第8話 余韻
2016年8月10日、高宮由美_
母親が死んでからどれだけの月日が経っただろう。永遠に続くと思われた哀しみの靄も徐々に晴れ、元ある精神の原型を取り戻しつつあった。ここ数カ月で由美の生活は一変した。
警察署で取り調べを受けた後、由美は祖父母の家へと招かれた。母親が死んだ今、もぬけの殻となったアパートで一人暮らしとなると、精神をより病みかねないという理由だろう。ほとんどの夏休み祖父母を家で過ごした。
新聞に母の名前が載った。ローカル新聞である宮崎日日新聞の中開いた、左端の小さなスペースに『日向市内 女性不審死 無差別通り魔殺人か』と目出された記事。
『8日午前11時頃、宮崎県日向市内の川沿いにて、高宮絵梨奈(38)さんの死体が発見された。腹部には刃物に刺された跡があり、死因は腹部からの大量出血とみられる。犯人は今だ不明であり、宮崎南警察署は総力を挙げて行方を追っている』と記されていた。時間がたった今でも犯人の手掛かりはつかめず、事件は迷宮へと片足を突っ込んでいると聞いた。ページの下部には、地元の文化ホールで行われるミュージカルの広告と、精力剤の広告がでかでかと掲載されていた。
テレビでも新聞と同じような内容で実名報道されていたようだ。実名での報道について許可取りの連絡が親族になされたようだが、誰も拒絶はしなかった。母の死がしっとりと身内で萬栄するよりも、開き直って正確な情報を大々的に報道すれば、変な憶測も立たずに堂々とできるという配慮だろう。おかげでデリカシーのない友人からも連絡がきた。敏感な時期にずけずけとセンシティブな域に入ってくる神経に虫唾が走った。
そして苗字が変わった、というより戻った。生まれてすぐ両親が離婚した由美は、父方の苗字として生まれ、物心がつく頃には母方の苗字で生活。母親が死に親権が父親に移った今、苗字は『南部』となった。南部由美、これが私の新しい名前だ。どうやら役所からは苗字の変更に義務はないらしく、由美自身に苗字を選ぶ権利があった。だがこれといって苗字に固執する理由もない、苗字が変わらなかったからといって母は戻ってこないのだ。
そして最後に、学校を転校することになった。以前までは日向市内の共学高校に通っていたが、母が死に、アパートを引き払うにつれ、父の住む家に引っ越すことになった。そのまま由美は母と暮らしたアパートに住み込む選択肢もあったが、家賃がかかる。なにより父が由美と暮らしたいのだという。どのような経緯で母と別れ、母に親権を譲ったのかは知らないが、どうやら父自身納得しきれていない節があったのだろう。
父の家は宮崎市の都市部に位置しており、由美が暮らしていた構造に似た、同じくアパートだった。祖父母の家を離れ、仮住まいとして父の家で父と共同で生活してみたが、不自由はしなかった。元々ずっと二人暮らしで生活していた由美にとって、暮らす相手が変わったところで、特に困ることもなかった。もちろん、オフラインでの接触が数少なかった父と突如暮らすとなって、多少の抵抗は芽生えた。だが、父の気さくな性格が及び、生活に順応するまでに時間はかからなかった。由美は父と二人暮らすことを決めた。
由美は偏差値の似通った高校に、夏休みが始まると同時に転入することになった。可もなく不可もない学力の由美は、学校でも生活態度は良好。転入試験を受け、同等の偏差値を誇る高校に進学ができた。
友人と離れるのは名残惜しいが、ごねて父に迷惑をかけるわけにもいかない。そもそも馴染みの深い友人もいなかった。人間関係をリセットできるいい機会だとも思えた。
母を殺した犯人が見つかっていない現状。もちろん気持ちに整理がついていない頃は、うなだれた。夜な夜な枕を濡らし、名も知らぬ悪魔めがけて叫んだ。地獄の鍋窯で煮え散らかされたような苦しみを、逃がそうと必死に。
だが、同く鍋窯に煮える父や叔父叔母と悲哀を共有することで、より精神が和らげた。悲しみの衝動を互いにぶつけ、相殺し合う。これが叶わなければ私は崩壊していたかもしれない、自殺していたかもしれない。精神の形が元に戻り始めた現状だが、今でも深い悲しみの後遺症をわずらったままには変わりはない。いつか「それ笑えないよ~」とあしらわれるような笑い話にできるだろうか。今こういう他愛もない空想にふけれるのも、父や祖父母のおかげだ。由美は母の分まで生きてやろうと、心の底から誓った。
2016年8月10日、柴垣龍之介_
あの女を殺してからどれだけの月日が経っただろう。ここ数週間の間、あの夜に溢れた嗜虐と背徳の念が、脳裏に焼き付き離れずにいた。
人を殺す、そんな誰が線引いたかも分からない制約を振り解き、自身の選択で、固定観念に屈せず、欲望を満たした。勇気なんて単語じゃ計り知れない覚悟で、殻を破った。こんな偉業誰に叶うだろう、俺にしか叶わない。隆之介はそんな勇敢で屈強な自意識に酔いしれた。
あの日、タバコとライターを女から奪った隆之介は、歩く中、青がトレードマークの『パーラメント』と書かれた箱から一本を取り出し、見よう見まねで火をつけ、吸った。鼻の奥を刺激する渋く煙たい味わいが口元いっぱいに広がった。隆之介はとっさにむせ返した。
このタバコを吸えば、彼女から香るにおいを思い出し、あの時の情景をフラッシュバック。そんな期待を込めて吸ってみたものの、何も思い巡りはしなかった。マスクをしていたからだろう、彼女の体臭すら覚えていない。少し鉄臭いような気もしたが、パーラメントの香りは微塵も感じ取れなかった。
そして、これを吸っている間は、彼女の人生を追体験しているように思えた。彼女はどういう経緯でこれを吸い始めたのか、芝生に腰掛け煙を吹かした時何を思っていたのか。あの強く逞しい彼女を想う上で、タバコを吸えば、空想が捗るような気がした。
隆之介は、日が差し込む前の午前4時に自宅に帰宅した。途中の駅で始発を待つこともできたが、Tシャツに付着した謎の赤いシミは、見る者を困惑させる。アドレナリンで疲労を感知するセンサーがボケていた隆之介にとって、残り数時間を歩くことは造作もないことだった。
帰宅次第、隆之介はひっそりと自室に入り、バックと汚れた服をベットの下に隠し、電源コードを切られてゲーム機のように、プツリと倒れ眠った。負債として溜まった疲れが一気に押し寄せたようだ。
自然と目が覚めた頃には、外は暗くなっていた。時計を見ると午後6時過ぎ、12時間以上眠ってしまったらしい。
リビングへ顔を出すと、台所で炒め物を作る母が「いつ帰ってきたの?泊ってくるって聞いてたからご飯なんわよ」といった。
「…ああ、昨日夜まで遊んで、結局泊まらずに帰ってきた」
母は「そう」とそっけなく返し調理を続けた。息子の不規則な行動でどことなく不機嫌だ。そんな姿も今の隆之介にとっては甘美に思えた。
後日、家に誰もいないことを確認したのち、隆之介はベットの下に隠した物々を取り出し、洗った。風呂場にバッグを持ち込み、中身を取り出す。包丁やゴム手袋は、彼女の生きた血が固まり、カカオ純度の濃いチョコレートが付着したように見えた。服もそれらと一緒に洗い流そうとシャワーを浴びせたが、服はなかなか色落ちそうにない。しょうがないからいつかのゴミ収集に個別で出そう。洗ったものは自室に持ち込み、押し入れに放り込んだ。
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事件は様々なネットワークを通じて拡散された。隆之介自身が事件の概要を知ったのは、近場のコンビニで置かれたローカル新聞を見てからだ。
いつかの昼下がり。母と二人で食事をとり、何気ない団らんにふける中「~で殺人事件があったらしいよ。そこ遊びに行くならその川辺は通らないようにね」と母が言った。
興味のない会話など脊髄の反射で交わすものだ。考えもへったくれもありはしない。だが、『殺人事件』という単語を鼓膜が認識した瞬間、どこからか危険信号が送られてきたように、ピンと聞き耳を立て話を食い入った。
背筋が凍った。どんな脈絡かは知らないが、俺はそのあたりに遊びに行こうとしていたらしい。思い出せない。ただわかるのは、俺のした行いは既に殺人事件として処理されており、無関係であるはずの母親にも情報が回っているということだ。
さまざまな考えが駆け巡った。どうして母親はそのことを知っているのか、情報源はどこか、どこまで捜査が進捗しているのか、犯人に目星はあるのか、こんなことを聞けば怪しまれるだろうか。
その場で隆之介は「…そう」とそっけない返事をした。
「…で、何時に行くわけ?」
母親が質問した。軽いパニックに陥った隆之介になにを話していたかなど思い出せるはずもなかった。その後なにを答えたかは覚えていない。
とにかく自分が犯人だと匂わせるような足跡は一切残さずに、事件の詳細に触れたい。隆之介は次の日の朝一、セミが鳴き始める前にコンビニに出向いた。新聞が取り置きされているコーナーに向かい、地元の新聞である『宮崎日日新聞』を取り出した。ほとんど聞き馴染みない新聞だろう、実際隆之介自身もまともに読んだことはなかった。ただ地元のくだらないエピソードが書き綴られるローカル新聞なら、事件の真相が垣間見えるかもしれない。表紙はトランプ当選と飾ってある。そんな政治コーナーにさえ目を配り、一つ一つ丁寧に散見していく。
中開いた左端の小さなスペースに『日向市内 女性不審死 無差別通り魔殺人か』と目出された記事を見つけた。
これだ。見たところ写真はない、少し彼女の顔写真が載ることを期待していたが、期待外れのようだ。
『8日午前11時頃、宮崎県日向市内の川沿いにて、高宮絵梨奈(38)さんの死体が発見された。腹部には刃物に刺された跡があり、死因は腹部からの大量出血とみられる。犯人は今だ不明であり、宮崎南警察署は総力を挙げて行方を追っている』と記されている。
隆之介は、震え上がった。高宮絵梨奈、彼女の名前は絵梨奈というのか。俺の初恋の相手。とにかく体が芯から震撼した。この震えが、警察に今も行方が追われている恐怖感なのか、新聞に自身の偉業を取り上げられたことによる高揚感なのか、真相は分からない。
いくつか新聞を買い、自室の壁にでもページを切り取って貼っておきたかった。悔しいがそんな真似はできない、買って自宅に保管しておくことでさえ難しいのだ。隆之介は渋々新聞紙を元の棚に戻し、コンビニを後にした。
あらためて隆之介は安堵した。事件が発覚したであろう日からしばらくたった今でも、犯人の足取りはつかめていないらしい。分かってはいたが、常にまとわりつく緊張感から振り解かれた気がした。
そして、この事実は隆之介自身を学習させた。環境や人を選べば、行為に興じても見つかりはしない。これでサスティナブルに欲を満たせる。今度は少し遠出をしよう、警察の目を散らすためだ。沖縄なんかどうだろう、野心的で食いごたえのある人間がいるかもしれない。偏見だが、警察の力もそれほど及んでいないに違いない。
自宅で計画を緻密に練ろう。隆之介は軽い足取りで帰った。
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