第6話 提訴までの出来事その1
耳原病院へ訴えを起こすまでの十年間、私の周りで様々な事件が起こったが、特筆すべきものを読者に知っていただき、病院への裁判までの時間を埋めていきたいと思う。読者の皆さんは既に耳原病院事件の決着を知ってしまわれたが、医事紛争処理委員会での処理を拒んだ後は、一体どうすればベストの結果が得られるのか、私は提訴を巡り悩み焦りながらの毎日を過ごさねばならなかった。一刻も早い解決を望んでいたのは当然だが、手持ちの資料では勝訴は覚束なく、老いた母に大きな悲しみを与えた結果が敗訴では、それこそ父が浮かばれないのであった。医療ミスの被害者遺族というのは、多かれ少なかれ、このような日々を送るのであろうと参考にして戴いて、拙速に陥ることなく、日常の中で怒りを静かに胸に溜めながら、勝訴に繋げて戴ければ幸いである。
父の医療事故当時、私は予備校と塾の講師をして生計を立てていた。薬剤師の妻も薬剤業務よりは子供たちとの接触を好み、自宅での家庭教師や大手進学塾・阪神受験塾の講師をしていた。
耳原病院の医療事故が頭から離れることのない私は、かつての受講生で大阪にある旧帝大医学部付属病院で看護師をする女性に時間をとって貰った。父の医療事故を話すと、
「うちの病院でもね、術後の患者の回復が遅くて、胸部に水が溜まって仕方がなかったのよ。何度も抜くんやけど、一向に治まらないんで、(胸を)開いてみたらガーゼを忘れてたという事件があったわ」
中学時代に教えた女性で、ざっくばらんな口調は相変わらずだったが、病院での医療ミスまで機械的に語られると彼女への好感度が急に下がってしまう。
「その患者さんは亡くなったの?」
医療従事者と患者、両者が対立的立場に陥ったら、いまの私は文句なしに患者側に軸足が移ってしまう。さり気なく聞いたつもりだったが、相手もプロである。
「それは、秘密です」
ガードを固め、自信たっぷりな笑みを浮かべた。
「ふーん‥‥‥」
患者の胸部にガーゼを忘れ置いたミスに、私は興味をかきたてられしまった。患者は多分亡くなったであろう、とのおぼろげな判断が、話の流れから生み出されていた。もちろん、病院側が患者サイドに伝えていないということも、ほぼ確信していた。このガーゼの体内失念ミスは、いまも私の強い関心を引き起こし、折あるごとに調査を続けているのであるが、ミスが行われたであろうセクション、おおよその年代が把握できているだけで、実態解明には程遠い状況で、未だ尻尾さえつかめていないといってよかった。
本書を書いている、いま現在からは、既に二十年以上の歳月が流れてしまったが、旧帝大医学部付属病院での医療ミス調査に多くの時間を費やし、それを題材にした小説〈古都にくちづけ〉まで書いたのは、患者、遺族への強い思い入れがあったのは当然として、以下の点もこの医療事故が私を引き寄せる小さからざる誘因であった。まず政党色の強い耳原病院の関係者と違って、国立大学の附属病院関係者はミスを明るみに出すことにさほど抵抗を示さず、むしろそれが望ましいことであると考えている人たちが少なからずいることを知らされていたこと。遺族にミスが発覚することで、病院側は正直にミスを認め、被害者や患者遺族に謝罪するであろうとの判断が働いていたこと。この点は、甘い認識だとの批判もあろうが、大学病院の医療ミスを調べ始める少し前、奈良にある県立医科大学の学長が、昭和三十三年から四十三年までの十一年間、こんな長い期間にわたって、入学者の三分の一以上が不正入学者であった、との衝撃的な発表をしたことが後押ししていた。不正入学の仕組みは、寄付金を払うことを約束した予約組が別枠で入学が認められるという、裏口入学制度の運用だった。この枠によって、本来合格を許されるべき成績優秀者は、当然、合格から排除されてしまっていた。公立医科大学の、存在の根幹を揺るがせかねない発表内容だったが、学生達による真実追及の前に、学長は意外なほど往生際が良かったのだ。
大学病院の医療ミスが明るみに出れば、耳原病院も渋々ではあっても医療ミスを認める方向に戦術転換するのではないか。我田引水的動機も多分にあると妻から批判を受けたが、私は大学病院の医療ミス解明へのめり込む自分を抑えられなかった。このようなわけで、耳原病院での父の医療事故と直接には関係ない出来事であるが、ここで大学病院の医療ミスに少なからず紙面を割くことをお許し願いたい。なお、大学病院は実在の病院で、関係した人物も実在していることから、病院名や人物名は仮称、仮名にさせて戴く。耳原病院のように、いつか実名で発表できることを願っているが、事実を知った患者の遺族や、オペ場(手術現場)に立ち会った人たちからの声が上がらない限り、困難であろうとの認識が強く私を覆っているのも、認めたくはないが現実である。
さて大阪にある旧帝大附属病院を、仮称の浪速帝大病院。私にガーゼ失念ミスを話した看護師を下海歌子として、話を進めて行きたい。
「よし、調べてみるか」
天王寺駅ステーションビル五階のラウンジで下海看護師と別れ、改札へ歩きながら、私はガーゼ失念ミス調査に時間を割く決意を固めたのだった。父の医療訴訟は、しばらく手を付けられない。雨でテニスが出来なくなったので、室内で卓球をする。心理学でいうところの、中断作業の続行欲求的な面もないといえば嘘になるが、ガーゼを忘れられ苦しむ患者が父と重なったことや、あまり遠くない時期の出来事と思われることから、調査はそれほど困難ではなかろう、との判断も調査意欲の下支えだった。サラリーマンと較べフレキシブルな時間拘束も、調査意欲を後押ししたのは言うまでもなかった。
ガーゼミスを語った下海は第一外科(いちげ)勤務なので、一外の関係者を重点的に当たってみた。新聞社勤務の知人や、かつての塾生や予備校の受講生がもっぱらだった。医療業務は給与面に限っていえば確かに恵まれていて、予備校の受講生で医師や看護師になっている人たちは結構いて、情報提供者として思い当たる人物には事欠かなかったのである。
「いやー、聞いたことがありませんね」
明らかにこちらに好意的と感じる医師や看護師を選んで当たってみたが、みな一様に首をひねった。
「一外じゃなくて、他の科じゃないんですか。例えば付き合っていたドクターから聞いたとか、他の科の看護師から聞いたとか」
予備校の元受講生で、一外勤務の看護師吉田春子が発想の転換を迫るヒントをくれた。
「下海さんは、ドクターと付き合っているの?」
「ええ、彼女、自分のプライバシーは滅多にしゃべらないんですが、以前、一外の看護師に漏らしたことがあったらしいんです」
「ふぅーん。そのナースに会ったら、付き合っていたドクターの名前を教えてくれないかな」
「彼女は無理です。犯罪の被害に遭って亡くなりましたから。でもね、先生。教えてくれるかもしれない人を知っていますよ。下海さんと親しかった人ですから、付き合っているドクターのことを聞いているかもしれませんから」
浪速帝大病院の医療ミスに強い興味が湧いて、むきになり始めている自分にとっくに気付かされてはいたが、こうなると容易に抑えが効かず、行きつくところまで行ってしまうのが私だった。教えてもらったナースの名は、古賀都。彼女は恋人の転勤で、現在、名古屋にある国立病院へ移っているとのことだった。
「先生。古賀さんは大学病院開院以来の美人看護師って、評判の人ですよ」
自身もなかなかチャーミングな吉田が、私を見て意味ありげに笑った。
「それじゃ、近いうちに古賀さんというナースに会いに行ってみるよ」
私は時間を見つけて名古屋へ古賀都に会いに出かける予定でいたところ、先の吉田春子から、古賀都が東京お茶の水にある御茶ノ水医科歯科大学附属病院へ移ったとの連絡を受けた。
「恋人と別れたことで、実家のある東京へ移ったみたいですよ」
無駄足にならないようにとの配慮からだろうが、今度も吉田は受話器に意味ありげな余韻を残した。古賀都のガードが下がっているだろうから、医療ミスを話してくれる可能性が少なからず高まったとのヒントと私は理解したのだった。
予備校の夏期講習の合間を縫って、私は八月の八日に御茶ノ水駅のホームへ降り立った。
―――しかし、何という暑さだ!
八月の第二水曜日ともなると、すでに真夏日の暑さで、車両から出て少し歩くと体中から汗が噴き出す。神戸にある予備校の講師をしていた時、提携関係にあった両国の予備校へ出張講義に来て以来だから、東京の土を踏むのは十年ぶりだった。額と首の汗にハンカチを当てながら広い道路を横断して病院の敷地に足を踏み入れると、一気に緊張感が増す。正面の入口を入って、ロビー奥の受付で、
「古賀都さんという看護師の方にお会いしたいんですが」
少し硬くなりながら、中年の女性事務員に用件を申し出た。どんなご用件ですか、と問われれば何と答えようかと、一瞬迷ったが、
「どちらの科に勤務されていますか」
笑顔の応対に懸念は払拭されたが、新たな質問に、
「‥‥‥さあ」
配属された科までは聞いておらず、私は自己の迂闊さに苦笑いを浮かべた。
「それじゃあ、この通路の奥に看護部管理課がありますので、そちらで聞いて下さい」
言われた通りの部屋のドアを開けて用件を述べると、若い女性事務員が、名簿から二病棟六階勤務と教えてくれた。
「昼の休み時間なので、食堂に行ってなかったら、詰所にいると思いますから」
こぼれる笑顔を向けたまま、第二病棟の六階へ電話をかけてくれた。
「はい、古賀ですけど」
受話器から流れる声に、私の緊張はマックスに達する。
「あのう、大阪から来ました、予備校の講師をしている南埜というものですが‥‥‥、少しお伺いしたいことがありまして―――」
「どんなことでしょうか」
古賀都の突き放すような声に、私は気が滅入る。
「―――お会いしてお話ししないと‥‥‥」
「それじゃ、五分ほどで下りていきますから、管理課の前で待っていてください」
すでに彼女は私との間の力関係を読んでいるのか、それとも患者に接する態度が自然と出たのだろうか、少なくとも対等と思っている口調ではなかった。
廊下は食堂への通路になっているので、管理課室のドアのところにたたずんでいると、白衣を着た大勢の人たちが私の前を行き来する。何と切り出そうか迷っていると、
「あのう、南埜さんですか」
小柄な女性が首をかしげながら近づいてきた。聞いていた通り、色白の美人である。うりざね顔といっていいのだろうが、少し受け口なので、顔に優しさがある。薄い化粧の下にかすかにそばかすが浮かんでいるが、彼女の美しさを阻害するものでなく、むしろ引き立てていた。
―――どうやら、対等にはなれたな‥‥‥。
人間というのは不思議なもので、一目見ただけなのに百年の知己を超えると感じることがある。私を見つめる古賀都の仕草から彼女の微妙な変化が読み取れたのだった。
「聞きたいことって、何でしょう?」
小首をかしげて、私を見上げる顔が愛らしい。三十六歳という年を感じさせない、というか正にその年齢の円熟を漂わせつつ、少女のようなあどけなさが仕草に匂い立っていた。大学病院開院以来の美人ナースというのは、掛け値なしの評価と納得させられるものであった。
「ええ‥‥‥、実は―――」
言いよどんでいると、
「そっちへ行きましょうか」
古賀都は、人通りの少ない別棟への通路へ私を誘った。
「古賀さんは、下海歌子さんを知ってますね。浪速帝大病院で一緒だった」
「ええ、知ってますけど‥‥‥、下海さんが何か?」
「彼女、浪速帝大病院のドクターと付き合っていたんですが、彼の名前はご存知ないですか」
私はいきなり用件を切り出した。
「え!」
都はキョトンと目を丸くしたが、すぐ、
「どうして、そんなことを知りたいんです?」
当然の疑問を口にした。
「実は―――」
私はこれまでのいきさつを正直に打ち明けた。正義感の強そうな女性だし、少なくとも好感を持ってくれているのは、彼女の仕草から伝わっていた。
「‥‥‥そうだったんですか。でも残念ですけど、お役には立てませんわ。下海さんがドクターと付き合っていたなんて、初耳ですから」
よほど秘密の交際をしていたのだろう、親しくしていた元同僚からドクターの名前が知らされることはなかった。が、東京まで出てきたことは全くの無駄足ではなかった。帰阪した私に、古賀都が大きなヒントをくれたのだ。
「下海さん、よく車の話をしていたんですけど、フェアレディZが出てきたことを思い出したんです。ひょっとしたら、それ、ドクターの車じゃないかなって、思って。だって、下海さんが乗ってるのは三菱の車だから」
電話番号を伝えてあったので、古賀都が連絡をくれたのだが、これでドクターを確定することが出来たのだった。
「浪速帝大病院のドクターで、フェアレディZに乗っている人はいないだろうか?」
看護師の吉田春子にさっそく電話すると、
「ええ、いますよ。小児外科の秦田信也先生がフェアレディZに乗ってますけど。‥‥‥あっ! 先生、ガーゼミスが行われたのは、小児外科じゃないですか!」
勘の良い吉田は、医療事故の全貌を把握したようである。
「へぇー、小児外科というセクションもあったんだね」
「ええ、一外から分離したんですけど、独立した科です。‥‥‥やっぱりガーゼミスが行われたのは、小外(小児外科)ですよね。子供だったら、ガーゼを忘れられると随分応えますからね。下海さんの話の辻褄がすべて合いますから」
「そうだね‥‥‥」
両親にミスは知らされず、子供は亡くなったのだろう。ますます許せなくなる。耳原病院での父の医療事故を思い浮かべると、何としても亡くなった子供の両親に真実を伝えたかったが、明らかに医療ミスを認めながら、争訟になるとひっくり返したのが耳原病院である。浪速帝大病院の場合、亡くなった子供の両親はミスすら知らされていないのだ。この後、私は八方手を尽くしたが、患者や遺族の氏名は突き止めることは出来なかった。小児外科のドクターにも接触したが、当然ミスの存在は否定され、脅迫罪で告訴するとまで息まかれてしまった。ただ告訴する度胸のないことは態度から分かったが、このことは一層医療ミスの存在を確信させたのだった。
私が調べた結果、判明した事実を以下に記載して、関係者による情報の提供を待ちたい。まず、小児外科ではT助教授が辞職して、一般外科専門のA助教授が就任しているが、ガーゼミスとの関連があるのか。あるとすれば、T助教授が執刀医であった可能性が高くなる。当時、小児外科の教授O氏のところでは、息子の家庭内暴力に悩んでいたが、このことがガーゼミスと何らかの関係があったのか。以上である。なお、浪速帝大病院では、第三内科のI医師がナースに性病(クラミジア)を感染させ、そのナースからまわりまわって小児外科のH医師が感染。Hと大阪市西区のマンションで結婚を前提に半同棲生活を送っていたのがS看護師であった。この性病事件の悲劇は、HがSから性病を感染させられたと誤解し、彼女をマンションから追い出したことであった。これが私の調査結果であり、ガーゼ失念ミスが行われたのは小児外科であったことの、強い傍証となったのだった。
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