりお話しましょ。パンケーキとパフェ、どっちが好きです?」
「……パンケーキ、食べたい……です」
「よし、それじゃパンケーキ食べに行きましょう。私が奢るんで」
夏鈴さんはまるで、ぱああと擬音が聞こえて来そうな程に表情を明るくして力強く頷いた。心からの笑顔がとても華やかで、美しくて、ああ本当にこの人モデルなんだなと理解した。
さてとランチトートをしっかり握り「それじゃ」と短く挨拶をして頬を緩めて見せると彼女はまた嬉しそうに、でもどこか寂しそうに手を振った。
「あ、あの……また、明日……」
「また明日、ここで」
きっかけはなんて事の無い口約束。でもそのお陰で今までとは変わった日常。嫌気がさす程何も変わらなかった日々はいつの間にか七海夏鈴という一人の人間によって書き替えられた。
彼女と知り合ってからいつもの帰路は少しだけ足取りが軽くて、栄養をとるための作業の様だった食事だって彩りあるものに変わったのだ。
公園から出て、何となく振り返るとまだ夏鈴さんはそこに立っていた。本当に変わった人だとそう思う。仮にも有名モデルなのだから変装くらいしたら良いのにと思わないでもないが彼女なりのこだわりがあるのだろう。
長く艶やかで、触ったらきっとさらさらなのだろう黒髪が徐々に空を染め上げる闇の中で吹く微かな風に靡いていた。
日常が少しだけ変わってからというもの、帰宅してまずする事はちゃんと炊飯器が白米を炊いてくれているか確認する事だった。
無洗米は米をとぐ必要が無くて料理のセンスが絶望的にない者でも簡単に白米を味わえるので非常に助かると心から思う。炊飯釜に必要な分だけ米を入れて、メモリ通りの適量の水に浸して、タイマーをセットしておくだけでこんなにも容易く炊き上がるのだ。
「今日もちゃんと炊けてる」
炊飯器を開けて中身を確認すると炊き上がった白米の香りがキッチンに広がった。それだけで心なしか頬が緩む。夏鈴さんから受け取ったランチトートの中身を出して、いつもの様にランチボックスから器に箸で移し替えて電子レンジで温める。サバの味噌煮に付け合わせのほうれん草が添えられていて栄養価を考えつつも美味しそうなのが見た目だけではっきりと分かる。
温めている間にグラスに水を汲み、茶碗に白米を盛ってリビングのローテーブルに並べた。温め終わりを告げる音が鳴り響くと少しばかり速足でキッチンに再度向かい電子レンジを開くと中からほかほかと湯気が立ち昇る器を取り出し甘い味噌の香りに包まれた。
手間がかかる料理だと一目で分かるのに手作りにこだわって、それなのにいつも毎日彼女は笑っていて……一切嫌な顔をしない。本当に不思議な人だ。
あつあつの器を急いで箸と共にリビングのローテーブルに運び、茶碗やグラスと並べて置く。長座布団に座り「いただきます」と両手を合わせてから箸を握りサバの味噌煮に手を伸ばす。それは箸で簡単に千切れるほど柔らかく、一口大に切り分けてからその内の一つを箸で掴みまずはひとくち頬張る。
「……うっっま」
とろける程に煮込まれたサバは本当に柔らかく、そして甘い味噌味の汁を存分に吸いこんでいてまさに絶品と言えた。付け合わせのほうれん草も煮汁に絡めて食べると非常に美味しくクセも無い。茶碗を持って白米を頬張り、これが幸せかと些細な喜びに打ち震える。
「夏鈴さんも今頃同じもの食べてるのかな……」
何となくだった、何となく彼女も同じ様に夕食を一人で食べているのだろうかと思考が過った。
「……よし、今度一緒に食べようって誘ってみるか」
折角同じものを食べるのだから二人で食べた方が手っ取り早い。本当に何となくそう思ったのだ。サバの味噌煮をもう一口頬に詰め込んで、白米と共に噛み締める。思わずそう思わせるくらい、彼女の手料理は心の底から美味しいと思えたし私を知りたいと言った彼女を知ってみたいとも思った。
こんな感情は初めてで良く分からない。でも、不思議と嫌では無い。少しだけ、本当に少しだけ、心が暖かくなるのを感じた。
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