マラーの死
広いアトリエで弟子たちが抑えた声で会話を交わす。
「ダヴィッド先生、一体何描いてるんだ?あんな一心不乱な姿、久々に見たぞ!」
「議員になってからこの方、忙しいもんな」
「マラーの最期の絵らしいよ」
「ああ、なるほど……」
画房の
暗いカンバスの中に浮かび上がる上半身裸の男。頭に白い布を巻き、眼を閉じ、右手に羽ペン、左手に墨跡新たな手紙を握っている。
白と緑の布が画面を二分して裸身の存在感を強調し、傷口と手紙、新聞紙と布の上に散る朱へ注意をひきつける。床に落ちたナイフの刃は暗がりに溶け、直前の凶行を暗示する。右寄りに配置された木箱の上には羽ペンとインク壺、アシニヤ紙幣と手紙。
画家は深い吐息をつき眼差しを和らげ、木箱の下方へ丁寧に「マラーへ、ダヴィッド」と献辞を書き入れる。最後に木枠すれすれの所に小さく「共和暦2年」と付け足した。
太い指で癖のある髪をぐしゃりと掻き、画面に向かって黙祷するように俯く。
『マラーの死』、その絵は「革命のピエタ」とも称される。
革命政府下でラボアジェは目が回るほど忙しかった。
徴税組合と徴税請負制度は廃止されたが、火薬監督官、財務委員、十進法推進委員、度量衡制定委員、諸々の役職を常に掛け持ちしていたためだ。
1792年8月の王権停止(ルイ16世とマリー・アントワネットの幽閉)と9月のパリ民衆よる囚人虐殺が潮目となり、機を見るに敏な貴族、政治家たちは
亡命、逮捕、処刑が相次ぎ、上級官僚の職務をこなせる人員の数は明らかに不足していた。
メートル法の基準となる子午線の測定はスペインでも行われていたが、周辺の国はフランス人と見れば革命主義者を疑う時勢、測量は度々妨害され困難を極めた。
度量衡制定委員会の予算執行はしばしば滞り、ラボアジェは身銭を切って調査費用を送り続けた。
根っからの仕事人間であるラボアジェが珍しく「仕事に圧迫されている。自分に課されている重荷は膨大だ」と友人に手紙で愚痴をこぼしたのはこの時期のことだ。
1月、ルイ16世が
3月に革命裁判所が設置され、6月には蜂起したパリ民衆によってジロンド派が国民公会から追放された。
マラーがジロンド派に共感を寄せる女性、シャルロット・コルデーによって暗殺されたのは7月。恐怖政治の幕開けだった。
使用人たちが傍聴してきた裁判の様子を仕事の合間にひそひそ喋っている。
「マラーをやっつけたコルデー嬢、
「へえ、どうだった?」
「確かに綺麗な娘っ子だったよ。でもよ、それよりよ。[編物女]を初めてこの目で見たんだ!」
「怖えのなんの!!クルクルクルクル、カチカチカチカチ……。薄く嗤ったり眉を顰めたりしながら、被告が抗弁しようが死刑の判決が出ようが、手を止めやしない!機械のようにひたすら手を動かし、うねうねと編物を生み出してく。機械の方が顔のないだけ、なんぼマシかもしれねえ。あいつら広場で処刑を見物する時もそんな様子だと!恐ろしや恐ろしや!!」
通りがかりに会話を耳にしたアントワーヌは陰鬱な笑みを浮かべる。
――彼女たちが革命の音楽家か!断頭台への
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