第9話 旅立ち

ある秋の日。


百合が旅立ったという知らせが入った。


百合は最期の姿を見せてくれなかった。


「綺麗なお姉さんのままでいさせて。」


そう優しく囁く姿が、私が最後に見た彼女だった。






ーーーーーーーーーーーーーーーーー


百合が残してくれた高級マンションは

都内の一等地にあった。


そびえる宮殿のような高層ビル街に、私はよく覚えのある憧れと軽蔑の感情を思い出した。


貧しい者たちには

決して踏み入ることのできなかった世界。


家族は今頃どうしているだろうか。


娘を失ったお父さんは。


姉を失った弟たちは。




エレベーターに乗ると、

ゴテゴテと着飾った中年女性が興味津々に

こちらを見つめてきた。


しかし私が11階のボタンを押すと

女性は突然エレベーターから降りてしまった。


「エレベーター、よろしいんですか?」


そう尋ねると女性はぎょっとして


「え、と、とんでもございませんわ!」


と言ってぺこぺこ頭を下げてきた。

こちらとしてもそこまで言われては

申し訳ないので、素早く閉ボタンを押し

11階へ向かった。



部屋へ着くとその理由がよくわかった。

11階は最上階で、その階が丸ごと私の部屋だった。


ああ百合が言っていたのはこのことかと。


『一般庶民にとったら財閥なんてただのとんでも大金持ちでしょうけど、ある程度事情のわかる人ならいかに弦堂家の人間に無礼を働いてはいけないかよーく知ってるものよ。』



自分はその弦堂家の人間になりすますのだ。


私は武者震いがした。


誰がインターホンを鳴らした。

モニターには黒服に身を包んだ私がよく知る男性が立っていた。


大柳おおやなぎさん。今開けますね。」


大柳さんは百合のお付きの人だった。

百合いわく、大柳さんはこちら側の人間で

今まで百合の計画があの弦堂家に漏れなかったのは彼のおかげらしい。


大柳さんの第一印象は、

優しそうなメガネのおじさん。

しかし、その柔和な物腰とは裏腹に彼の仕事ぶりは完璧で誰よりも優秀な人材だった。


またまた百合いわく、彼は昔国家レベルのスパイをしていたとかいないとか。


「本日は重要な書類を持って参りました。」


そう言って大柳さんは私の顔と弦堂百合という名前が書かれた保険証や、大学の卒業証書など私が弦堂百合であるための書類を机の上に丁寧に並べた。


「すごい、本物みたい...。

 全て大柳さんが準備を?」


「それは秘密ですね。」


大柳さんの微動だにしない笑顔が少し怖い。


大柳さんはメガネを綺麗に拭き、

ゆっくり息を吐いて私の目を見た。


「本来、弦堂百合さんはちょうど今月から2年後、つまり再来年の今頃に帰国し弦堂家と顔合わせをする予定でした。」


「はい。」


「しかし本物の弦堂百合さんは、この10月でお亡くなりになり、これからはあなたが彼女を引き継ぐのです。ですから、今まで以上に準備を重ねなければいけません。」


「...覚悟はできています。」


私は静かに書類を置き、大柳さんを真っ直ぐに見つめ返した。





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