第6話 本能


2016年6月17日、柴垣龍之介_ 



 軽快な足取りで距離を縮める。サングラスの暗がりでもやがかかった彼女が、徐々に光を帯び輪郭を得てきた。明らかに顔をこちら側に向け、得体を探っている。確かに真夜中にマスクとサングラスをしてマラソンに興じる変態など、拝もうにも拝めないだろう。動く様子はない、ここで逃げれば、なんの変哲もないランナーから逃げおおせた自意識過剰な変わり者に見られるのが怖いのだろう。突然の出来事だ、無理もない、考える隙も与えずにすぐに芽を摘んでやる。その距離20m。


 目をそらしたか?顔は正面を向かれ、途方もない先を見つめているように見える。だが、尻目ではしっかりと俺を見ているはずだ。この時点で完全に性別が女であることが割れた。尻が大きい、黒い髪をつむじで乱雑に結んだお団子ヘアーの、黒いスーツらしき衣服に身を包んだ若すぎず老けすぎずといった女だ。仕事終わりに涼んでいたのか?こんな蒸し暑い真夏に?俺以上に狂った女だ。その距離10m。


 あたかもあなたの隣を通りすがりますよーと言わんばかりに道をそれ、あえて彼女から少し離れた。小手先の演技だ、普通人ならここは自身が無害であることを知らしめるために、少し幅を開ける。こういうしょうもない小細工ばかり行ってしまう。ただ、どこか彼女を自分の掌の上で踊らせているような感覚があり、訝しんだ。その距離5m。


 彼女の口元が暖色に光った。タバコだ、この女はタバコを吸っているのだ。口元から煙が噴き出されている。できれば無味無臭の健康体が好ましかった。血液や体臭をなんの気兼ねなく堪能したかったが、高望みなどしていられない。その距離1m。


 隆之介は本来行くべき方向からぐるりと角度を曲げ、彼女の背後をとった。勢いを殺さず、逆手に取っていた包丁を、サバイバルナイフにしまい込まれた刃を勢いよく抜くように振り抜き、順手に持ち替え両手で持ち手を握った。


 体当たりをするように、女の脇腹めがけて包丁を刺した。手ごたえが思いのほか感じられない、何枚かの衣服により勢いを殺されたのかもしれない。ただ、隆之介の腕は、彼女のはらわたをえぐりとる鈍い感覚が、少なからず伝わってきた。勢いのままに乗せられた衝撃はとどまらず、彼女は斜面となった芝生に押し出され、「ぐぅ」と、ガマガエルが踏みつぶされたような音を出し、転げた。同時に隆之介も芝生に倒れた。


 「…あ‘‘っぉはぁ!」


 可愛らしい声色だ、思いのほか声が高い。ただ起きたことに対して脊髄で回答したようだ。彼女自身、自分の身に何が起こったか、理解に及んでないことがよくわかる。


 倒れる際に、サングラスが寄れた。こんなもんいるか、目など見られたところでなんだ、隆之介はサングラスをおもむろに外し放り投げた。世界が彩り豊かに映った。常夜灯のかすかな光に照らされた草木、小さな小川も、心なしかグラデーションを帯びている。


 彼女と一瞬、目があった。切れ長の目をした30代後半の女性といったところか。能面で分かりやすい顔つきをした彼女を見るに、化粧を施していないようだ。瞬時に入った少しの情報からも、彼女が相当の苦労人であり仕事人であることは、即座に理解できた。彼女のスーツのインナーである白いワイシャツからは、黒々とした体の内側から溢れ出したであろう血が、じんわりと染みついているのが見て取れた。


 虚ろなフィルターがなくなったおかげだろう、鮮明に色を持った世界でただ一人、横たわった体を起き上がらせ、納得を得られる回答を教えてほしいと言わんばかりの哀愁漂う表情を向ける彼女は、渾身の一作として美術館に展示された、一個の絵画を思わせた。


 隆之介は、激震した。その瞬間、時の流れが止まったかと錯覚させる、濃密で凝縮された甘美な感覚が、全身を駆け巡った。これは神からの褒美だ、常人には与えられない、選ばれしものだけに与えられる報酬なのだと思えた。


 明らかに事故ではない、これは故意によるものだ。彼女はそう確信したように、雄叫び、体をばたつかせた。目の前にたたずむ、マスクに白いゴム手袋をつけた、右手に包丁を持った男。腹部の痛みからも、自身に降り注いだ厄災に気が付くのも時間の問題だったようだ。逃げようにも、全身にほとばしる激痛から、うまく体を操縦できずにいるのだろう。


 「…だっ、誰か…助けて!」


 決死の思いで背を向け、遠吠えた、何度も何度も。アドレナリンが大量に分泌されているのだろう。痛みで動くことさえままならないはずの体を起こし、刺し場所を両手で抑え、走り出した。まるで猛獣に腸を食いちぎられた小鹿のようだ、どうにか生きまいと、決死にもがく、儚い弱肉な生き物。


 ああ、素晴らしい。蓄積された疲れなど、いつの間にか吹き飛んでいた。隆之介はトップスピードで走り、彼女を背後から押し倒した。斜面になった乾いた芝生の上に、二人はまたも倒れた。首根っこを掴み、うつ伏せになった体を強引に起き上がらせ、暴れられぬよう強引にまたがり、顔を拝んだ。


 口元には吐血された血と、分泌された唾液が入り交じった混合物で汚れ切っていた。眼球も、真っ赤に染まった毛細血管が否応にほとばしっている。鼻水に涙、汚らしい液体が、こわばった表情筋の筋に入り込み、ジャングルの赤く濁った大河から枝分かれする河川を思わせた。彼女は隆之介の首を掴み、爪を立てた。だが、力が籠っていない、一種の貧血状態なのだろう。


 「…っ!離せぇ!あ‘‘ぁ!」


 …強い女だ、隆之介は感心した。力も入らず抵抗すらままならない状態で、救いを乞わず、誰が命乞いをせずにいられるのだろう。弱いながらも勇猛果敢に立ち向かい、必死にもがく彼女は、ただの小鹿などではない。気高い、血沸き生気溢れる獰猛な肉食獣そのものではあるまいか。


 大当たりだ、何もかもが想像以上だ、こんな素晴らしいものが世の中にあるのか。激しく動きふためく彼女に覆いかぶさることで気づいたが、股間がはち切れそうなまでにはれ上がっている。収まりきらず今にも飛び出そうな性器だが、そんなのはどうでもいい。


 隆之介は彼女の喉元を殴った。大きく振りかぶり、喉ぼとけを粉砕するがごとく。

首に通う軟骨が折れる感触が伝わってくる。いくら深夜といえど、これ以上騒がれたら誰かに見られるかもしれない。ビクン、と体を痙攣させた彼女は、モーターが駆動し熱気を逃がそうと動き出す機械のごとく、「コヒュー」と人体らしからぬ呼吸法で酸素を入れ込もうと、息を始めた。それでも、飛び出さんばかりに見開かれた目は、隆之介を睨みつけている。


 隆之介は射精した、彼女とともに痙攣した。睾丸の裏筋に、べっとりとした何かが滴り落ちる感覚が分かった。だがそんなのもどうでもいい。


 隆之介は彼女の黒いスーツを強引に引きはがし、横腹から貫通したであろう傷口に、そっと手を伸ばした。繊維がほどけ、黒く染まった白いシャツを、引き裂いた。そして、包丁が差し込まれえぐりこんだ傷口に、人差し指と中指を、ゆっくりと忍ばせた。


 彼女はまたも体を跳ねあがらせ、悶絶の表情を浮かべた。喉が潰れて声が出せないのだろう。全身に力が入らず、発生すらままならない木偶の坊と化した自分を、それでも鼓舞しようと死力を尽くす決死の表情。なぜこんなことになったのかに理解に及ばない焦燥の表情。カオスな現状を物語る表情を残し、彼女は息を引き取った。


 人生で最も有意義な時間だったと思えた。可憐にも死にゆく生命を、間近で堪能した。そして、一人生を、恐怖や絶望で満ち満ちた最期に貶めることができた。言葉にしがたい最高のひと時を過ごすことができた。隆之介はまだ、愉悦に浸っていたかった。だが、のうのうとしている暇はない。とにかくここから逃げなければ。


 恰好は、通気性のいい白いワイシャツと、黒染めのジーンズ。一瞥したところ、多少の汚れはあれど、幸いにも返り血は見受けられなかった。隆之介はまたがった彼女から降り、彩度全身を確認した。色の死見込みが目立たないパンツを選んだのは神による采配だろう。


 まずは血肉で汚れたゴム手袋を、ショルダーバックにしまい込んだビニール袋を取り出し、しまった。そして投げ捨て放置してあるサングラス、包丁。袋が破れないように付属のカバーに刃をしまい込み、同じく袋に入れ、空結んだ。


 抜かりはない、あとは人目を避け、この場から跡形もなく逃げおおせるだけだ。


 隆之介は最後に、死体となった彼女を見た。あまりにも儚い最期だ、あられもない姿で死にいったもっと自身の創造性に任せて彼女を可愛がってやりたかった。彼女の良さが引き立つように、生身の手で、引き裂き、噛みちぎり、全身で英気を養いたかった。それが叶わないのが、世の中の条理というものだ。彼女の方に歩み寄り、顔を覗かせた。


 「今日は本当にありがとう」


 これこそが愛なのだ、名も知らぬ彼女が、隆之介に愛というものを教えてくれた。口づけ一つでも交わしたかったが、もうお別れだ。隆之介は、彼女のポケットを漁り、しまわれていた煙草を盗み、一期一会の素晴らしい感謝を伝え、線路沿いの道に出て、歩き出した。

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