鬼と蓑虫、カラスの夕暮れ
だいたい日陰
鬼を待つ蓑虫も、カラスと一緒に山へ帰ることができればいいのに。
図書館へ本を返しに行く途中、道路わきに生えている柿の木の幹に、蓑虫がくっついているのを見つけた。
なんだか懐かしさを感じた私は足を止めて、小枝で作られたその寝袋をじっくりと観察してしまった。
器用なものだ。
ほとんど長さの変わらない枝が、すこしの隙間もなく蓑を形作っている。とても蛾の幼虫の仕事とは思われない。
冷たさを含んだ秋の風に吹かれながら、中腰になってぼんやりとそれを眺めていると、ふと脳裏に二十年前の記憶が蘇ってきた。
母が他に男を作り、家を出て行ったのは私が中学生のころ。今日と同じ、天高くいわし雲が広がっている季節だった。
父は家のことがなにもできない人だったので、当然のように娘である私が家事をやることになった。
降って湧いたような事態に当時の私は困惑した。
まわりの友達は昨日までと同じように、昨夜のテレビの話をし、関心のある男の子の話題に興じ、放課後に遊ぶ約束をしているというのに、私だけがそういった生活の中に一種の義務を負ってしまったのだ。
母を憎んだし、母が出て行くことを許した父を恨んだ。
だが、始めのうちは強かったそういった感情も、時が経ち、家事が日常化していくとともに、どうして母は私たちを捨てたのかという疑問へと変わっていった。
父や私との生活よりも、どこかで知り合った男と一緒になる方が魅力的だったと言われれば、まあ、そうなのだろうが、それは果たして私たちに、あれだけ、みじめな思いをさせるに吊りあうほどのものだったのだろうか。
上手とはいえない私の料理を黙々と食べている父と向き合って、家の空気に染みついた「捨てられた」という思いをひしひしと感じているのは、とても辛く、箸を動かしながら涙をこらえた記憶も一再ではない。
今では父も亡くなり、母への怒りもすっかり過去へと押しやってしまったが、その疑問だけはなくなることはなかった。
秋風が吹いた。
私は体を震わせると、柿の木から離れて図書館へ向けて、また歩き始めた。
***
私が住んでいる市のコミュニティセンターは図書館も兼ねていた。
建物が二棟あって、そのうちの北側が市民へ貸し出すホールやちょっとしたカフェになっており、南側がまるごと図書館になっていた。
「こんにちは。坂月さん」
本の返却コーナーでそう声をかけてきたのは司書をやっている大山さんだ。
三十歳を過ぎたばかりの彼女は長い髪を後ろでまとめ、手作りと思われる水色のエプロンをつけている。
今年で三歳になる男の子のお母さんで、私はよく、子育てや、そのほか、生活や家庭に関する細々としたことの相談に乗っていた。
私がこの図書館の常連なので、いつの間にか仲良くなったのだ。
「どうでした? 枕草子」
問われて、私は苦笑いを浮かべた。
「ギブアップ。やっぱり現代語訳もついてないと読めないわ」
「あはは」
まわりに響かないよう控えめな笑い声を上げる彼女の前に、借りていた二冊の本を出す。
一冊は久しぶりに読んでみたくなった推理小説。
もう一冊が、なんとなく読んでみようと思った枕草子だった。
「春はあけぼの」から始まるあまりにも有名な清少納言の作品だが、最初のうちは「櫻のいみじうおもしろき枝の五尺ばかりなるを」などの古文も、古語辞典を引き引きがんばって読んでいたものの、さすがに三百編以上もあるとその気力も失せてくる。
四十編ぐらいで、ついに断念するに至ったのだった。
大山さんは私が差し出した本を手に取ると、裏表紙についたバーコードを順番に機械に読ませていった。昔に比べて、図書館もずいぶんと進歩したものだ。
「外、寒かったですか?」
「そうね」
壁にかかっている時計を見ると、そろそろ四時になろうかというところだった。
「夕方になると、もうすっかり寒いわね」
「すぐに冬になっちゃいますねぇ」
言いながら、彼女は本を「処理済」と書かれたカゴの中に入れた。棚に戻すまで、あそこが本たちの待機場所なのだろう。
「そういえば、途中で蓑虫を見たわよ」
「へえ。珍しいですね。子供のころはよく見かけたけどな」
「ね。私もじっくり観察しちゃったわ。まわりから見たら変な人よね」
ふたりでくすくすと笑っていると、思い出したように大山さんが切り出した。
「そうそう。蓑虫は鬼の子供なんですよね」
「なにそれ?」
「そこまで読みませんでした?」
そう言って彼女はカゴの中に入れたばかりの枕草子を取り出すと、「どこだったかなぁ」と呟きながら、ペラペラとページをめくっていった。
「ええと……あった。ここです」
私は前かがみになって開かれたページを覗き込んだ。
[四三]
みのむし、いとあはれなり。鬼の生みたりければ、親に似てこれもおそろしき心あらんとて、親のあやしききぬひき着せて、「いま秋風吹かむをりぞ来んとする。まてよ」といひおきて、にげていにけるも知らず、風の音を聞き知りて、八月ばかりになれば、「ちちよ、ちちよ」とはかなげに鳴く、いみじうあはれなり。
このぐらいであれば、辞書がなくとも読める。
大雑把に意訳するとこうだ。
子供をもった鬼はある日、考えた。
「わたしの子供なのだから、この子もきっと恐ろしい心をしているに違いない」
そこで鬼は自分の着ているボロを子供にまとわせ、こう告げる。
「秋風の吹くころに帰ってくるから、待っていなさい」
だが、蓑虫がいくら待っても鬼は帰ってこない。
ついに秋の冷たい風が吹く時期になると、心細くなった蓑虫はとてもあわれな声で「お父さん、お父さん」と鳴くのだった。
私が頭を上げると、大山さんはにこりと笑った。
「面白いですよね。昔から鬼は腰蓑をまとってるって考えられてたんですね。いまでも、たとえばナマハゲなんかもそうですし」
「……うん」
我ながら冴えない返事が出た。
鬼は、自分の子供が自分に似ているから捨てた。
私の母もそうだったのだろうか?
母は、私が母に似ているから去っていった?
それは違う気がする。
鬼は――そうだ。鬼が我が子を捨てたのは、子供の中に自分の姿を見ていたからだろう。
じゃあ、母の目に映っていた私や父の姿とはいったいどんなものだったのか。
自分の生活基盤?
自分を縛り付ける苦痛?
いずれであっても、私たちを通して母自身の人生を見ていたと考えられなくもない。
そしてそれに耐えられなくなった。
蓑虫を捨てた鬼はたぶん心が弱かったのだ。
自分が産んだ子供を通して見える、自分自身の姿から逃げてしまう。
それはそのまま、家族を通して見た自分の人生から逃げ出してしまう弱い人間の姿なのだ。
「坂月さん?」
気がつけば、大山さんが心配そうに私の顔を覗き込んでいた。
「あ。ごめんね」
私は再び枕草子に視線を落とすと、すこし考えてから口を開いた。
「これ、また借りていってもいいかな?」
大山さんは驚いたようだったが、その表情に、すぐに喜びがにじみ出てきた。
「はい。もちろんですよ」
そう言うと、貸し出しの処理をするために端末へと向かった。
そのとき、手提げに入れている私の携帯電話が鳴った。
まわりの利用客から刺さるような視線を向けられる中、慌てて手提げから取り出すと、電話ではなくメールだった。
「娘さんですか?」
そう問いながら、大山さんが枕草子を私の方に差し出してくれる。
「うん。旦那から駅前のレストランに行かないか、って連絡が入ったって。娘経由で来るのは、ちょっといただけないわね」
大山さんが、また控えめな笑い声を上げた。
私は枕草子を手に取り、手提げにしまおうとしたところで、その中の一遍を思い出した。
最初の方のページを開き、小さく声をだして読んでみる。
「秋は夕暮。夕日のさして山のはいとちかうなりたるに、からすのねどころへ行くとて、みつよつ、ふたつみつなどとびいさぐさえあはれなり」
黙って聞いている大山さんに、思ったことを口にする。
「カラスってよく家族のところに帰るように言われるじゃない?」
「そうですね。カーラースー、なぜなくのー? の歌もですね」
「あれって、カラスの鳴き声が、おっかあ、おっかあ、って聞こえたからかもしれないわね」
それを聞いて、大山さんが微笑んだ。
「面白いですね」
私は笑みを返すと枕草子を手提げにしまった。
「いってきます」
「いってらっしゃい。楽しんできてください」
外に出ると、さっきからほとんど時間が経っていないのに、だいぶ空気が冷たくなっていた。
家族との待ち合わせ場所に行く前に、秋風に負けないよう、もっと暖かい服を着ていこう。
帰り道の途中でさきほどの蓑虫を見かけた。
鬼を待つ蓑虫も、カラスと一緒に山へ帰ることができればいいのに。
家路を急ぎながら、ふとそんなことを思った。
鬼と蓑虫、カラスの夕暮れ だいたい日陰 @daitaihikage
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