第36話 手紙
そこは物寂しい一軒の家だった。幸いというべきか戦争の被害は免れたらしい。それもそのはずで、人里から離れて佇むその家屋の周りは木々に覆われ、おおよそ人が住んでいるとも思われない。それくらい辺鄙な場所だった。人の気配はない。何かの間違いではないかと訝しんでしまう。
「カンナ!いるのか?」
わかっていた。聞こえてくるのは木々のざわめきと、古びた何かがギシギシとしなるような音だけだ。俺は戸を開けて中を観察する。なんてことはない小さな家だ。だが、外見に似つかず丁寧に整理されており、生活感があると言えばいいのか、むしろないと言えばいいのか悩むような空間だった。玄関を上がってすぐの居間。一応警戒しつつ歩を進めると、そこの卓上にある一通の手紙が目に入った。それを手に取ると、少し湿っていた。よく見ると茶飲みが倒れており、おそらくはそれで濡れているのだろう。
カンナがログインしたというアクセスログを見たとき、わが目を疑った。彼女は死んでいるものとばかり思っていた。少なくとも、もはやこの世界にはいないのだろうと。だが、涅槃の連中曰く、改ざんなどは不可能で、間違いなく本物だという。それはソフィアにも確認済みだ。だから俺はここにいる。その足跡をたどるために。
手紙は分厚く、複数枚に分かれているようだ。カンナからのメッセージだろうか?俺はすぐに封筒から取り出し、中身に目を落とす。だが、一番上、宛名に書かれていたのはカンナへ向けてだった。つまりこれは誰かがカンナへ宛てた手紙だということか?「明光カンナさんへ」冒頭はそう始まっている。俺は中身に目を通した。誰から向けられた手紙なのか。それはこの家の主人なのだろうか。なぜわざわざカンナはここでアカシックレコードにアクセスしたのか。どこへ消えたのか。その問いの答えがあると期待して。
”私を許してくれるでしょうか?
唐突な書き出しで申し訳ありません。
私は貴方を初めて学校で一目見たとき、おおよそ自分の罪を自覚しました。
短い期間ではありますが、接するうちにそれが確信へと変わりました。
何を許し、何を許さないのか。
それを解きほぐすために、少しだけ、自分語りをさせてください。
数えるのもやめてしまいましたが、長い年月をこの世界で過ごしてきました。
知っての通り、涅槃にも加入し、真理を求め、強さを求め、多くの過ちも犯してきた自覚はあります。
けれども、ここで打ち明ける罪とはそのようなことではありません。
もっと、とても個人的なものです。それは私が繋縛者となったこと、つまり涅槃を抜けたことと関連しています。もう何十年も昔のことです。
ツクヨミ――彼女の本当の名前すら、私は知らないままでしたが、彼女の慈悲によって私は涅槃を抜け、世俗を生きることができました。彼らの計画に賛同していたわけでも反対していたわけでもありません。単なる好奇心の延長でした。長い時間をかけて、アカシックレコードを読み解き、多くのことを知った結果、私に残ったのは何も知らないという感覚だったのです。
人々が何を感じ、どう生きているのか。なにより、記録をされないような些細な言葉を、その場にいなくては立ち消えてしまうような微かな囁きを知りたいと願ってしまったんです。それは、ふと鳥の声に耳を傾けて感じるたわいもない喜びであったり、ちょっとしたすれ違いから生じた悲しみであったりするかもしれません。
記録をしても無意味だと投げ捨てられてしまうそんな断片が世界には無限に広がっている。それらは、自らを強くしたところで、どれだけ知識を得たところで、いくら不老の身となったとて、拾うことはできませんでした。なにより、涅槃の仮面は自分で外すこともできず、感情を押し殺してしまう。私は大義よりも自分の好奇心を優先した。それが罪の始まりかもしれません”
手紙の表側を読み終える。この人物を、俺は知っている……この文体の既視感、元涅槃、学校でのカンナとの出会い……まちがいない。卯月先生。彼が、ここの家主であり、カンナへと手紙を残した人物なのだろう。そう思うとこの家は先生にぴたりと符合するように思えてくるから不思議だ。それにしても、なぜ先生はカンナに対して許しを乞うているのか。俺は手紙を裏返して読み進める。多くのことが頭に引っかかったままに。
”長々と書いてしまうのはどうにも私の悪い癖のようです。
もう裏面になってしまいましたね。
そうして、私はいわゆる世俗の中で生きていくことにしました。
魔法を極力封じ、なじめず苦戦しながらも、暮らしを形作っていきました。
感情が摩耗していた私にとって、最初は退屈極まりない毎日でした。
すべてがくだらなく思え、翻ってはそのくだらなさを感じに来たのだと自分に言い聞かせるような日々を過ごしていくうち、人に教え諭すことに何か心の微かな動きを感じるようになりました。
幸い蓄えてきた知識はたんまりとありましたから、ごく自然に教職についていくことになります。
人というのは、とても興味深い生き物です。それがたとえ、ここが彼方の世界の写し世であり、我々がデータで形作られたコピーであってもです。プログラムされた本能をいくつも抱えながら、これだけの多様な物事を創造しうるのですから、興味は尽きることがありません。とはいえ、老いて死ぬことも悪くはありません。自我が溶けていき、貢献を探すことができるようにプログラムされているわけですから。
もちろん例外があること。それこそが人間の……いえ、この世界の面白さを生み出しているんだと思います。想定もしていなかった事態が起き、想像だにしていない結果へと収束する。その過程が何よりも愛おしいと思うのです。
このような話の脱線も余計な事かもしれませんし、重大なことかもしれません。
本題へ戻りましょう。長く教職を務めたある日、貴方は現れましたね。
そしてその姿を見て、閃光のように思い至りました。
彼女の子供だと。そして、もしかしたならば、私の娘であると。
涅槃をやめたのも、彼女――ツクヨミさんと愛し合った……(どうにも表現に悩みますね。娘への手紙かもしれないのですから)、こともずいぶんと昔のことですから、時系列がおかしく感じられるかもしれません。百歩譲って彼女の子供であることは確かだとして、私の子供だというのはあまりにも突飛だと思うかもしれませんね。
これは仮説ですが、このリインバースの世界では魂の数が決まっているのかもしれないと思うのです。世俗に生きていればわかることですが、子供を授かる時期というのはあまりにも予測ができない。すぐに子を宿すこともあれば、恐ろしいほどに時を空けたタイミングで子を授かることもあるのです(だから因果関係がわからず、コウノトリが運んでくるなどという逸話も生まれたんでしょうね)。
証明は非常に難しいのですが、もはや上限に達しつつある魂が、他世界から流れ込んでくる形でしか、もはや私たちは新たな命を授かることができないのだと私には思えてなりません。
ですが、最後の最後は直感、という他ありません。貴方が風魔法と光魔法を得意属性としていること、見た目からの推測、元涅槃であるとわかったこと……これらと私の鈍くなった心から導き出したものです。ですが、いつしか私は確信していたんです。なぜなのか、論理的な帰結はありません。
最後の言葉だと思うと、どうにも筆が走ってしまいますね。
あともう少しだけ、読んでもらえたら嬉しいです”
裏面はそこで終えられている。カンナが卯月先生の娘……。ありえないことではない。いや、むしろ……考えに入ろうとしたとき、ふと違和感に気づく。先生の半生や仮説も深く考えたい部分ではあるが、俺が感じたのは紙の濡れ方だ。何か、水滴が垂れたようなシミがうっすらと残っている。これは零れたお茶では説明がつかない。これをカンナは読んだのだろうか。そして、何を感じたのだろうか。これが彼女の涙だというのは、あまりに突飛だろうか。「最後の言葉」であるとしたら、先生はもう……。
俺は、めくる手を止められなかった。人の手紙を読むなどというのは無粋だとわかっているけれど、カンナについての手がかりが少しでもあるかもしれないと思うと、もう止まることはできない。
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