第7話 別れ


2016年7月18日、高宮由美_



母親が死んだ。何の前触れもなく、死んだ。


学校が夏休みに入ったこともあり、生活リズムが逆転し、日を跨いでも眠気が襲ってくることはなかった。


いつもならば、自室の壁を越えて「ただいま」と母親が帰宅する声が聞こえてくるはずが、その日に限っては太陽が昇り切り、セミのあわただしい鳴き声が聞こえてからも、自動車の駆動音が路上に鳴り響き始めても、一寸の気配すら感じることはできなかった。


由美は慌ただしく鳴り続けるインターホンの音で目覚めた。昼夜逆転の生活に一石を投じるように、何度も何度も。


「高宮さーん、いらっしゃいますか?」


粗相はそれだけにとどまらず、ドアを殴るように叩かれ、アパートの一室であるにもかかわらず、他の住人になんの配慮もなく、騒音がましく呼ばれもした。寝起きで回らない脳も、無理くり起こされざるおえない。


重たい足を動かし玄関を開けると、律儀なスーツを着た男が二人たたずんでいた。三十前後と思われる一人はベージュのスーツの上にボア付きのコート、もう一人は青井ダウンジャケットを着た、どうかすると大学生にしか見えない男だった。首だけを振って挨拶をしてくる。


「…あ、高宮さんの、娘さんですか?私、宮崎南警察署の捜査一課のものですが」


扉を破壊するがごとく叩いたであろう手前の人物が警察手帳を広げながら言った。ぼやけた頭が、捜査官を目の前にして覚め切る。そして、矢継ぎ早に、昨日ふと不審に思ったことを思い返し、足元を見る。


母親である絵梨奈の革靴がないのだ。いつも仕事で履きまわす、あの靴が。突きつけられた現状に、由美は悪寒を走らせた。


「突然で申し訳ないのですが、署までご同行願えませんか?詳しい話は車の中で致します」


後ろの警察官がトランシーバーのような通信機器で、ぶつぶつと何かを話し出した。同時に、由美のポケットにしまわれた携帯が震えだした。誰かからの着信のようだ。

「母親に何があったんですか?生きていますか?」


母親の身に何かがあったのだろう、そう考えているうちに、ここで聞くのは野暮であろう質問が口走られていた。。とにかく、なによりも先に母親の安否が知りたかった。警察官は口をつむらせた。


「…すみません、詳しい話は車内で…。申し訳ありませんが」


刑事は口ごもりながら、百合の要件をあっさりと突っぱね返した。捜査官の表情から察するに、並大抵では済まないことが母親の身に降り注いだことが容易に想像できた。とにかく、捜査官の言う通りに従えば、すべてがわかる。「あ…はい」と言い残し、軽い身支度をするべく、中に戻った。


外出用の服を取り出す最中、ケータイに着信があることを思い出し、携帯を開くと、『南部龍之介からの不在着信』と書かれていた。父だ、父からの着信、母親の不幸は父親にまで伝わっているらしい。折り返すのは後だ、今はなるはやで捜査官のもとへ。


着替え玄関を出ると、捜査官は一人になっていた。先にもう一人は車へと戻ったのだろう。由美は手招きをされ、黒い乗用車の後部座席に乗り込んだ。


「えっと、高宮由美さん、だよね?」


左座席に座る年かさの方が、敬称を抜きにして言った。


「…はい、そうです」

「指崎と言います、刑事です」


由美はただ恐れた。どんな惨いことを言われるのか、車内に流れたお通夜を思わせる空気。まるで死刑を宣告される前の罪人のようだ。聞かなければ、知らなければいけない。とても長い沈黙が訪れた後、森川刑事の口から、想像を絶することを告げられる。


「非常に言いにくいのだけど、今朝、君のお母さんである絵梨奈さんの遺体が発見された」


遺体、その言葉の意味することは、母親はすでに死んでいるということ。とてもきっぱりと、あっさりした口調で告げられた。分からない、意味が分からない。簡単な日本語が理解できない矛盾。


「遺体?嘘ですよね」


噓の可能性が少しでもある、そう思ったのか、由美は微かな希望を信じて尋ねた。文字通り、頭が真っ白になった。


「…本当に、言葉がでない。残念でならない。とにかく署に向かう、お父さんも来ておられると思うから、そこで詳しく事情を説明する」


意識的に停められていた車が走り出した。走行中のことは記憶にない、なにか質問されたかもしれないが、呆然とした由美の耳には届かなかった。いつの間にか警察署らしきところに連れてこられ、中へと入った。


『霊安室』と書かれた部屋の前に連れてこられた。どんな部屋で、なにがあるのかは、名称を見るに察っさざる負えなかった。


「…由美」


後方から声がかかった。目を腫らした、日焼けした四十前後の体の引き締まった男性。南部龍之介、父だ。髪もぼさつき、剃り残した髭がまばらに生えている。汚れた作業服を着ていることから、仕事を抜けてきたのだろう。泣いたであろうやつれ切れ顔が、酷い容姿をより一層引き立てている。


「…父さん、母さんが…」


認めたくなかった、由美はかろうじて言葉を絞り出した。


「…中に母さんがいる、見たいか?」


不器用な人だ。「見たいか?」とは、遠まわしにショッキングなものを見せまいと、由美へ配慮したのだろう。見たくない、でも、この目で確かめなければ、何もかもが信じられない気がする。由美は首を縦振り、二人で中に入った。


目の前には白い布をかぶされた遺体があった。父が歩み寄ると、顔にかけられた布をはいだ。それは白く青ざめた母親の死体だった。いつも仕事疲れで疲弊していたが、その面影を残し死んでいた。


由美は遺体にとりすがって泣いた。母が死んだ。その重く受け止めがたい事実に直面し、唸るように泣いた。どんな経緯があったかなんてどうでもいい、もうこの世界に母親はいないのだ。温度のない肉塊と化した彼女を布越しに感じながら、号泣した。

父が由美の背中をさすった。激情するように、父に縋り付き、胸の中でも泣いた。父もつられるように嗚咽を隠しきれずに吐露した。


しばらくたった後、部屋の中が落ち着いた様子を察し、刑事が入ってきた。


「取り込み中すみません。今回の事件について、軽い事情聴取をしたいのですが」


間歇的な痙攣を起こすだけに落ち着いた由美は、森川刑事の言葉に違和感を持った。


「…事件?事故じゃなくて?」


父と刑事は顔を見合わせた。多感な時期真っただ中である由美に、これ以上残酷な現実を突きつけていいものか。そんな意図が感じられた。父の様子を見るに、事件の内容はあらかた理解しているらしい。確かによくよく考えると、ただの事故なのに変によどみない感じに違和感があった。


「…母さんは殺されたんだ、それに犯人はまだわかってないらしい」


父親がくぎを刺す。図らずも母親は不慮の事故に巻き込まれたのだと、勝手に思っていたが、故意的に殺された?なぜだ、誰かに恨みを買っていたとでもいうのか。由美は戸惑いを隠せずにいた。


_


森川刑事は二人を取り調べるため、部屋に案内した。父への軽い取り調べはもう済んでいたようだが、少しでも事件にありつく情報を得るべく、由美に取り調べを依頼した。だが父は、そんな依頼を一度断ろうとした。多感な時期だ、殺された母親の事情を知り、精神的な負荷がかかりすぎてしまうことを恐れたのだろう。どこまでもお人好しで気遣いのすぎる性格だ。そんなことで私が引き下がるわけがないだろう、母親が死に至ったまでの理由が知りたかったし、自分の証言で犯人が見つかる可能性が少しでも高くなのであれば、全面的に捜査に協力したかった。


父の配慮をはねのけ、軽い面談室のような場所に入り、各々席に着くと、あとから由美を乗せた車を運転した若い刑事が入り、四者面談のような語りで聴取が始まった。

「…この度は大変なことで、ご愁傷さまです」


森川刑事が悼みの言葉を送った。父親がいるからだろう、車で見せたフランクな喋り口調は自重気味のようだ。今もこれが本当に起こったことなのか実感がない。先ほどの酷な光景を思い浮かべると、またも涙があふれだしてきてしまいそうだった。


「まず初めに、由美さんが最後にお母さんを見たのはいつですか?」


由美は戸惑った。そんな質問をされるなど思ってもみなかった、わたしの知りたいことはそんなことじゃない。


「…すみません、母親はなぜ殺されたのですか?」

「おい、刑事さんの質問に答えなさい」


父が由美を咎めた。もちろん捜査が捗るように惜しみない協力をしたい。だが、あまりにも実態が見えてこなさすぎる。


「…そうですね。おっしゃる通りです、失礼しました。ですがこちらとしても分かっていることは多くはありません。」


由美は息をのんだ。


「今回の事件は殺人です、それも、まったくの他人である、無差別的な犯行でないかと我々は考えています」


無差別な殺人。その言葉の意味自体、由美には理解がいまいちできなかったし、呑み込めずにいた。


「絵梨奈さんは今日の朝方、乙川の川沿いにて、死体となって発見されました。死因は、腹部に刃物が刺されたであろう痕跡があり、そこからの大量出血」


由美は胃液が逆流してくる感覚が嫌でもわかったが、そのそぶりを少しでも見せようものなら、取り調べが中止され、真相が伝えられるのが先送りになる気がして、抑えた。


「現在も仕事仲間、友人関係者、それにご家族の皆様に事情を聴いている最中ですが、これといって容疑をかけられる人も見つかりません。絵梨奈さんの知り合いが関わっている線で捜査していますが、単なる通り魔的な殺人であれば、こちら側も犯人特定に困難を極めるでしょう」


森川刑事の話がひと段落したのか、持参したペットボトルの水を一口飲んだ。由美にはまだ分からないことがあった。


「…その、なぜ他人に母が殺されなくてはならなかったのですか?」


まったくの見知らぬ他人が、人を殺める。その心理がどうしても由美には理解ができなかった。せめて恨みや私怨があれば、理屈づくだろうに、何のかかわりもない赤の他人の仕業となれば、理解に苦しむ。


「…もちろん、他人による犯行が決まったというわけではありません。ただ、世の中には、一時の感情や心理に流されて、見知らぬ人間に手をかけてしまう人間も存在するんです。私たちには考えられもしない理由で」


そんな理不尽な理由で母は死んだのか?


「…すみません、説明していただき、ありがとうございました」

「いえ、こちらこそすみません。ではいくつか軽く質問します」


由美は途方もない哀しみに襲われながら、自我を抑え、聴取を聞き入った。


_


その後、由美にいくつかの質問がなされた。最後に母親と会ったのはいつか。最後に会ってから電話やSMSでコミュニケーションをとったか。最近母親を不審に思ったか。どれも事件に結びつくような情報はなく、ほどなくして由美の取り調べは終了した。父は警察署に残った。母親がいなくなったことによる空白の埋め合わせの手続きがあるのだろう。父は賢い人じゃない、警察官が手取り足取り先導してくれることを願う。


面談室を出ると、目先の待合椅子で顔をうずくめ座る白髪の老婆が見えた。隣にはその曲がった背中をさする放心する老爺。由美の母方の叔父と叔母だ。


「…おばぁちゃん、おじぃちゃん」


この様子からも霊安室の痛ましい光景を目の当たりした直後だろう。この部屋の前の椅子に座っていたのも、孫が出てくるのを待ってくれていたのだ。由美に気が付いた二人はそっと立ち上がり、由美を抱き、泣いた。

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