第5話 耳原病院が謝罪し、一千万を支払った理由
日本の医療訴訟の原点とも呼ばれるものが東大梅毒血輸血事件で、文字通り東大病院で梅毒血を輸血され、その結果、甚大なる身体的及び社会的被害を被った女性が起こした裁判だった。この裁判で、裁判所は原告の請求を認容して、被告たる東大(国)敗訴の判決を下し、東大(国)の賠償責任を認めた。最高裁の判決が確定したのは昭和三十六年のことである。この判決を機に、まるで燎原の火のごとく、全国に医療訴訟が燃え広がった。日本の最高学府たる東大の、最先端というか、最も信頼のおける医療機関と考えられていた東大病院。そこでのミスを最高裁が認めたのだから、その他もろもろの医療機関へ波及するのは至極当然のことといえるものだった。この東大梅毒血輸血事件が起こった当時、職業的売血者による売血液の供給が輸血用血液の主な供給源であった。血を売り、その金でホルモンを食べ酒を飲んで簡易宿泊所で寝泊まり。これでもまだ手元に金が残ったという、こんな生活が成り立った時代であった。当然のこととして、売血を生業(なりわい)とする職業的売血者が輸血用血液供給者の大半を占める社会的背景が出来上がって行った。東大医学部付属病院へ血を売りに来た者も、そのような売血者の一人であった。医師の、
「大丈夫だね?」
との問いかけに、
「はい。先生、大丈夫です」
売血者は、二週間前の血清反応証明書を差し出したのだった。つまり、これは二週間前の検査時点では梅毒の検査はクリアしたことを意味する。が、潜伏期間中であったかもしれないし、この検査後、梅毒に罹患したかも知れないのである。事実、この売血者は、この検査後、売春婦を買って彼女から梅毒をうつされていたのだ。一四九二年にコロンブスが新大陸を発見し、そこから持ち帰った梅毒は彼の帰国後、一年以内にヨーロッパ全土に広がってしまった。当時は特効薬もなく、性交による感染は言うに及ばず、親から子、そして孫への胎内感染で爆発的な広がりを見せたのだった。著名女王などは梅毒感染で顔が崩れ、肖像画を描く画家が眉毛の位置に困ったという笑えない話も残っているほどで、当時は、三十年前後に目と耳を襲うダメージが特に深刻だった。このように、ヨーロッパ全土に猛威を振るい、我々のよく知る音学家たちも感染被害者と疑われる梅毒であるが、わが国への渡来も早かった。戦国時代の武将・加藤清正の死因も、最近の研究発表では毒殺説を否定する梅毒死因説が有力に主張され、注目を浴びているのだ。戦国武将の死から四百年以上経過した現在の我が国でも、梅毒の罹患者が静かに、という形容が及びつかないほどの罹患者数増加の脅威にさらされているが、これはある特定の国からの観光客の増加とピタリと一致するもので、関係各所や医療機関を悩ませる深刻な事態に至ってもいる。このように、梅毒と梅毒の歴史を語るときりがないので、とりあえず、最高裁の判決が出された五十八年前に紙面を戻したいと思う。
さて、東大(国)に対する国家賠償請求訴訟で、最高裁が国家賠償法一条一項の責任を認めたということは、東大病院の医師に少なくとも過失があったことが前提となっている。つまり、医師の「大丈夫だね?」との問いかけ、これだけでは注意義務を果たしたとは言えず、無過失といえるためには、問診段階で「この検査の後、(売春婦を)買ってないね?」との問いかけまで必要だと判断したと解されている。医療訴訟で、これまでほとんど病院側の責任を認めてこなかった裁判で、病院側の責任を認めたことは患者や遺族にとって大きな前進であった。全国に医療訴訟が燃え広がる原因でもあったのだが、患者・遺族にとって勝訴が困難であることは、この判決以降も変わることはない。医療関係者が意を通じて患者側に不利な証言をすれば、証拠の大半を病院側が握っているという、証拠偏在の観点からみて、到底、患者側に勝ち目はないのである。
十年の時効期間があと数日で経過するという、きわどいタイミングで訴えを起こしたものの、父死亡の医療訴訟においても、勝訴の見込みは全くなく、ましてや、担当医も主治医も前言を翻してしまい、病院側有利な証拠提出や証言がなされる現実に直面すると、妻も私も法廷で暗澹たる気分にさせられたものだった。病院側担当の中年弁護士も、見るからに優秀で、口をつく弁舌もなめらか、自信満々に病院側無過失の法的主張を展開するのだった。
総婦長(看護部長)が泣いて謝った事実は弁護士も否定しなかったが、道義的謝罪であり、法的責任を認めたものではないと、医師会の医事紛争処理委員会で病院側が述べた主張を臆面もなく展開した。結局、医事紛争処理委員会での、病院側主張は彼のアドバイスというか、彼の論理に乗っかったものであることがまる分かりであった。
勝訴を確信した弁護士の傲慢さが私の神経を逆なでたが、ナースの証言の途中から彼の表情が激変してしまった。元々、父死亡当日勤務だったナースの証言には、当方の弁護士も私もまったくといってよいほど期待はしていなかった。弁護士事務所での打ち合わせの時、
「南埜さん、看護婦さんの住所を見て下さい。耳原病院が住所になっていますよ」
病院提出の証人住所と氏名を山下良策弁護士に指し示され、
「ホントだ。バリバリの党員だな。正直な証言は期待できんな‥‥‥」
我々二人の共通認識で、事実、証言台に立った中年のナースは、
「ナースステーションを空けていたということはありません。人工呼吸器が外れているのに真っ先に気付いて、私が駆けつけて、心臓マッサージを施したんですから」
案の定、病院側の過失を否定する証言を行った。ただ、カルテの差し押さえから五年が経過しており、また、父の死から十年もたっていることから気の緩みがあったのか、それともおだてられた故の不遜さからか、この裁判の勝訴を確信した面持ちで、彼女は続けた。
「私は前々から上(病院幹部)には言っていたんですよ。南埜さんは容態が急変するから、ナースステーションから一番遠い個室へ入れたらあかんて」
最後に言わなくてもよいというか、決して言ってはいけない証言を、自らの意思で付け加えてしまった。この発言で、相手方弁護士の顔からスーと血の気が引いて、呆然と証言席のナースを見やった。が、語っている当のナースは自分の証言の法的意味を全く理解しておらず、この二人の強烈なコントラストが私の網膜に飛び込んできたのだった。病院側が勝訴を確信せず、タイトな心理状態でこの法廷に臨んでおれば、こんな事態は起こりえなかったであろうが、当方にとっては、まさに僥倖(ぎょうこう)というしかない場面が訪れたのである。証言者のナースは、看護ミスを自らの証言で否定はしたが、病院の管理ミスを認めてしまった。つまり病院側に不利益な事実(容態の急変する患者を、ナースステーションから一番遠い個室に収容していたという事実)を陳述したのであり、訴訟的評価としては、大きな不利益効果が発生する裁判上の自白と判断されるものだった。このことの法的意味を痛いほどわかっている弁護士と、全く理解していないナース。彼女の証言の後、病院側弁護士は必至の弁明を試みたが、変わってしまった流れは覆しようがなく、裁判長はそっぽを向いたままで、当方の弁護士は筆記に専念。相手方弁護士は、仕方なく私と目を合わせ語り続けるが、
―――もう駄目だよ。
私は敗訴を受容しつつある病院側弁護士に、心でダメを押したのだった。九回の裏に逆転満塁ホームランが飛び出してしまったのだ。ヒーローは打ったバッターではなく、草野球のバッターでもホームランをかっ飛ばせる、ゆるいド真ん中の直球を投げてくれた、相手方ピッチャーだった。
君子豹変ではないが、さすがと思わせる変わり身で、優秀なだけあって病院側弁護士は往生際が良かった。裁判所を通して和解の申し立てをしてきたのだ。
まず、私が裁判長に呼ばれ、相手方から和解の申し出があることを伝えられた。こんな時、渡りに船だ! と、飛びついてはいけない、というのが裁判官だった友人のアドバイスであった。何故なら、裁判官はできれば判決書を書きたくない。少なくとも友人は、書きたくなかった。一生懸命、慰謝料と逸失利益等の計算をし、過失相殺その他もろもろの条件を加えてようやく判決書を作成して判決を言い渡す。ところが、原・被告どちらかが控訴すると、血と汗の結晶とまでは言わなかったが、大事に作り上げた判決がパアになってしまうのだ。その点、和解はいい。これで争いに決着がつき、裁判官の苦労もそれほど大きくないもので、しかも爽快。和解大好き、が友人の口癖であった。そこで私は、メガネの似合う上品な面立ちの五十がらみの裁判長にこう述べた。
「判決を出してください。耳原病院には、さんざん嘘をつかれてきまして、これでは父が浮かばれません。判決をお願いします」
当然、裁判長は渋い顔。私に代わって山下弁護士が呼び出された。しばらくして、私の隣席に戻ってきた彼は、
「南埜さん、判決を出してもらいましょう。満額取れますよ」
私に耳打ちしてくれたが、
「一番の目的は病院に謝罪させることで、満額取れても、謝罪がなされんとあまり意味がないんで、謝罪をさせたい。この点の譲歩があるなら、和解に応じてもいい」
私の譲れない一線だった。再度彼が呼び出され、相手方弁護士と裁判長の三者で譲歩案が練られ、謝罪に応ずるとの結論に到達した。これで、私の訴訟意図が八割がた達成された。あとは、慰謝料としての解決金の問題が残った。相手方弁護士は、五百万円程度を着地点にしたかったようであったが、私は渋い顔で首を振った。これも友人の元裁判官のアドバイスに従ったのである。
「南埜さんは、大台に乗らんと納得されませんわな」
案の定、裁判長が水を向けてくれた。
「ええ、人の命がなくなっているんですから」
父の苦しみやこれまでの病院の対応を考えると、やはり一千万は最低限確保せねば、収まりがつかないと思った。それに一千万と五百万では、この裁判に対する注目度が格段に違うのだ。同じ苦しみを味わう人たちの支えになる参考例。この紛争の私なりの位置づけだった。
「出します」
相手方弁護士の英断(?)で、本件紛争の裁判上の和解が成立した瞬間だった。和解が完成したのは十一月二十一日の正午前。当日の読売新聞夕刊の三面トップ、四段抜きで記事が掲載された。夕刊にぎりぎり間に合う時間まで、記者が裁判所に待機していたのだった。父の死から十一年と五ヶ月十一日目の決着で、長く苦しかった耳原病院との闘いにようやく幕が引かれ、父の無念を晴らすことが出来る理想的な終焉だった。
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