絵描きと学者
「ダヴィッド殿。私の手元の紙は執筆中の原稿であることがはっきり分かるように描いてもらえるだろうか。仮説と実験、そして実験結果に基づく理論構築。私の研究姿勢が分かるように描いてほしいのだ」
「承知しました」
「先生、今更のお願いで心苦しいのですけれど、この帽子は絵から省いていただけますか。視界が狭まって書記の邪魔になるので、室内で被ることはありませんから。本当は
売れっ子画家、ジャック=ルイ・ダヴィッドはデッサン用の木炭で手近な紙に依頼主の注文を書き留める。
年齢は四十前後、絵筆を握る指は太く力強い。濃い眉に茶色の瞳、眉と眼窩の間は狭く、額に刻まれた皺と相まって気短かそうな印象を与える。鬘に隠れた髪は茶色、左頬に赤みがかった傷跡が残る。
彼はマリーの絵画の師でもあった。
「そうそう、先生!合衆国にいらっしゃるベンジャミン・フランクリン氏から、私が描いた肖像画にお礼のお手紙を頂きましたの。とても喜んでくださって!先生のご指導のお蔭ですわ!!」
「夫人は上達が早くて教え甲斐がある生徒でしたからね。先ほど伺ったところでは、ラボアジェ殿の次の本に、夫人が手掛けた図版が入る予定とか?」
ダヴィッドは不明瞭な声で話す。若気の至りの決闘で負った頬傷の後遺症のためだ。
「ええ、そうです。マリーの実験器具の図は申し分ない出来ですよ。これでパリやロンドンでの実験見学が難しい、地方の学者や若者にも実験方法を理解してもらうことができる」
ラボアジェは妻の横顔を眺め、満足そうに微笑む。
完成した肖像画の報酬は7000リーブル。ラボアジェは一括で支払った。
日雇い労働者の日当が1リーブル未満だった時代。彼の財力は疑いようもない。
ラボアジェに兄弟姉妹や子はおらず、血族の遺産は彼一人へ流れ込んだ。
そして地位と名声の上昇に伴い、彼の収入はうなぎ上りに増加した。
潤沢な金を使う暇がないほど忙しく、平民の出自で民衆の生活に関心を寄せ続けていても、彼と持たぬ者たちとの間の距離は本人が思う以上に遠かった。
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