第9話 提訴までの出来事その4――大手損保よ、そこまでやるか
本書のメインテーマはもちろん耳原病院との争いであり、いかにして有利な決着を見たかを読者の皆さんに知って貰い、医療訴訟に直面する人たちの参考にしていただくことに主眼があるのは言うまでもない。が、そこに至る過程で、多くの事件に巻き込まれ、四苦八苦しながらそれらを乗り越え、目標に到達したことを知って貰うのも意義があるのではないかと考え、披露させていただいている。いずれにしても、ここしばらくの、私というか我が家を巡るトラブル頻発で、親友二人を相手にぼやき、彼らの協力を得て必死の対応で凌いでいるというのが、うそ偽りのない現実であった。
さて、次に我が家に降りかかった事件は交通事故で、この処理を巡る大手損保の対応だった。
―――ガッシャーン!
妻和子運転の小型四駆パジェロ・イオに揺られ機嫌よく駅まで送ってもらっていたところ、唖然とする場所から信じられない勢いで小型車が飛び出してきたのだ。
「何なのよ!」
恐れ多いが、風吹ジュンさん似との噂もある(あくまで噂だが)嫁さんが怒るのも無理はなく、イオのどてっぱらにいきなり小型車が突っ込んできたのだ。ホイールと運転席ドア前部に、相手のフロントがめり込んでいた。
「怪我はないか?」
助手席から尋ね、ブスッとした顔で加害車両を一瞥する。
「うん。足を打ったけど、それくらいで済むと思う。でもドア、開けへん。あっ! あんなんで動き出した」
バンパー脱落、前部大破の加害車両がノロノロと後退するではないか。逃げられると思ったのか、妻が車から出て詰問しようとするが衝撃のダメージでドアが開かない。
「軽(自動車)やったらひっくり返って二人とも死んでた可能性あるけど、不幸中の幸いや。車乗ってるもん同士、お互い様や思て物損で済ましたれ」
助手席のドアを開け、運転席側へ回って力任せにドアを開ける。体力に絶対の自信ありの私が、
「うーん!」
と、全力投球でようやく開くほどの食い込みだったが、辛うじて運転席側ドアは開いた。
―――あれ?
四十前の加害女性の行動パターンがおかしいのだ。謝るどころか、携帯を握って何やら懸命に話し込んでいるのだ。後で聞いたことだが、私に怒鳴られると思い少し恐れていての逃避的行動であった。加害車両が保険に入っていることを加害者に確認し、私は仕方なくJR北信太駅まで歩く。夕方から大阪梅田で公務員講座の行政法の講義があり、急がないと間に合わないのだ。加害車両はレッカー移動だったが、我が家の愛車は辛うじて走行可能だったので安全を心がけ帰宅するよう妻に言う。
「今日は散々やったな。しかしまあ、大怪我せんでホンマ、良かったわ。体、大丈夫やな」
講義を終え、十一時過ぎに駅から歩いて帰宅すると、真っ先に妻に声をかけた。次男は食事を済ませ、すでに眠っていた。
「うん。ちょっと首や肩が痛いけど、これくらいで助かったわ。やっぱり車は頑丈でないと困るね」
その夜の会話で、翌日起こる事態など夢想だにしなかったが、損保会社の社員の言葉が引き金になって、大手損保への不信が一気に爆発してしまった。
「今日は講義ないさかい。車の修理に行ってくるわ。‥‥‥うん、ちょっとの痛みやったら我慢しとったり」
昼食を済ませ、背中の痛みも口にし出した妻に言い残して家を出る。メーカー系列の堺市南部の修理センターへ行き、事故の概要を伝え見積りを出してもらう。
「うちも加害者と同じ保険会社やけど、加害者の保険で修理してもらうから」
修理フロントの課長に、加害者の担当サービスセンターへ電話してもらうが、話が噛み合わない様子で、私に代わってほしいと言う。私は当方に過失は全くないとの考えで、業界用語の百ゼロ(百対ゼロ)との確信を持っていた。
「そちらの車も動いていましたから、百ゼロということは考えられません。私は最高裁の判例に則ってお話させていただいているんですよ」
電話に出た若い女子職員の自信に満ちた口調に、
「何を言ってるのかね。私も大学で法律を教えているので、君に判例の解説をしてもらう必要はないよ。加害者に好意的に接してきたつもりだったが、そんなんだったら家内の診断書を取りに行くよ。いいのかね」
私は受話器に怒鳴りつけてしまった。最高裁の判決はある具体的事件について出されるものであり、その事件と全く同じという事件はこの世に存在しないのである。ただ、一般化・抽象化できる法則というか準則が確立され、それが他の個別の事件に当てはめられ結論の予測を立てることが出来るのである。例えば走行中の車同士が衝突して、運転手Aの過失が八割で、他方の運転手Bの過失が二割との判決が出た場合、Bは事故を防ぎうる可能性があったことを前提にして、二割分の責任を負担させられる、というのが正しい判決の理解である。この判決から、両方の車が走っていた場合、どっちも責任を問われたのだから、百ゼロはないというのが判例だ、との理解はまったく正しくないのである。両方が走っていても、一方に事故を防ぎうる可能性がないときは、当然その者は過失責任を負わされることはないのである。妻が遭遇した事故のように、およそ信じられないところから車が突然発進して来た場合、予見などできるはずはなく、当然に過失ゼロとして、業界用語でいうところの百ゼロの適用が認められるべきなのである。
実際に起こった著名事件を例に挙げると、ああ、なるほどと理解してもらえると思う。車同士の事故ではなかったが、大阪府警の事故処理を見てみると、過失責任のあり方が分かりやすく頭に入る。紙面の現在からは十数年前になるが、酒好きで有名だった若手落語家がトラックにはねられ即死した事件があった。トラック運転手は、府警により直ちに業務上過失致死罪(現在の自動車運転過失致死罪)として現行犯逮捕されたが、一緒に飲んでいた落語家仲間の証言により、後日、運転手は無罪とされて、収監を解かれ釈放された。
「わて、死にますわ」
そう言って、いきなり道路へ飛び出して行った、との証言がなされたのだ。
自殺意思で突然、人が道路へ飛び出してくることはおよそ予測不可能で、過失責任は問われなかったのだった。
著名落語家の交通事故は人対車であったが、過失責任の本質は車対車の事故であっても変わらないもので、過失責任は予測可能性を前提とするものなのだ。最高裁が走っている車同士の事故で、判決で百ゼロを認めなかったとしても、それを一般化して、すべて走っている車同士では百ゼロは認めない、というのが判例だ、と結論付けるのは全く正しくないのである。保険会社の女性事務員のように、判例の正確な内容も理解せず、加害者の説明を鵜呑みにしての、一方的な結論はいただけない。そんなものを「判例に則って」、という事なかれ、である。私はカンカンになって痛んだ愛車で帰宅すると、
「おい! 病院へ行こう! ちょっとずつ痛いとこ出てきた言うてたやろ。好意的に接したることないわ。診断書取りに行こ。人身事故としての処理や」
怪訝顔の妻を車に乗せ、自宅から近い、国道二十六号線沿いの光生病院へ連れて行った。
「診断書もろたら、次は警察や」
車乗ってる同士やからお互い様や、との穏健な言葉を吐いた夫の急変に、妻はきょとんとしたままだったが、
「そんなこと言ってるの? 私にミスなんてないのに。どうしてあんなとこから出てくる車を予測しろっていうのよ。そんなこと聞くと、ほんと、痛いのを我慢する必要ないね」
警察へ行く車中で、保険会社の対応を知らされると妻はようやく納得したのだった。ところが、ところがである。それほどの痛みをもたらす事故ではなかったと考えていた事故が、とんでもないダメージを体に与えていたと知る羽目になってしまった。
「あー! 何でやの! 首や肩が痛くて寝られへん。何で今頃、こんなに痛み出すのよ!」
直後に大きな痛みは出ず、一日おいて華奢(きゃしゃ)な体を事故の衝撃が襲い出したのだ。私も若干、首・肩・腰に痛みらしき感覚が走るが、何せ格闘オタクである。金属疲労ならぬ、打撃による身体疲労的痛みなのか見当がつかない。それほど傷だらけではあるが、そのぶん、少々の痛みは平気だった。それに助手席であって、車が食い込んできた運転席ではなくダメージはゆるかったのだ。結局妻だけが通院し治療を受けることになったが、後に述べる保険会社の対応が分かっていれば、一緒に通院しておけば良かったと反省しきりである。控え目や謙譲という美徳が「今は昔」の日本社会であるが、我が身に降りかかると正にその通りの実感であった。
「えー! 何でやねん?」
わが奥方ではないが、次に私を唖然とさせたのは加害者の理解に苦しむ行動であった。本来は物損事故のはずが、被害者を怒らせた保険会社の不手際で、人身事故にされてしまったと主張し出したのである。違うやろ! 傷害結果が出てるから人身事故なんやろ! と、誰か諫(いさ)めたらんかい! と叫びたくなる、「物損! 物損!」の連呼であった。
「加害者があのように言ってますので、何とか物損でお願いできませんか。扱いは当方が責任をもって人身でさせていただきますので」
サービスセンターの副長が、形式は物損だが実質は人身扱いとの書面まで持参すると、私は唖然を超えて愕然としてしまった。
「同じ保険会社でも、加害者の代理店は相当大きいというか、力を持ってるな。大きな代理店には保険会社は弱いからな」
事情通の丹ちゃんにはモロ分かりの、何とも呆れる保険会社の対応だった。
「しかし、そこまでやるんはちょっと常軌を逸してるな。ガーさん、応じたらアカンで。人身扱いやいうたかて、何処まで責任持つかエエ加減なもんやで。大体そこの損保、最近裁判で敗訴してたやろ。盗難保険関連で、一万三千円の請求をした保険加入者に負けたんや。よっぽど頭に来てたんちゃうか、一万三千円で訴訟まで起こすんやからな」
「せやけどな、丹ちゃん。担当の副長がほとほと困ってんねん。結構誠実な人柄でな、あんな困った顔見たら、こっちも悩んでしまうがな。な、菊ちゃん。何かエエ方法ないやろか」
丹ちゃんの主張が正論と思うが、四十前の副長の困惑顔に悩まされ、私は自信有り気に笑う菊ちゃんに振ってしまった。
「うん。いま思いついたんやけどな、こんな方法はどうやろ。副長の顔も立つし、結果は丹ちゃんの言う通りになるから」
菊ちゃんの口から出たのは名案で、加害者の性格を考えるとベストといえなくてもベターの評価が与えられるものだった。
条件その一 ガーさんの車の古キズも直せ。
条件その二 支払うべき罰金を恵まれない施設へ寄付せよ。
条件その三 損保会社と共に、加害者も十分な人身事故処理扱いを保証せよ。
「以上の条件を、一つずつ出してみ。ガーさんの車は買って二年ほどやから、ほとんどキズらしいものはないけど、これ聞いて物損のみの主張を引っ込めるかもしれんで。それでもエエ言うんやったら、今度は条件その二も出したらええんや。俺やったら全部飲むけど、おそらく加害者は引くやろ」
菊ちゃんの言う通りで、条件その一で引いてくれたのだった。これで、副長の顔も立って、妻は人身処理で通院を継続することになったが、体の方は一向に良くならず、階段の上り下りも二階以上になると辛い日々が続いた。
「ところがな、六カ月経ったから保険による治療を打ち切る言うねん。ちょっと無茶ちゃうんか」
天王寺サミットで会った折に、保険にも詳しい丹ちゃんに聞くと、
「うん、そういう取り扱いがまかり通ってるようなんや。せやけどガーさんとこの奥さん、後遺症認められんちゃうか。保険会社の担当者は、何も言ってないんか」
チュー杯レモンに酔って赤くなった顔で、丹ちゃんは不信がる。
「うん。前の副長に代わった、若い副長はそんなこと何にも言いよらんのや。前の彼とえらい違いなんや。こんど後遺症のこと言うてみるわ」
私は丹ちゃんの指示に従い、保険会社の事務所で長身のいけ好かない副長に伝えると、渋々書類を出してきたのだった。医師の診断書を添え所定の手続きをしたが、保険会社提示の算定額の低いこと、低いこと。余りの低さに納得がいかず、保険会社の事務所を訪れ訴訟を起こすと伝えると、
「では裁判所の判断を仰ぎましょう」
まるで威嚇するように、妻と私に胸を張って、くだんの副長が応訴の決意を自信有り気に伝達するのだった。
「何やそれ。ガーさん、徹底的にやりやり。絶対、算定額より高い額認められるわ。俺が保証するさかいな」
菊ちゃんに言われるまでもなく、やりますよ。算定額以上を勝ち取り、嘗めたらアカンぞ! と、溜飲を下げたるぞ!
この事件は、保険会社提示額の三倍以上の判決で、裁判上の決着を見た。弁護士費用を含む裁判費用は約二十万。溜飲が下がったかというと、ノーだった。保険会社に灸を据えることは出来たが、妻のその後の体調を考えると、とてもそんな気分になれなかったのだ。首、肩、背骨の痛みは容易に取れず、心臓にも随分ダメージを受けたようで、動悸、息切れや心臓の痛みに悩まされ続けた。ようやく妻の痛みが忘れられかけたとき、今度は私が生身へのトラック激突による腰骨と肋骨の骨折、頚椎損傷という異常事態に見舞われてしまった。トラック運転手の加入保険が、妻の加害者加入保険と同じ損保会社だった。そしてその対応のひどいことひどいこと。
「犯罪に当たらん程度の手段で被害者を丸め込み、賠償金額を安く抑え込むことが保険会社社員の仕事で、それが彼らの給与の源なんやで」
丹ちゃんの言った言葉が十数年後、私の耳に痛くしみたのだった。
ところで、私の生身へのトラック激突事故は戦後日本最低の区画整理との関係で後に詳しく述べるが、この事故は現場検証の警官さえ不振がる事故だった。スジ者(暴力団)関係者から脅迫や嫌がらせ等を受けていたことから、私は殺人未遂での捜査を強く主張したが、一笑に付されてしまった。
「殺人のつもりで車あてたんやったら、運転手は逃げまっせ」
深みも何にもない返答で、丹ちゃんに語った広域暴力団組長の「最近は、交通事故を装うコロシ、ヤクザの間ではやってまんねんで」がよほど私の耳に響いたのだった。丁度このころ、長男正五郎が大学病院の緊急救命セクション勤務だったので、
「交通事故の患者さんで、どう見ても殺人被害者ではないかと疑われるような場面に出くわしたことあるか?」
電話で問うたところ、彼の返事は、
「しょっちゅう」
であった。
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