#7 約束
仄かに甘くて優しい、ふわふわした香り。
深呼吸してそれを吸い込むとどうしてか心が躍る様になっていた。
目の前に居る黒髪の美人は今日もまた陽が沈む前の小さな公園に現れ、そして作って来た手料理を私に差し出す。こんなやり取りももう一週間程続いている。
「いつもありがとうございます。作るの大変じゃないですか?材料費とかもかかるだろうし」
「いえ、その……やりたくてやっている事なので良いんです!」
「じゃあ……そうだな。せめて連絡先、交換しましょ?SNSのDMじゃ面倒ですし」
「えっ、えっ!?良いん……ですか?」
鞄からスマートフォンを取り出してトークアプリを開き、QRコードの画面を開いて見せると夏鈴さんが驚き目を大きく見開き瞳を丸くする。驚いた顔もやっぱり美人だなぁなんて思いながら夏鈴さんにもスマートフォンを出す様に視線で促す。
「これだけ良くして貰ってるんで、土日にでもカフェでお茶奢ります。それなら夏鈴さんも納得してくれるでしょう?」
「嬉しいです……っ!桃色さんとカフェデート出来るなんて!」
「デートって大袈裟な、日頃のお礼ですよ」
「でも!でも凄く……嬉しい、です」
コードが映し出された画面が夏鈴さんに見える様に差し出し、それを彼女がスマートフォンで読み込む。すると登録が完了しトークアプリの友達欄に七海夏鈴という項目が追加された。
「ん?名前、どっかで見たことある様な……」
「……え、あ……気のせい、ですよ」
「てか本名だったんですね、夏鈴さんって」
追加されたばかりの名前をタップしてトーク画面を開くと、人気のゆるキャラのスタンプを送り夏鈴さんのスマートフォンが振動するのを見た。すぐに夏鈴さんがスマートフォンを操作し、既読が付くと共に偶然にも同じゆるキャラのスタンプを送られて来る。
「SNSとかお手紙とか、名前書くのに咄嗟に本名書いてしまって……どうせただのファンですしそのままでも良いか、と」
「本名と読み方一緒で文字変えただけの人とか一部そのまま使ってたり、本物っぽい偽名使う人も居ますし。それに素敵な名前で良いと思いますよ」
「久々に名前、褒められました……」
スマートフォンを仕舞い両手で口元を覆い感極まった様子で夏鈴さんが嬉しそうに呟く。本当に大袈裟だなぁと口元を緩ませながら週末はどんなカフェに連れて行こうか、と内心ワクワクしていた。見目美しいパフェがある店もいいがふかふかのパンケーキも悪くない。クロッフルなんかも捨てがたいし……と楽しい気持ちが溢れ出して、こんな感覚はいつ振りだろうかなんて考える。
「よし、それじゃ日も暮れちゃうし今日はこの辺で」
「あ、はい!」
「また明日」
「また、明日……」
ブランコから立ち上がり、去り際に夏鈴さんが手を伸ばした気がしたが振り向いた時にはいつも通りだった。笑みを受かべて軽く手を振り、沈み行く陽を背に自宅へと向かった。
風呂から上がり髪を乾かしてリビングに戻るとローテーブルの上のスマートフォンにはトークアプリからの通知が届いていた。
可愛らしい猫のぬいぐるみのアイコンで夏鈴さんだとすぐに分かる。顔認証でロックを解除してアプリを開けば『週末、楽しみにしてます。おやすみなさい』というメッセージが届いている。『オススメの店に連れて行きます。おやすみなさい』と手短に返事を送り既読が付いたのを確認してから寝室へ向かい、ベッドサイドにある充電ケーブルにスマートフォンを繋いで自分もベッドに潜り込む。
トークアプリのメッセージや通話で兎月に時々おやすみと言われる事は多々あるが、何だかそれとは異なってむず痒い気持ちになった。
「おやすみなさい、か……」
ぎゅっとサメの形の抱き枕にしがみ付きこの形容し難い気持ちを押し付ける。そうしている内に徐々に眠気が訪れ心地良い浮遊感と共に意識を手放した。
「ねぇ桃音、うちの広告に念願の人気モデル使えそうって話したっけ」
職場の隣のデスクに居るはるかがこそこそと話し掛けて来る。人気のモデルを使うとなればマーケターとしての仕事も忙しくなる為それは聞き捨てならない話だった。
「私芸能人とかモデルとか疎いんだよね……そんな大事な感じなの?」
「あっはは、桃音らしいわ。良くこの業界続いてんねー」
「フィーリングで何とかしてますー」
「はいはい。んでそれがさ、雑誌とかCMで活躍中のモデルなんだけど疎い桃音でも聞いた事位はあるでしょ?七海夏鈴」
「へー……七、海…………ごめんもう一回言って」
はるかは今何と言った?困惑する頭では今の発言が処理し切れず恐る恐るもう一度問うてみた。
「ん?七海夏鈴ってモデルだけど」
「はぁ!?」
「いや何どした?」
「う、ううん何でもない私も流石に知ってたわー……」
急に声を荒げ百面相を始めた私にさぞ不思議そうな顔ではるかが首を捻る。しかしまぁいいかと結論付けたのかそれ以上は何も言及されなかった。
咄嗟にこっそりスマートフォンを開きブラウザで『七海夏鈴』『モデル』のキーワードで検索すると自分が良く知っている黒髪の美人が検索結果に写し出される。まじか……と額に片手を当て名前の既視感はこれかと納得した。
人気モデル七海夏鈴、私と同じ二十八歳。恐らく独身。デビューした二十歳の頃と何一つ変わらない美貌で雑誌の表紙を飾ったりCMで使われたりと忙しい日々を送っているだろう彼女が同人即売会に現れたり、ましてや毎日夕飯を作って貰っているなどとは口が裂けても言えない。即売会に至っては割と芸能界に疎い人が多いからこそ気付かれなかったのか堂々とし過ぎて逆に本人と思われなかったかの二択だ。
相互フォローになったのは恐らくこっそり作ったサブ垢なのだろう。七海夏鈴本人のアカウントは100万フォロワーを超える大人気ぶりでいっそ頭がクラクラしてきた。
そんな有名人と知らずに接してしまったが果たして大丈夫だっただろうかと今更不安になる。しかし思い浮かぶ彼女はいつも嬉しそうだった。
「……有名人とカフェ行く約束しちゃったのか私……」
「桃音何か言った?」
「何でもない!何でもないから!」
あっそ、と自分のデスクに向き直るはるかを横目にさぁどうする、どうこの試練を乗り越える。そう自分に問い掛け、どう足掻いてもやって来るだろう週末の自分に頑張れと半ば他人事の様に全て託すことにした。
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