第10話 始まり


2016年8月29日 南部由美___



不思議な夜であり、出会いだった。


母は喫煙者だった。そのことを私自身に隠していたつもりかもしれないが、内情は筒抜けである。父親からの昔話や、母の部屋から漂う燻した匂い、ニコチンの不足によるであろう不可解な行動。なぜ事実を隠し通そうせると思い込んでいたのか由美には理解できなかった。隠している様子だったために言及はしなかったが、検死解剖の結果、肺年齢が恐ろしく高いことが分かった。さらに亡骸となった母親の部屋からも、数カートンの『パーラメント』という銘柄の煙草が見つかった。


「母さんこんな隠し持ってたのか」


父の哀愁漂う笑いが印象的だった。フィルムで括られていたものの、心なしか母の匂いがした気がした。


しばらくして、由美はコンビニで煙草を買った。父からパーラメントには『ショートサイズ』と『ロングサイズ』の二種類があることを聞かされていた。母親が短いサイズを愛喫していたことを聞いたので、もちろん銘柄はパーラメントのショートサイズ。


煙草は中学の頃、友達と興味本位で吸ったことがある。記憶も曖昧で入手方法も覚えていない。その時は、こんなものに価値など微塵もないと思った。煙たくて、匂いも臭く、健康にも悪い。こんなもの二度と吸うものかと、友人と共に誓ったような記憶がうっすらある。


深夜、父親の家を飛び出し、右も左も分からず、煙草に火をつけ吸った。


当然むせた、口に残る煙たさ、匂い、有害物質が口内を埋め尽くす最低な感覚。中学の時に味わったものと差して変わりはない。


だが、この煙草を亡き母親が吸い、喫煙していたことを思うと涙が溢れた。この暗く孤独な空間に紛れた悪魔に殺され、母は死んだ。弱々しい涙が額をつたった。


それを期に、人けのない時間になっては外に出向き、散歩ついでに煙草を吸った。日中に熱された空気やアスファルトがほどよい温度を保ち、肌触りの良い空気が通り抜ける。部屋で無為に過ごすよりも、開けた外の世界に身を置くことで気分も開ける気がした。母の遺産を片手に散歩にふけることは、由美なりの母への弔いのつもりだったのかもしれない。


南高校へ転校した日のことだ。初対面でのコミュニケーションに気疲れしていた学校終わり、深夜に家を抜けては煙草を吸い、夜道を歩いた。


「あの!」


同じく夜道を歩く通告人が、すれ違いざまに声をかけた。反射で振り返ると、寝間着らしき軽装に身を包んだ同世代らしき男だった。知り合いではない、他人。なんの用があってこんなことを?


咄嗟に母親の顔が脳裏に浮かんだ。母は仕事帰りの夜道、何者かに殺され死んだ。そのリバイバルが起こったとでも?


「…え?」


身の毛もよだつ恐怖とはこのことだろう、思わず声が漏れた。まだ何か他愛もない頼みごとがある迷い人かもしれない。手のひらを合わせ両腕を押し付けるように、逃避と踏みとどまる選択肢に少々拮抗したが、由美は前者を選び、この場を離れようと歩き出した。


「あの、今日転校してきましたよね、南高校に」


聞き捨てならない質問に、由美は歩きに歯止めをかけ、振り返った。南高校?確かに私は今日、この学校に転校した。状況が理解できない。


少し離れた位置から、彼を見た。そして、火を灯した彼の指先を見た。


煙草だ、この男は煙草を吸っている。煙草?この瞬間、由美自身も同じように煙草を吸っていることを思い出し、咄嗟に指先に挟んだパーラメントを背中の裏へと隠した。


「…誰ですか?」


いつ襲いかかられてもいいように、ある程度の距離は確保した。いざとなれば大声で助けを呼べばいい。


「えーと…隣の、3年2組の柴垣…っていいます」


思い当たるなにかを求め質問したが、期待には応えられなかった。ますます意味が分からない。思わず「はっ」と声を裏変えた。


柴垣と名乗る男はその後「えーと…えー」と目を泳がせ、おじおじと困惑し始めた。理解に及ばない出来事がここまでとなると何も思わなくなることを由美は知った。

同じ学び舎で苦楽を共にする同級生、柴垣隆之介。順当な世界線であれば一度として関わることのない存在。そんな彼が、由美と同じように煙草を吸い、夜道を歩いていた。今わかることはこれくらいだろうか。


「煙草…吸われるんですか?」


煙草という不良じみた行為。それをこんな好青年ともいえる少年が嗜んでいる。


今日の朝、同じクラスの女子が、この柴垣隆之介のように話しかけた。趣味や性格、さまざま詮索された。声をかける人間心理の理解はたやすい、気の合う仲間を増やすことができるかもしれない、孤立から救い社会貢献できるかもしれない、暇を潰すことができるかもしれない。


ありがたいことだ、気が合わない場合を除けば。


残念なことにその女子とは趣味も好みも、まるで合わなかった。少しでも共通点を見つけようと詰め寄られた時は、少々面を食らってしまった。早くひとりにさせてくれと切に願った。


だが、そんな状況をも逸脱し詰め寄るこの男には、なぜか嫌悪感を抱かなかった。


消極的な性格なのだろう。不必要なコミュニケーションを好まず、カロリーの消費を極力避ける。理由は分からないまでも、不慣れなまでに喋りかけた様子から、容易に想像できる。


私と同じだ、彼とは嚙み合わせがよい性格であることを、本能で感じることができた。


そして、同種である彼が煙草を吸っている。消極的で非行とは縁のであろう彼と私が、なぜか煙草を吸う。俗っぽくも運命とも呼べる甘美な直感が、由美を引き付けた。


「え?」


由美はとっさに隠した煙草を見せるように口元へ運び、吸った。


「…あ、ああ。パーラメントっていう」


驚くべき銘柄が、仰々しくも彼の口からこぼれた。パーラメント、私と同じだ。決してマイナーではないが、何十もある種類の内から同じ煙草を吸っている事実は、ドラマの世界に迷い込んだかと思わせた。由美は「えぇ!」と湧き出るように発した。


「わ、私もパーラメント。ショート、そっちは?」

「…しょーと?なにそれ」


柴垣隆之介は、腑抜けた面でいった。ロングかもショートも知らずにパーラメントを吸っていること、滅裂な状況。由美は積み重なったーー「表現分からん未来の俺頼んだ」に思わず吹き出した。


_


その後、初の関わり合いとは思えないほど、隆之介と気を許し話し合った。二人で深夜の街を歩いた、煙草を吸いながら。


話を聞くと、声をかけた理由は主に三つ。


一つ目は私が今日転校してきた南部由美であること。二つ目は彼女が隆之介と同じように煙草を吸っているということ。三つめは私が身に着けている服が『映画ヒメアノ~ル』のものであったこと。彼も大のホラー好きのようで、驚くことにヒメアノ~ルを公開日に見に行っていたらしい。確かに異常なまでの共通項から突然話しかけてしまう気持ちも理解できなくもない。たまたま見かけた転校生が、深夜煙草をふかしホラー映画のグッズを身に着け徘徊していたところに遭遇。傑作だ。


由美を見かけたのは、昨日の朝だという。教室の外から私を溝き込む大衆の一人らしい。映画やドラマの趣向も一致した。年齢制限のかかるスリラーものはたいてい見あさっているらしい、実際お互いが見漁った映画も大抵一致した、その評価すらも。多少の差異はあれど、各々が好き好んだ作品を共有し、推薦しあう時間が濃密だった。



2016年8月29日、柴垣隆之介___


絶望的な状況が、嘘のように一変した。


混じり合うはずのない異分の液体同士が一つになるように、互いの趣味、好み、考え方。心地を満たしあうように会話を交わした。考えを尊重しつつ適度に貶しあう。初めての関りとは思えない心地よさを隆之介は感じていた。


ヒメアノ~ル公開記念Tシャツを身に着けていることからも、ホラー好きであることは聞くまでもなかった。Tシャツは映画館で購入したらしい、デザインの良し悪しよりも、グッズを買うことで少しでも業界に貢献したいとのこと。よくこの服は寝間着として着馴染んでいるらしい。


二人は公園へ入り、ブランコに乗った。錆びついた鉄が軋んだ。


「南部はなんで煙草吸ってんの?」


煙草を吸い込み、南部にかからないよう左の唇から吹いた。


「私は…なんとなくだよ、なんとなく」


どこかしんみりした表情で答えた。なんとなく、あの友人と同じだ。


「いつから吸ってるの?」

「…ほんと、最近だよ。2週間前とか?」


驚いた、俺の吸い始めた時期と酷似している。時期も銘柄も一致、本当に偶然かを疑う。


「まじで?俺もそんくらい」

「ほんとに?柴垣はなんで吸ってるの?」


煙草を吸っている理由、改めて問われても、隆之介の中でしっくりくる答えはまだない。


「…俺は、わかんない。なんで吸ってんだろ」

「なにそれ、自分で話題振っておいて?」


南部は笑った。


「…なんかさ、なんとなくって、不適切な気がすんだ。その、南部のことを否定するつもりはないんだけど」


吸い切られたパーラメントを地面に押し付け、残り香をパーラメントの箱にしまった。


「なんとなくって、なんか逃げてる気がしない?自分の恥ずかしい部分から目を背けて、本心を見まいとしてる感じがさ」


南部は煙草をふかし、黙って聞いた。


「かっこつけたいとか、大人ぶりたい、みたいな。それこそ煙を吹いて遊ぶのが好き、とか色々あるけど」

「そうだね」

「…ごめん、なんか喋っちゃって」


隆之介は半笑いをこぼし、俯いた。少し沈黙が続いた。


「確かに逃げてたかも、私も社会とか、そういうのに対する憤りを体現するものとして煙草を吸いだしたのかも」


思わず南部を見た。


「…えっと、煙草を吸うとかに限らず、なにかをやるとか、ハマるとか、無限の要素があると思うの。カッコつけたいとかイキりたいとか、それこそ煙を吐く時間だったり、匂いを楽しむ時間だったり」


南部は煙草を吸った。


「でもそういう要素って、全部説明できるのかな?なにか自分には認識できない要素が作用して、煙草を吸い始める人だっているんじゃない?」


考え深い女だと、尊敬の目で見つめた。


「そう思うと、なんとなくって適切な表現だとも思わない?見える部分も、見えない部分も、全部ひっくるめて『なんとなく』」


南部はちらりとこちらを見て、目を合わせた。隆之介は呆然としていたことに気づき、ごまかすように煙草をとって、火をつけた。


確かにそう問われると、なんとなくという言葉にも正当性があるように思えた。よくそんな考えに至れるものだ。感心せざる負えない。


「確かに、そうだな、すごいなお前」


「…全部は天秤だよ、体を壊すことが分かっていても吸う理由が、できた。なにか最近変わった出来事でもあった?」


煙草から火種がぼろりと地面に落ちた。なにか変わった出来事があったか、あったさ、俺の人生そのものを変え、彩るような出来事が。


南部はブランコを漕ぎ出した。軋む音がリズムを刻むように響いた。


「…いや、特に何もないよ」


勘の鋭い女だ。俺が女を殺し、その女が吸う煙草を引き継ぐように吸い出した。南部が言う通り、煙草を吸うことで満たされる穴が自分の中に形成され、それを埋めるために、健康という損を負ってでも煙草を吸う天秤が揺らいだのだ。


「そう、ごめんね、私の方が喋っちゃって」

「…いや、いいんだ」


この女、こちら側か?隆之介はふと思った。


俺と同様、人をいたぶり苦しめることに性的快楽を覚えるサイコキラーなのか?飛躍した考えのようにも思えるし、つじつまが合った考えにも思える。阿吽の呼吸というべきか、一寸のズレもなく、南部との趣味趣向が噛み合った。こんなことあるだろうか?もはや神の手招きとしか思えない。南部は俺と同じ境遇を共に背負ったマイノリティなのだ。


「俺たち、これからも仲良くしような」

「え?」


まだ真意ははっきりとしない。これからも南部と関り、探りを入れる必要がある。

俺との同種であれば、共に手を取り合い、行為に興じることができる。活動範囲だって広がるはずだ、周りへの目を配りつつ、長い間行為を楽しむことだってできるだろう。


エロや性行為の話題で盛り上がる琥太郎たちのように、この女とは、人を苦しめ殺戮する良さも、対等に交わしあえる気がする。飛び出さんばかりに見開いた眼光、血の気が引いていく生命の可憐さ、どこが悲惨で、異様か。


そんな会話ができれば、どんなに喜ばしいことだろう。その時に初めて、本心を完全に開いて会話をすることが叶う気がする。


「近々映画でも行こうよ」

「…ああ、全然いいよ、どこ行く?」


隆之介の未来は、淡い期待に包まれ、高鳴っていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る