有夫にして学を志す(1)
「夫と離れて過ごしていることに悲しみを覚えずにいられません。お兄様はいつお帰りになりますか。ラテン語はお兄様が私のところに居てくださるよう、要求しています。私を夫にふさわしくして下さるために、お兄様には退屈でしょうけど名詞や動詞の変化を教えにいらして下さい」
19歳のマリーは5歳離れた長兄、バルタザールに手紙で訴える。
彼女は英語・イタリア語・ラテン語を学び、夫のために最新の科学論文の翻訳をするようになっていた。
ニュートンの国、イギリスの科学へ熱烈な関心を寄せながら終生英語への苦手意識が抜けなかったアントワーヌにとって、十代の妻は得がたいパートナーでもあった。
「この家は本当に広いな!兵器廠がこんなに大きいって知らなかったよ」
マリーの次兄、クリスチャンは椅子に腰を下ろしながら感心した様子で周囲を見まわす。
「ところでアントワーヌ、さっきマリーと話していた”幸せの日”って何だい?」
「ああ、クリスチャン、それは仕事がない休日のことさ。一日研究に充てられるからね。普段は仕事があって、朝の6時から9時まで、夜の7時から10時までしか研究できないから」
「ええ⁉いや待て待て。『普段は』?『しか』?仕事がある日もいつも6時間も研究しているのかい!?」
「そうだよ?」
アントワーヌは義兄の驚きが逆に腑に落ちない様子で言葉を返す。
「いやはや、君は呆れた研究中毒だね!!妹が幸せそうだから文句をいう筋合いはないが、僕の妻なら不平たらたらだろう!」
「本当に、マリー様が嫁いできてくだすって良かったですよ。おぼっちゃ…旦那様ときたら、子どもの頃からずっと学問の
忠実な従僕が口を挟み、アントワーヌは大いに慌てる。
「マスロー、余計な事は言わなくていい」
「奥様の御兄上に感謝の気持をお伝えしたいんですよ、言わせてください。ドレスなら染色や漂白、宝石は実験材料か課税対象、花に至っては肥料の話題へすり変えてしまう、研究一辺倒の旦那様に付き合ってくださる奥方が、ほいほい見つかるとでも?」
マスローと呼ばれた従僕は鼻息荒く反論する。アントワーヌはきまり悪そうに黙りこんだ。
マリーの兄、クリスチャンは苦笑する。
父が28歳のアントワーヌに声を掛けるまで、裕福で前途有望、見目も良い彼が独身のままでいたことをずっと訝しんでいたのだが、疑問が氷解した。凡そ異性に対して壊滅的に気が利かないのだろう。
そして家を離れるまで一緒に育った妹が、向学心に富んでいること、語学の才に恵まれていることも全く知らなかった。敬愛する夫のためという動機付けがあるにせよ、それだけで高い水準に到達できるものではない。
突然の縁談がなければ父は妹の結婚を急がなかっただろうし、数年後ではマリーが高度で専門的な教育を一から身に付けるには遅すぎただろう。
ジャックに縁談を持ち込んだテレー元財務総監とダメルヴァル侯爵は、意図に反してラボアジェ夫婦のキューピッドの役回りを務めたわけだ。
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