第2話
(そうだった、こんなに駅近かったんだな…)
優希の家の近くには駅がある。
歩いてほんの5分ほどだろうか。優希は旅館巡りをするのが趣味で、結婚する前はもちろん、結婚してからもリフレッシュしたい時には交通手段の1つとして最寄りの電車をよく利用していた。
優希は電車に乗ると、すぐにスマホを開いて今日泊まる場所を再度検索し始める。
結局、今日泊まる場所は旅館ではなく民泊だ。
最初は旅館を探していたのだが、たまたま目に止まった民泊で提供されている魚料理が美味しそうに見えて仕方なかったのだ。
優希は魚料理、主に焼き魚が苦手だったのだが…
(…、やべっ、ここで降りるんだった…)
ドンッ、
優希が我に帰り立ち上がると、目の前を通った女性とぶつかった。
「ちょっと…、」
「すみません、焦っていたので…。」
「はぁ…」
優希はなんとなく顔を合わせることができず、女性が落としたきっぷを拾い上げて頭を下げると、そそくさと電車から降りた。
乗り継ぐ電車まで移動してから自分の心臓が大きな音を立てていることに気がつき、優希は自分を落ち着かせようと胸に手を当てた。
(緊張しすぎだ、これまで全くと言って良いほど人と関わってこなかったから?それにしても…、こんなんで小旅行は楽しめるのか?)
優希はその後、ドキドキする心臓を落ち着かせながら民泊の近くの駅まで辿り着いた。
目的地の民泊は電車から降りて10分ほど歩かなければならない。しかも、坂道を登る必要があるため、8月になった今の暑さではなかなか厳しいものがある。
ただ、運転に不安が残る状態でこんな細い道を運転する方が怖い、心配性の優希はそう思いながら坂道を登って行った。
民泊についてから優希は特に何をするわけでもなく、ただぼーっと部屋で過ごしていた。
(風呂に入るか…、入った後はようやく楽しみにしていた飯の時間だ。)
優希は久しぶりに感じるウキウキした気持ちを抑えながら風呂に向かっていると、奥の部屋からドアが開く音がし、女性が出てきた。
(今日は泊まる人が自分ともう1人だけだと聞いていたが、女性だったのか…)
優希が軽く会釈して階段を降りようとすると、女性が声をかけてきた。
「あら?あなた、電車の…」
「電車の?あの、人違いじゃないですか?電車では特に誰とも…」
「ぶつかったじゃない、急に立ち上がるからこっちはびっくりして…」
「あぁ、!あの時はすみませんでした!」
落ち着いていた心臓が再び大きな音を立て始め、体が熱くなってしまうのを感じる。
女性はそんな優希を見て首を傾げている。
優希は「あっ…、えっ…」と意味のわからない声、音を漏らすと、再び顔を背けてしまった。
「人と話すの苦手なの?」
女性は優希をまっすぐ見つめ、微動だにしない。堂々としている印象が強い女性だ。
「いえ、そういうわけでは…、その、すみませんでした。」
「別に良いの、謝らせたくて声をかけたわけじゃないから。よかったら食事を一緒にどう?今日泊まっているのがあなたと私だけみたいだから良ければ話してみたいと思っていたんだけど。」
「あぁ、はい…、わかりました。大丈夫です。部屋で食べるんですか?」
「初対面の男女が部屋で食べるのは流石に変でしょ。1階に少し広い部屋があるでしょう?あそこで食事できるみたいよ、私も部屋を見たわけじゃないけど、お風呂から上がったらそこにきてちょうだい。良い?」
「はい、わかりました、行きます。」
………
(…、1人でのんびりするはずだったのにまさか女性と食事をすることになるのか…、俺は既婚者だぞ…、あ、もう違うか…)
………
風呂に入り、1階の廊下を進んでいくと、広間からあかりが漏れ出ている。
優希がおずおずと入ると、部屋の奥にさっき話した女性が座っているのが見えた。
その女性は優希が目に入ると優しく微笑み、軽く会釈をしてきた。
まだ食事は運ばれていない。
「民泊に泊まるのは初めてなの?」
「初めてではないですね、旅館に泊まるのが好きだったんですけど、ここの魚料理が気になって今日は予約したんです。」
「そう、私は最近民泊に泊まることが多くてね。こういう雰囲気が好きだから…」
「なるほど…、あの、なぜ僕と食事をしようと思ったんですか?」
「この民泊に2人だけ泊まっているのよ?なんとなく興味湧くじゃない。それだけ…。ところで、なんで民泊に1人で泊まろうと思ったの?」
女性は運ばれてきた料理に目を通しながらスラスラと話す。
優希は少し戸惑っていたが、女性にそれを悟られないように冷静に話した。
「料理が美味しいと思ったんです。この魚が美味しそうで…、いただきます…」
優希は手を合わせると、料理を食べ始める。
今までは女性のことが気になって料理のことなど考えていなかったが、食べはじめてすぐに女性のことなど忘れて料理に夢中になった。
(焼き魚は今まで味や食感もまるで好きじゃなかった。骨があって気を使わながら食べるのも好きじゃなかったし、ご飯に合うなんて言われたこともあったけどいまいちわからなかったな…。でも、こんなにも美味しいものなんだ!なんで今まで気がつかなかったんだ!?ここの焼き魚が美味しいのか?どうでも良い、絶対にまた食べにくるぞ…。)
数分後…
「随分と美味しそうに食べていたわね。」
女性がクスッと笑いながら話す。
優希は女性の存在を完全に忘れていたことを思い出した。
「すみません、夢中になって食べてしまいました。…、すごく…、綺麗に食べますね…」
「まぁね、家でもよく食べていたから。でも、ここのお魚はすごく美味しい。うん…、すごく美味しい。」
「ですよね…」
「…、今日は一緒に食べてくれてありがとう。1人旅行はこういう楽しみもあるから好きなのよ。じゃあ、また会うことがあればいつかね。さようなら…」
女性はそういうと素早く立ち上がり、振り向きもせずに広間を出ていった。
女性の早すぎる切り替えに戸惑ったのは事実だ。
ただ、今の優希は女性の態度に心が右往左往されるような状態ではなかった。
そもそも女性と食事を一緒にしてもしなくてもどちらでもよかったし、何か深く話したわけでもない。それに、料理を楽しめただけでも十分すぎるほど満足していた。
優希は、手を合わせて食事を終えると、料理を堪能したことに加えて、一切浮気された悲しみを考えていないことに驚きながら部屋に戻った。
「最高だ…」
………
(…、やばい、いい加減働かないと…)
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