第5話 転機
2016年7月17日、柴垣龍之介_
自前のウォークマンの充電も切れ、キリギリスの美しい鳴き声が嫌でも入ってくる。
家の前で執り行われる土木工事のように耳ざわりが悪い。
何時間歩いただろう。ケータイの時刻は0時を回り、日を跨いでいる。高校生ともある人物が深夜をふらつく姿を警備員にでも見られれば、補導は待ったなしだ。しかもバックの中には、お察しの通り、見られれば一瞬にしてすべてが詰んでしまう負け札も持ち回している。なぜただの下見であるにもかかわらず、念のためにこんな足手まといを持ってきてしまったのだろう。隆之介は今にでもそれらを捨て去ってしまいたかったが、少しでも証拠になりうる足跡はつけてはいけない。
そもそも補導なんて大人たちによるただの脅しだろう。見つかったとしてもバックを見られるわけもない。今はただ歩くことだけに集中しよう。
線路は川沿いに合流した。比較的大きな河川が流れ、昼間は老後の爺さんが釣りを堪能していそうな雰囲気が漂っている。こんなボウフラが立ち昇る泥臭い場所で来るかも分からない魚を待ち惚けるのは、変態の所業にしか思えなかった。そんな空虚な妄言にしか考えが廻らないほど、隆之介は疲弊しきっていた。
とぼとぼと歩く中、離れ離れに置かれたお気持ち程度の電灯の光が差し込むある地点に、人影が見えた。その距離30m。車の脱輪を防ぐコンクリートの突起に腰を掛ける、黒スーツで少し小柄な人間の姿が。
初めは「人だ」とただ考えも無しに思った。仕事終わりの女だろうか、なぜこんな時間にこんな場所で。普段、なんの変哲もないものを見かけ思いにふけるように、脊髄反射のごとく。
少し歩いたところで、疲弊し考えることを辞めていた脳が、初めて自身の目的に気が付いた。柴垣隆之介、お前は何をしに今日あの地へ出向いたのか、何を目標に、今を生きていたのか。
人を殺したい、欲望が思うがままに殺してみたい。
自身のするべきことが明確に思い起こされた瞬間、隆之介の鼓動はたたき起こされたごとく、水たまりに放り込まれた金魚が暴れ、波打つように、早くした。のろのろと歩く自分の足を止め、小刻みに震えだした手で足元を照らしていた懐中電灯の電源をそっと切った。
いろいろと考えが廻った。自分が懐中電灯を止めた理由、足を止めた理由、心臓の鼓動を速めている理由。
ただ隆之介は、そんなものを考えることに意味がないことを分かっていた。あるのは、今この瞬間、これ以上行為に及ぶのに最適なロケーションはないということだ。
準備もなしに出された獲物に対して、ただ怖くなった。今日、下見という形で、予行的に行為を模してみようと思ったのも、一種の逃げだったのかもしれない。
友人が「女と喋るほど怖いものはないよ」といった。あの時は全くもって気持ちなど理解できるはずもないと思っていたが、今なら女を抱こうにも抱けない友人の気持ちが痛いほどよくわかる。抱こうとすれば、容姿が悪いだの、コミュニケーション能力が低いだの、性行為そのものが下手だの、批判が飛んでくることが目に見えている。そうなれば自分の雄としての能力が低いことを分からされ、傷つく。
隆之介の置かれている状況も、同じものだった。人を殺すことへのためらい、それが失敗した時の見返り、相手が何を思い、その家族が何を思うか。
別に今までの自分と別れ、新しい自分に生まれ変わることを怖がってるわけではない。暗がりで先の見えない泥沼の未来へ、足を踏み入れることが怖いだけだ。ただその泥沼を抜けた先に、光るものがあることも確かだ。
隆之介は、今までの人生を振り返った。これまで周りと感性があわないことで、どれだけ苦しめられてきたか。心を通わせて会話で来た人間などいなかった。周りの友人は腹を割って自分の思いのたけを気持ちよく話すのに対し、隆之介はどこか顔色をうかがいながら、自分の本心を閉ざし社交的に振る舞っていた。俺だって、人を苦しいたぶる快感を、誰かと共感しあいたかった。
弱々と電灯に照らされた女は、依然として動かず座り込んだままだ。おそらく隆之介の存在に気が付いていないだけか、気づいていたとしてもただの通行人だと割り切っているか。
ふつふつと怒りが湧いて出てきた。今まで世界にされてきた仕打ち、この十字架をこれからも背負って生きていかなければならないという重圧。
今こそ、世界への復讐の時であり、殻を破る、最初で最後の好機だ。
隆之介は静かに腰を下ろし、肩にかけたショルダーバックから、マスク、サングラス、ゴム手袋、そして、包丁を取り出し地面に置いた。事態は慎重を期す。少しでも不審に思われれば、彼女が移動してしまうかもしれない。場所がバレていたとしても、ただ靴ひもを結ぶ一般人を装わなければならない。まずはサングラスとマスクをつけた。暗がりに暗がりが重なり、視界はより一層悪くなる。行為中、相手の表情を拝むのに差支えがなければいいが、そう思いながら両手にゴム手袋をつけた。
包丁を握った。
童貞を捨てた友人、琥太郎が『意外とことが始まれば本能でどうにかなるもんだよ』といった。羽をもった鳥が、なんの教えも無しに空を飛べるように、蜘蛛が、糸の出し方を教わりもしないのに器用に巣を張るように。生物は生まれ持った本能をなぞらえて生きている。人間も同様に。
人を殺す、これは隆之介にとって深い意味を持つ行為だ。人間でいう性行為に等しい一大欲求の一つ。
隆之介は、手に取るように、何をすれば本能が満たせるか、よくわかった。自分の中にリズムがあるのだ。鳥は羽をはためかせ、空のかなたを滑空する。それが叶うのは、鳥自身の中にリズムがあるからだ。本能による道しるべ、ただそれをなぞらえるだけで、空を自由に飛び回り、大規模な滑空を可能にし、獲物を捕らえ、生きることが可能になる。本能とは正解だ、本能はその生物が向かうべき先を教示した正しさそのもの。
個がやるべきことをやるように、隆之介にもやるべきことが目の前に示されている、だから従うのだ。どこをどう傷つけ、痛めつけ、嫌がらせれば、欲望を満たすのか、本能が教えてくれている。
俺には女の胸や性器を触り、擦り付ける良さは分からないが、人が四苦八苦する良さは分かる。人が人に触れるように、俺も同じように人に触れるだけだ。
始まればわかるはずだ。どこを触れば相手はあえぐのか、どこを擦れば気持ちがいいのか、探り探ればいいんだろ?上部の緊張はほどけ、あとは体が赴くままに行為に興じるだけだ。
包丁を逆手に持った。そして、相手からは刃物が見えないように腕の肉壁で死角を作り、隠した。そしてなだらかに足を踏み出し、走った。深夜にジョギングをする健康志向な一般男性を装うのだ。その距離25m。
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