第7話 提訴までの出来事その2 予備校講師から大学講師へ

耳原病院に対し勝訴の確信が持てず、また母フジヱに父の医療事故を知らせるのは出来るだけ遅らした方が良いとの判断から、提訴までほぼ十年と随分長い時間を費やしたが、理想的といえる結果に終わったことは既に述べたところである。終わりよければ全てよし、とはシェークスピアの戯曲で、夜這(よば)いした女性のベッドに別の女がいたという喜劇を語りながら、終わりというか、結果の重要性を説いている。ところが、私は生来の不運ハンターなのか、良い結果で終わっても、大抵、次に新たな難題というか不運が待っていて、それの解決に四苦八苦するというシナリオが用意されている。耳原病院の事件でも、何とか父の無念は晴らせたと、結果に安どしたのは束の間で、矢張り生命の危機に瀕する過酷な次の舞台が待っていた。実質勝訴の裁判上の和解という〈良い終わり〉から、紙本の【耳原病院が謝罪し、一千万円を支払った理由】を出版するまで、十二年もの歳月を要したことが雄弁にそれを物語っている。

 耳原病院事件での〈良い終わり〉から、生命の危機にさらされている紙面のいま現在までの十二年間はいずれ披露させてもらうことにして、当面は時系列に沿って、父の医療事故死から、耳原病院事件での〈良い終わり〉までの時間を埋める作業に勤しみたいと思う。 

 さて、前章の〈提訴までの出来事その1〉の次に挙げねばならないのは、耳原病院での父の医療事故死に直面したこともあって、私の生活基盤が百八十度といってよいほど変更を遂げたことである。見出しにあるように、〈予備校講師から大学講師に〉というのが、〈提訴までの出来事その2〉に相応しいものであろう。

 古い話で恐縮であるが、この紙面のいま現在を遡ること五十年。東京大学の入学試験中止という異常事態の中で、私は昭和四十四年に神戸大学の理学部物理学科へ入学した。しかし第一志望校ではなかったことと、予期せぬ高順位での合格であったことも影響して、その後の進路が少々捻じ曲がってしまった。

「やっぱり、無理してでも第一志望校を受験するべきだったな‥‥‥」

 後悔に先導された怠学の道を歩んでしまい、第一学年で早々と物理学者への道を自ら放棄してしまった。大学紛争の嵐が吹き荒れていたことも大きく影響していた。紛争で講座が開かれないことから、空手部や少林寺拳法部という格闘系のクラブ活動に勤しむ生活で、勉学、特に物理は紛争終結後も卒業単位をとるだけの学業生活だった。

 ところで、物理学科と医学科という学科は異なるが、十数年後、よく似た思いを抱いて母校へ入学し、学生時代を過ごした後の俊英がいた。我が親族である外科医の高校の後輩で、彼と同じ京都にある旧帝大医学部への入学を熱望していたが、神戸大学医学部医学科へ入学した。入学試験での高成績を知り、恐らく腐ったこともあったでろうが、このあたりが凡人との違いであって、十数年後、彼は情熱を注ぎ込んだ研究が認められ―――本来の志望校であった、京都にある旧帝大医学部教授に就任した。それから八年後、ノーベル医学賞受賞。その後も活動の手を休めることなく、華々しい業績を国の内外に知らしめている。

 ちなみに俊英と較べるべくもない凡人の私は、物理学者はあきらめたものの、学者への未練は断ちがたかったのか、二回生の後半あたりから大学院で法哲学を学ぼうとの意欲が新たに湧き、大学院受験のために法学の勉強を始めた。もっとも、大学院入学も中途半端に終わってしまったが、その際、法哲学とともに選んだ受験科目だった行政法と刑法が、後日の大学での講師採用基準になったのだから、人生とは分からないものである。分からないといえば、先の俊英に強いライバル心を燃やし、焦りもあったのか、正常な判断力を無くし、結果、不幸な死を遂げてしまった我が親族の教え子の存在がある。三十六歳で医学部教授に就任し、大学はえ抜きの秀才として、幾多の研究分野での成果を待たれていた期待の星だったが、五十二歳で自らの命を絶ってしまった。彼の自殺の背景を探ってみることなど、スタップ事件が世上を騒がせた直後は思いもよらなかったが、分析マニアの私が事件を紐解くと、思わぬ人物が目の前に躍り上がってきたのだった。まず①関係当事者と、事件の背後にある利害関係を正確に分析する。次に②正犯(刑法的意味ではなく、社会学的意味であって、真犯人といった方が分かり易いか)と目された者の、正犯否定材料として❶正犯能力性の欠如。そもそも彼女には、こんな大事件を正面から単独で企てるほどの力量はない。また❷嘘をつき通すことの不自然さ。最初から最後まで嘘だったと考えるのは、状況から見てあまりにも不自然であること。つまり彼女が言うように200回以上はともかく、少なくとも数十回はスタップの作成があったと考えるのが、再現実験に臨む際の彼女の態度から推し量るのが無理がなく、自然である。だが、❸再現実験では、一度もスタップの作成に成功しなかった。この間の矛盾は、誰かの意図的な関与を加えることで解消される。では③誰が彼女を操って、犯行をなさしめたのか、それによって得られる利益は? そう、利益を得ている人物が表に出ていなかっただけであって、よく調べてみると、こそっとダーティな男が隠れていたのだった。スタップ研究の限界を自らは十分認識していたが、まだ使える駒として彼女をスターダムに押し上げ、その余勢の内に、こっそりと、捨て去った研究の甘い汁を吸った汚い男。では④彼女はいつから正犯(真犯人)の関与を知ったのか? 当初、あれだけ何度も発生させたはずのスタップがなぜできないのか? そうか、私の実験材料の中に、このフロアーの冷蔵庫に保管されている万能細胞と呼ばれるES細胞(胚性幹細胞)が忍び込まされていたのだ。これだと簡単にスタップを作ったのと同じ状況を現出できる。では、誰が一体そんなことをしたのだ? ・・・・・・やっぱり、彼しかいない。このように、部外者の私でも容易にその汚い男を特定できたのだから、彼女には、特定がいとも簡単であったろう。では⑤正犯たるそのハゲ男(ハゲに偏見を持っていないどころか、私も最近うすくなりだしていてお仲間に入りつつあるが、読者が容易に真犯人にたどり着けるよう、真犯人の身体的特徴を挙げさせて貰った)の存在を知ったのに、なぜ、全容を明かさないのか。そうすることの彼女の利益は? さて私の、このタワムレにも似たシンプル極まりない分析結果を、出来れば早い機会にカクヨム上に〈スタップ事件の真相に迫る―――大父方霧子(実名では生々しいので、愛嬌を込めて変名を使った)は正犯ではなく、単なる事後従犯にすぎなかった〉をアップしたいと考えている。が、多忙と能力の欠如、おまけに最愛の息子正五郎のパワハラが原因の死に直面して、全く思うに任せないのが現状で、そのストレスもあってか、今も、本来の紙面から半世紀近く先をさまよい始めだしているが、これでは【耳原病院が謝罪し、一千万を支払った理由】のリニューアル版作成には程遠く、何時まで経っても完成は覚束ないので、このあたりで、本題である私の大学での講師生活に話を戻させていただくことにする(なお、スタップ事件については気になる読者もおられるだろうから、【兵庫きのさき温泉リハビリジイジと孫孫よろず相談ネット】の第6話【ジイジと孫孫が、スタップ事件の真相に迫る】に書いたので、参照して下さい)。

 さて、予備校や塾で英語と数学それに物理を教える生活から、大学で行政法の講義という、百八十度も異なる講師生活に入ったのは、二つのことが関係していた。ひとつは、我々の学生時代と違って、公務員が就職先として学生たちの注目を集め始めていて、大学も公務員講座を開く必要に迫られていたこと。そして公務員講座では、行政法は必須科目であった。二つ目は、前節で述べた、大阪にある旧帝大医学部付属病院の医療ミスが何とも気になり、新進の女性刑法学者を主人公にして医療ミスに迫る小説〈古都にくちづけ〉を短期間に書きあげ、出版したことだった。この書籍が、全国的に資格講座を展開する早稲田セミナーという受験機関の大阪校の校長に気に入られ、大学での公務員講座の講師採用が決まったのだ。

 最初の講座は、大阪府茨木市にある追手門学院大学の公務員講座であった。百五十人余りの受講生を前にして、さすがに初めは緊張したが、塾や予備校での講師生活が十数年に及んでいたので、慣れるのにさほど時間はかからなかった。生活の基盤が変わると、付き合いにも大きな変化が現れ、大学での講師仲間との交際が多くなって行った。特に追手門学院大学の講師控室はサロン的ムードが漂い、提供される挽きたてのコーヒーを飲みながらの講師間の会話は、大学以外での親密度まで高めてくれるものだった。追手門学院大学や関西学院大学、それに京都橘大学の講座を通して、特に親しく付き合うようになった二人がいて、互いを仇名(あだな)で呼び合うほどの関係になってしまい、丹ちゃんと菊ちゃん、そしてガーさんが私の仇名だった。

 私の仇名の由来は格闘歴の長さと関係するもので、大学で行政法の講義をするより、格闘でボディガードとして身を立てた方が確実に実入りが良かったのではないか。自他ともに認める分析で、ボディガードの「ガーさん」ということである。「丹ちゃん」の由来は、われわれ子供の頃の漫画キャラクター「タンクロウ」に体型がそっくりなことからである。ころっとまん丸なのである。「菊ちゃん」は、肝臓癌で亡くなった親友の弁護士「菊池」の一字「菊」を自らの仇名に冠したもので、節制を重ねるスリムな体躯(たいく)は親友の分まで生きる決意の現れであった。

 この三人は、丹ちゃんの法務事務所兼自宅がJR環状線の桃谷駅近くにあり、また、菊ちゃんの事務所がJR天王寺駅から近いこと、私の自宅が天王寺駅を経過する阪和線沿いにあることから、天王寺で落ち合ってよく一杯酌み交わした。場所は天王寺駅界隈や通天閣近くの恵美須町で、丹ちゃんは色気のない男三人の飲み会を〈天王寺サミット〉と呼んで悦に入るのだった。

 さて、今日の〈天王寺サミット〉は、私が巻き込まれた区画整理事件の調査結果の報告と、チャップリン研究家と称する人物とのトラブル内容の報告会を兼ねたもので、久し振りの男三人の飲み会であった。読者の皆さんからは、耳原病院への提訴を前にそんな悠長なことしてていいのか! と、お叱りの声が飛んできそうであるが、私なりの必死の対応策を考えての行動であった。耳原病院に対する裁判は、意地でも勝たねばならない。しかし、医事紛争処理委員会での病院側の対応を考えると、現状ではどう見ても私の勝訴は望み薄だった。散々なめられて、結果敗訴ではそれこそ父の無念が晴らせず、私も一生負け犬で終わってしまう。こんな状況に置かれれば、普段なら攻撃目標に向け必死に対策を練り上げるのだが、怒り心頭に発しながらも、私は自分でも驚くほど耳原病院と距離を置こうとしていた。長い格闘修練の中で、倒せる相手と倒せない相手の読み切りは、十分身についていた。倒せない相手には、相打ちで凌ぐ。これが経験から得た、私の極意といえるものだった。では、相打ちにさえ持ちこめない相手はどう凌ぐのか。相手が弱るまで、じっと我慢を重ねる。これも、私が格闘技の修練から得た極意といってよかった。

 もっともただ待っているのではなく、搦め手からの攻撃手段構築は決して忘れていなかった。それの一つが〈天王寺サミット〉であったのだ。

「よう! ガーさん。こっちこっち。こっちやでー!」

 JR天王寺駅の改札をくぐると、丹ちゃんが愛嬌満点笑顔でコンコース中央から手を振って迎える。ぬれた髪とツヤヤカな顔を見れば湯を浴びて来たのが一目瞭然で、笑顔の体からほかほかと湯気が立ち上がっているような錯覚に陥ってしまう。大阪行政書士会で〈知財権の鬼〉との異名を取り、多くの顧問先を抱える人物。丹ちゃんの外観から、この実像に迫れる者はまずいないであろう。少し気取った表現を借りるなら、外観から実像に迫れた人物は、寡聞にして知らない、ということになろうか。

〈天王寺サミット〉に話を戻すと、中年三羽烏の会合場所は大阪庶民の和みと哀愁漂う天王寺界隈のターミナル駅。丹ちゃんの事務所から二駅という近さ。菊ちゃんのマンションから歩いて十五分という距離。菊ちゃんは亡くなった親友が、着手金が入る度に飛田新地で遊女と戯れ散財していたことを思いだし、新地を望む彼のマンションへ引っ越したのだった。私も顧問―――合格実績が評価され、顧問を仰せつかった受験機関の梅田校の帰路途上駅なので、天王寺で彼らと会うことになんら不満なく、学生時代の思い出詰まる天王寺での会合はほんわかと何とも心和むひと時なのだ。

「こんばんは。ちょっと待たせてしもたかな。帰り際、受講生が質問に来たんで予定より十分ほど遅れてしもたな。―――ところで、菊ちゃんはまだ来てないんか?」

 午後十時近くともなるとさすがに人混みもまばらで、駅構内を見回すと、朝夕の雑踏は一体どこへ消えたのかとちょっぴり寂しくなってしまう。

「うん。ちょっと遅なるいう電話、さっき入ったわ。彼女とデートらしいで」

 身長差が二十センチ余りあって、丹ちゃんは下からニヤッと白い歯で私を見上げた。菊ちゃんは最近良い人に巡り会えてルンルンなのだが、最大の悩みの種は彼女の年だった。四十を越え五十路まぢかなのだ。菊ちゃんより二つ下で年齢的には釣り合うのだが、問題は出産能力であった。菊ちゃん二世を生んでくれることが出来るのか。彼女を愛しながら、菊ちゃんの心は千々に乱れるのでありました。二人のプライバシーにかかわるといっても、二人とも頓着しないが、実は丹ちゃんも菊ちゃんもいまだ独身で、結婚して一刻も早く子供を持ちたい、これが二人の切実な願望であった。丹ちゃんには二十歳以上離れた若い恋人がいて、結婚はすでに決まっているが、認知症のお母さんが亡くなってから式を挙げる予定が組まれていた。亡くなるまで丹ちゃんが母親の世話をする決意で、なんとも親孝行息子なのだ。若い彼女に世話をさせるのが可哀想との配慮ももちろんあるだろうが、本人は黙して語らない。

「お母さんは叔母さんが見てくれてんか?」

「いや、『一人で家に居ときや』言うて出て来たんや。叔母さんにそういっつもいっつも頼まれへんやろ。この頃、ヘルパーさんと僕の言うことよう聞くようになったんで助かってんねん。ほな、菊ちゃんが来るまで『がんこ』に入って、先にやっとこか」

 苦笑いを浮かべた丹ちゃんと並んで陸橋を渡りアポロビルへ歩く。

「区画整理の詳細はまだ調査中で、もうちょっと時間くれるか。ただ一部やけど調べてみたら、縄延(なわの)び(実測面積が公簿面積を超える部分)の平均は二十五%近くあったで。組合が市へ出してる全体の縄延び五%とは相当開きがあるな。もし二十%近い縄延び部分を自由に処分するいう腹やったら、明らかに詐欺罪が成立するな。役員の背任罪成立の疑惑もあるし、大阪府や堺市の幹部職員の収賄罪に発展する可能性も出てきてんのや。これって結構おもろい事件になるかもしれんで。ガーさんの読みは大筋で当たるとこがさすがやな」

 座敷に腰を下ろし、丹ちゃんは私をおだてる。いつもは通天閣界隈の立ち飲みが主で、座敷に腰を下ろし飲むなどは滅多にないことだった。丹ちゃんには、私が巻き込まれた戦後日本最低の区画整理の、資料集めを頼んである。

「‥‥‥うん。小学校のとき、親父が織物や敷物という糸偏の事業で失敗して、倒産の憂き目を見たんや。あれからやな、時代の流れを正確に読まな生き残られへんという強迫観念のようなものに襲われてしもうて。物事のとらえ方がコロッと変わってしまった。ホンマにあの頃からや、世界史や日本史における時代の節目、その力動エネルギーに注意が向くようになったんは。そのせいで、細かいことはさっぱり苦手になってしもたわ」

 糸偏の国内産業の行く末は、東南アジアや中国、韓国の低賃金市場の製品に席巻されやがて没落する。養父はこれが読めなかった。その結果、資金繰りに困って、在日外国人の闇金の罠にはまってしまった。先祖伝来のものすべてを無くしたのだった。思春期の少年には大きな喪失感とともに、時代のうねりが強烈な印象として心に深く刻み付けられた事件だった。

「まあ、エエやんか。細かいことは僕の得意で、僕がやるんやから。役割分担。ガーさんの言うこの補償関係が、我々三人を繋ぐ太い絆やねんから」

 少し照れくさいのか、丹ちゃんはスーパードライのグラスをぎこちない仕草で飲み干した。

「まあ、そういうことかな」

 私もモルツを一気に飲み干す。大学少林寺拳法部の親友がサントリーの事業推進部長で、モルツは彼の自慢なのだ。三十五年前の学生時代、渡哲也さんの笑顔がまぶしいサントリー純生に釣られ飲んで以来の、久々のサントリー回帰である。なお、菊ちゃんはサッポロ愛飲家で、ビールに関しては三人とも譲れない一面を持っていた。

「ところでガーさん。別に調査頼まれてたあの件やけど、やっぱりガセネタやで。全く信用できん奴やった。ここしばらくガーさんとこへはトラブルがしょっちゅう舞い込んでくるな。ブラックホールやないけど、トラブルホールになってんとちゃうか」

 丹ちゃんの言葉が大袈裟でないほど、最近私の近辺で事件が起こる。それも詐欺まがいの事件が頻繁に起こるのだ。世が世なので仕方ないのかと思ったりもするが、それにしても多すぎるのだ。

 丹ちゃんの言うあの件とは、チャップリン研究家として知れ渡った人物がもたらしたもので、大手出版社の名をかたる不届き千万な事件であった。私は昨年から大阪南部にある桃山学院大学のエクステンションセンターでも憲法・民法・行政法の講義を担当しているのであるが、その大学でくだんの男が映画学を担当していた。芸能界には知り合いが皆無といって良いので、映画の制作を依頼しようと大学の事務にその講師の紹介を頼んだところ、「私のような者でよろしければ」とロンドンからファクスが届いた。これがそもそものきっかけであった。

 話せば長くなってしまうが、前年に私は京都嵐山を舞台にした青春小説を上梓していた。しかし部数が伸びない。これまで出した三冊より格段出来の良い作品と自他共に認めるものなのに、数百部程度で販売数が頭打ちだった。東京の出版社から出した〈転校のススメ・ジパング通信局〉に較べ二十分の一にも満たない売れ行きなのだ。やはり本は東京の出版社から出さねばならんのかと思いつつ、清水の舞台から飛び下りる決意で著書の映画制作を思い立った。製作費を負担することにして作品を広く伝播すべく、主題歌まで作詞作曲するという身の入れようであった。

「脚本など、拝読しました。もし御希望でしたら、親しくおつき合いしている東京在住のプロデューサーや女優さんやらに持ちかけることが出来ますが、いかがいたしましょう」

 との、チャップリン研究家を自認するくだんの講師からのメールでの申し出が届いた。

「十一月七日から十一日に東京で出版社(大手出版社の実名が記載されているが、無断使用と判明したので省略するが、裁判になった時は明らかにしたい)や芸能プロの方、NHKの方々などとお会いすることが出来ます。もし必要でしたら、その時に動きます」

 一週間もしない内に新たなメールが届くと、私は拙著の映画化より、大学病院の医療ミスを題材とした力作「誰(た)がために白い巨塔を撃つ」の大手出版社からの出版に気が向いてしまった。同じ大学病院の医療ミスを題材とした「白い巨塔」がテレビで高視聴率を稼いでいることもあり、いいタイミングではないかと思ったのだ。期せずして、

「出版社(これもメールでは実名表記)の御担当からお電話がありました。来週に会議にかけるので、自信作を一本、二ページほどであらすじをまとめてくださいとのことです。十八日が会議なので、十六日ぐらいまでに私にいただけませんか? よろしくお願いします」

 とのメールまで届くと、まさか嘘いつわりはないであろうと信じ、あらすじを書いて渡すのが誰しもの取る行動であろう。そして十二月二十七日、拙著が大手出版社の審査をパスしたとの電話が入ったのだ。

「原稿用紙二百五十枚くらいに押さえて、大学病院名と題を変えてほしいとの先方の依頼です」

「分かりました。題と大学病院名はすぐ変えられますが、二百五十枚に押さえるのは少し時間がかかるので、年明け早々、桜井の多武峰(とうのみね)国際観光ホテルに投宿して手を入れてみましょう」

 大学病院名はすぐ変え、題も〈ペンは放たれた〉に変更する。

「よし! 大仕事だが、やったるか」

 新年早々ホテルに缶詰め。売れっ子作家さながらのスケジュールで投宿し、拙著に手を入れる。しんどいこと、しんどいこと。バッサ、バッサと行きたいところが、未練たっぷりにページを削り、七十枚ほど減らして三百枚余りにする。

「これ以上は無理やな」

 何度も読み直し、最終ページで念を押す。未練に、能力の限界も絡まっての結論であった。

「さあ、連絡しよぅ」

 多武峰観光ホテルから帰宅して、自宅パソコンから連絡を入れるが相手から一向に返事が来ない。全くの梨の礫なのだ。

「悪いことは出来んもんでね、有名プロデューサーに調べてもらうと、著名出版社の審査に通ったどころか、編集会議に出品さえされてなかったんやって」

「ちょっと、ちょっと、ガーさん。いま丹ちゃんに聞いたんやけど、その有名プロデューサーって、伝説のアイドルを育て、しかも二度のレコード大賞曲【愛と死をみつめて】と【魅せられて】をプロデュースした大御所なんやって。ガーさん、何でそんな有名人知ってんのや」

 遅れて席に着いた菊ちゃんが丹ちゃんの隣で目を丸くした。

「あれ、菊ちゃんに言うてなかったかな。ガーさん、志伏七海のペンネームで桜井の箸墓古墳を歌った〈やまたい国〉いう曲、去年の十月に作詞作曲したんやけど、結構評判でな。菊ちゃんも知ってるやろ、卑弥呼の墳墓という説が勢いを増しているのんは。ガーさん、邪馬台国が畿内にあったという邪馬台国畿内大和説を支持してて、箸墓が卑弥呼の墓やと自分の歌で高らかに歌い上げたんや。大学のサークルなんかでも歌われ出してきたから、レコード化をプロデュースしてもろたらどうやと勧めてくれる人がおってな。縁というのは不思議なもんやな。ガーさんが書いた和歌山の橋本を舞台にした青春小説〈風とバイクと、ミス古佐高〉が、朝日新聞で大々的に取り上げられたんで、ガーさんを知ってくれたんやって。それで親しくなって、その人と同じ和歌山の有田市出身の有名プロデューサーを紹介してくれたというわけや」

「出版社にも顔の利く人やろ。大手出版社の知り合いに調べてもろたら、社内の誰もそんな話に関与してないってことやったんや。そこでチャップリン研究家と称する男にメールを送って出版社の担当の人の名前教えるよう伝えたんやけど、もちろん返事来えへんわな。大学の講座を担当してるから信用したんやけど、きっちり騙されてたいうわけや」

「嘗めたらアカンぞ! の、お決まりのセリフが飛び出し、ガーさん、当然怒りだすわな」

「そやけど、何でそんな嘘ついたんやろ。よう調べたら分かるのにな」

「いやー、菊ちゃん。天性の嘘つきやで。うまいこと二枚舌使いよんねん。劇団主催してて自分も舞台に立ってんやけど、嘘つき役者になり切ってるとこがオッソロシイな。普通の人間はコロッと騙されるで」

「うん。ガーさんの言う通りで、かなりの被害者が出てる可能性あるで。何でそんな嘘つくんかはな、劇団の維持に大金がいるやろ。赤字で四苦八苦してるらしいで。だからうまいこと言うて、ガーさんから架空の必要経費を騙し取るつもりやったんや。大手出版社の担当に能を見せに連れて行ったとか、食事や飲みに連れて行った言うて経費を請求する用意してたさかいな。便利屋みたいなことも劇団員使うてやってるんや。どうせ同じように必要経費水増しして詐欺まがいのことやってんちゃうか。テレビに出て偉そうなこと言うてるヤツの実体がこれやから、何や悲しいなるな」

「しかし、それがホンマやったら、まさに詐欺罪が成立するがな。ガーさんも請求されたとき、誰といつ何処で飲み食いしたか分かるようちゃんとした請求書を出してくれ言うたから実害は免れたけど、それでも詐欺未遂罪は問題なく成立するのに。だいたい大手出版社がこんなことされて黙ってへんやろ。一体なに考えてんのやろ。若くして世に出た奴の中には、結構いてんねんな。こんなヤカラが」

 まさに菊ちゃんの言う通りで、被害の拡大防止のため、汚い嘘つくな! 嘗めたらアカンぞ! と声を大にして叫ぶ必要があるのだ。

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