遁走
獣が見えなくなると、エラゴステスはラバの手綱を取り、全速で鞭打ち走らせた。
「逃げよ! みな
商隊は一瞬動揺し、そして弾かれたように皆が逃げる算段をする。
戦士が矢を放ち、馭者は荷車を発進させ、見習いと雑役の男達は倒れた荷車をおこそうとする。
「倒れた荷車は捨てよ! とにかく皆が逃げのびよ!」
ティグルが指示を飛ばす。人足には奴隷身分の者たちもいるが、それも含めエラゴステスの財産である。死なせていい道理はない。
愚か者が一人、いずこかへ逃げようとしたが、獣がその背を追ってあっという間に狩る。
男の悲鳴が長々と響く。
なぶり殺しにされているそいつを囮に、皆荷車を走らせる。
「助けて。死にたくない死にたくない!」
喚き立てる悲鳴をふり切り、商隊は全力で距離を取る。
隙を見て一人逃げた者を、誰が惜しもうか。
「ティグル!」
エラゴステスが呼ぶ。
先頭の車両まで走り、ラバを急かすエラゴステスの隣りに乗る。
「被害は」
「馭者と案内人以外には、奴隷一人と車一台」
「砂漠の悪魔め! 亡者に魂まで食われるがいい!」
エラゴステスが益体もない悪態をつく。
この男がこれほど取り乱すのも珍しいが、無理もなかろう。
あのような化け物、ティグルですら初めて遭遇した。
「毒矢を打ち込んだ。効果は如何程か判らぬが、キツネなら即死する量だ」
「……気配は」
「今のところ、無い。狩った三人を喰らっているのだろう」
エラゴステスがうなる。
奴隷や使用人とはいえ、この砂漠で共に飯を食い、冗談を飛ばしあった仲だ。死なれて気持ちいいものではない。
だが、
「ティグル!」
後方から呼ぶ声。
――まさか。
エラゴステスは目で行け、と示す。
ティグルが後方の車両に移ると、部下が言った。
「奴が追ってきている。気配がある」
ティグルが闇をにらむ。何も見えず、音もしない。
――いや。
目を凝らすと、地平線近くの
目を閉じ手で耳を凝らせば、こちらの車輪が蹴立てる響きの中に、重い何かが地面を駆けてくる音が判る。
人間の目と耳は脅威の方向に敏感だ、一度見つけると、闇の中でも土を蹴る力強い振動と風を切る音、肉食獣特有のギラギラ光る光彩がこちらを追跡しているのが判る。
「エラゴステス! 奴が追ってきている!」
声を張りあげて伝えると、前方から悪態が聞こえる。
――奴はいつ仕掛けてくるのか。
人間は獣ほど夜目がきかない。来るなら夜のうちであろう。
「皆矢をつがえろ! 毒はたっぷり塗っておけ!」
ティグルがをつがえ、小さい動作で撃つ。
獣はそれを、ひらりと躱した。
――こちらの攻撃を読んだ?
いや、目が見えているのだ、まるで昼間のごとく。
ビタリとこちらに据えられた、光る二つの目。
一度認識すれば、そこに獣がいると、明確に教えてくる。
そして夜は、獣の時間という事を。
「“獣”は追いつき次第攻撃してくる! 奴隷は前の荷車へ行け! 警護の者は最後尾に移れ!」
狂気に燃える獣の目。
だが、それもまた獣の罠であった。
ギラギラと食欲の金色を反射していた目玉が、消えた。
「恐ろしき獣でございました。爛々見開いた眼で我らを見据え、脅してくるのでございます『お前を喰ろうてやる。お前たちすべてを喰ろうてやる。その魂まで、噛み砕いてくれよう』と」
エラゴステスの語りは、冷え冷えとした砂漠の夜を、聞く者すべての脳裏に刻む。
「このティグルも、その場におりました。警備の長でございます。武器を用意し、撃ちこむ用意を万端ととのえておりましたが、ふと見失ったのでございます――爛々光る、その目玉を」
「ほう、何故じゃ!」
「細めたのでございます――目をすがめ、瞼をおろして、我らをうすうく、見たのでございます。見開いた眼で、こちらをたっぷり脅した後に、いざ喰らう時に、そうしたのでございます」
ぴいん。
吟遊詩人が、緊迫の高音弦を
獣の両の眼を見失い、ティグルは混乱した。
敵の姿を探すが、どこにもない。
見れば、他の者もその姿を見失っている。
足音が聞こえた。
真横だ。
認識した時には、獣は奴隷や使用人を乗せた車両に体当たりを仕掛けていた。
――やられた!
木材が粉々に砕け散る音。
「ぎゃああ!」
「助けて、助けて!」
投げだされた荷と人間。
ひいひいあえぐ年若き使用人の首を、獣が噛み砕く。
そして血と髄液まみれの口を開き、長き左の牙をこちらに見せる。
そして長々と吼えた。
轟轟と鳴る怒号。
音の振動が、物理的な衝撃となって肌を、全身を打つ。
その声量を実現する筋量、肺活量に全員が驚愕を覚える。
そして、咆哮を終えると、その目をまた見開いた。
――こいつ……こちらを嗤っている。
全身が総毛だつ。
この“獣”は、こちら全員をなぶり殺しにするつもりだ。
「あれほど邪悪な生き物には、遭うた事がございませんでした。大きな図体の物が、何も知らぬ幼子のごとく殺戮を楽しむのです」
「人も殺戮を楽しむぞ」
「それは血に酔うた戦場や物狂いでございましょう。違うのです。“獣”は当たり前のごとく、生まれたままでそういう習性があるのです」
吟遊詩人の曲が転調する。
「奴隷たちを守れ!」
ティグルが抜剣し、走りこんで獣の首筋に切りつける。
刃側にそりのある、頭の重い断割りのきく短剣だ。
深手を期待したが、威力のほとんどが固い毛を削るにとどまり、表皮を割ったのみであった。
獣は痛みにひるむ事なく、首を巡らせティグルに噛みかかる。
危うく飛びのいたが、危険な距離だ。押しこまれればこのまま喰われる。
「ティグル! そいつの背に回れ!」
警備の一人が矢を連続で放つ。
テュルカという極西の地の傭兵だ、弓使いに非常にたけている。
放った五本のうち二本の矢が、口吻先端の鼻のつけ根と、口をひろげた顎部に内側より突き刺さる。
初めて獣に反応が現れた。うなりをあげてのけ反ったのだ。
テュルカの矢じりは特製で、細長く返しも小さいが、先端が非常に鋭い。
故に剛毛を貫通できたのだが、傷はいずれも浅い。
「皆残った荷車に分乗せよ! 逃げるぞ!」
全員が急いでティグルの声に従う。
恐るべき天然の狩人からの、長い逃走が始まる。
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