第3話 医事紛争処理委員会

耳原病院の事務長は「調停」という言葉を使ったが、最近では、医事紛争調停委員会といわず、医事紛争処理委員会での紛争処理ということになっているので、ここではこの名称を使うことにする。調停委員会の調停でも同じであるが、当事者である被害者遺族や病院を拘束するような法的効力を持つためには、医師会の紛争処理委員会の判断に当事者が同意することが必要なことは言うまでもない。この点は当事者の同意の有無にかかわらず、法的判断の効力が及ぶ裁判所の判断である判決と大いに異なるものである。ただ、医療保険との関連で、保険会社への支払い請求がスムーズに行くよう、耳原病院は医事紛争処理委員会にかけた、というのが私の判断であった。が、この点は第一回目の医事紛争処理委員会への出席で、認識の甘さを思い知らされてしまった。医事紛争処理委員会への出席回数は正確には覚えていないが、資料を漁る気も起らないので、数回という表現にとどめるが、多分四、五回であったろう。

 呼び出された時間は、たいてい午後七時か八時で、妻と二人で地下鉄谷町線の谷町六丁目駅を降り、紛争処理委員会の開かれる大阪府医師会館へ歩いた。事務所へ寄り、来館の趣(おもむ)きを伝えると、柔道をしていたとまる分かりの体格のよい事務員が出てきて案内を受ける。エレベーターに乗り、石川という名前の事務員の先導で、六階だったか、七階だったかの面談室に入る。二十畳はある部屋の会議用テーブルに妻と並んで座っていると、二人の紛争処理委員が現れ、簡単な自己紹介の後、本題に入る。頭髪も顎髭も白一色の、六十過ぎの医師が我々を和ませる意図であろう、

「看護婦がナースステーションにいてなかったって話ですが、喫茶店へコーヒーでも飲みに行ってたんでっか?」

 医師の意図的中で、隣りに座る妻が、いいえ、と口元をほころばせ肩の力を抜いて首を振った。

「耳原病院の看護婦さんに限って、勤務中、喫茶店へコーヒーを飲みに行って、ナースステーションを空けるというのは、考えられませんが」

 私も苦笑いを浮かべ、高橋という委員の作戦に乗った。もう一人の福田という委員は、だんまりを決め込んでいた。雰囲気が和んだ中で、私と妻が当直医や主治医から聞いた説明を話し、病院長と総婦長の謝罪を語ると、

「泣いて謝ったって言わはるけど、道義的責任を感じて謝っただけで、泣いて謝ったのは、長いこと入院してた患者さんが亡くなったので、悲しくなって泣いただけです、と病院側は言ってますけど」

 高橋委員から、信じられない病院側の主張を知らされる。弁護士の入れ知恵だろうが、こんな論理をまかり通す病院側のやり方に改めて怒りが込み上げる。横で妻も驚きの表情を浮かべ首を振る。

 耳原病院の主張としては、人工呼吸器が外れていたことは認めるが、すぐさま適切な処置をしたので、この点ではミスはないとの主張を展開する意図であろうと分かる。

「でも、主治医の先生は、看護婦さんがナースステーションを空けていたのは六分くらいだったと聞いていると、私たちに説明してくれました。用紙に書いてあるところを何度も丸で囲っておられました」

 目の良い妻には、主治医の説明時、カルテ用紙の裏に書かれた記述が見えていたようだ。近視の私にはもちろん見えていなかった。

「せやけど、そんな用紙、どこにもおませんで。何やったら見せましょか」

 高橋委員は、病院提出書面をすべて我々の前に開示してくれたが、彼の言うとおり、病院に不利な内容の書面はどこを探してもなかった。結局、耳原病院の主張としては、先に述べたように人工呼吸器のチューブのはずれは認めるが、適切な処理をしたので、この点でのミスはなかった。泣いて謝ったことも認めるが、単に道義的に謝っただけで、法的責任を認めるものではない、とのことだった。

「長いこと入院してた患者さんが亡くなったら、耳原病院は、いっつもいっつも泣いて謝るんか。そんな話は聞いたことないな」

 大阪府医師会館を出て、妻と並んで、地下鉄谷町六丁目駅へ寂しい街灯の下を歩きながら、私は無力感と不信感に圧し潰されんばかりだった。父の長い入院生活の中で、人工呼吸器が時折外れるのを目撃したが、その都度、

「外れたら、自分では接続は難しいから、ナースコールを押して看護婦さんにすぐ来てもらうんやで」

 父にはしつこいほど念を押してきたが、ナースが詰め所にいなければ、むなしい警告灯が点るだけで何の役にも立たないのだ。

「こんなこと認めたら、お父さんが可哀そうすぎる。‥‥‥浮かばれへん」

 妻も心底、ショックを受けたようで、夏から秋に変わる暗い夜空を見上げ、深いため息をついた。お互い、これほどの不信感に襲われたことは初めてで、かといって、湧き上がる怒りの方向が定まっても、納得のいく収め方など思いつくはずがなかった。

 医事紛争処理委員会へは、その後数回出席したが、耳原病院側の主張は変わらず、出席のたびに不愉快にされるだけだった。総婦長が、「お父さんが生きていらっしゃったら、息子さんが紛争処理にかけたりしたら、きっと悲しまれると思います」と述べたと、紛争処理委員から聞かされたときは、私は怒りで体が震えてしまった。あれほど世話をしてやったのに、恩を仇で返すのか、との主張であろうが、思い上がりも甚だしい。確かに献身的ともいえる看護にはずいぶん感謝して来たし、折に付け言葉でも表してきた。しかしその感謝は、愛する家族を失った悲しみと、それを失わせた行為に対する怒りの前では、とてつもなく小さい。死をもたらす可能性ある職務や行為に従事する者は、このことを常に肝に銘ずるべきである。

「怒鳴りつけてもミスを認めようとせんのですよ。裁判にかけられたらどうですか」

 最後に出席した処理委員会の席で、高橋医師からの提言だった。

「ええ、そうするつもりです」

 私は答えたものの、先の展望が全くといってよいほど見えなかった。なお、後日分かったことであるが、高橋道成医師は医療法人積善会高橋病院の創立者で、私たちにはずいぶんと好意的であった。おそらく、医師会に医事紛争処理委員会を設けている以上、出来れば裁判ではなく、医師会内部の紛争処理機関で解決したいという意図であったのであろう。彼は私の裁判の結果を待たず亡くなってしまわれたが、お手を煩わせたことへのお礼と裁判結果の報告を兼ね、昨年、大阪府貝塚市の高橋病院を訪れ、拙著を奥様に託したが、妻と大阪府医師会館を出たときには想像もできなかった裁判結果がもたらされたのだった。さて、大阪府医師会館を出た、どん底の妻と私に時間を戻すと、

「ねえ、どうするの?」

 地下鉄谷町線で天王寺へ向かう電車のシートで、妻が私を見上げ不安を声ににじませた。不条理に怒り心頭の私を慮(おもんばか)っての問いであるが、平然と事実を否定する病院相手に具体的対応など、現時点で思いつくはずがなかった。結局、カルテの保存期間が過ぎる五年以内にカルテの差し押さえをすること、父の死から十年以内に裁判を起こさなければ損害賠償請求権が時効にかかってしまうので、この期間制限をタイムリミットとして対策を立てねばならないことを妻に告げて、私は再び目をつぶった。経験したことのない深い闇の世界に身をゆだねるしか、所作が思い浮かばなかったのだった。

 五年以内のカルテの差し押さえがなされ、十年以内に裁判を起こしたことによって、耳原病院の謝罪と解決金の支払い。この実質勝訴の裁判上の和解が成立したのは、いずれの期間制限も充足できたことが前提であったのは言うまでもない。が、いずれのタイムリミットも、期限ぎりぎりのクリアであった。なぜ、訴え提起が十年の時効直前まで待たねばならなかったのかは、母フジヱに父の医療事故死を伝えていなかったことから、提訴となると、それを知られてしまうことが一番の理由だった。病弱で父より二歳上の七十七歳、この母がどれほどのショックを受けるか計り知れなかったからであった。

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