獣 ‐コブイェック‐

「星明かりのみの、それすらも弱い、漆黒の空でございました」

 無駄な説明を省き、エラゴステスは語る。

 背後の吟遊詩人が抱えた琴で不協和音を、ゆっくりとバチを打ちおろし、不気味に奏でる。


 この頃から既にティグルはエラゴステスの商隊に参加しており、立場もやはり護衛の長であった。

――商隊が迷走している。よくない兆候だ。

 ティグルもまた、極度のきな臭さを覚えている。

 混乱と不満が高まっている。その根底にあるのは、恐怖だ。

――砂漠に棲むという、獣に出くわすかもしれぬな。

 コブイェックなるその獣は、信じられぬほど大きく強いという。

 砂漠の外の世界を知らぬが故の、おおげさな怪談と侮っていたが、取引される毛皮や牙を見て、ティグルは認識をあらためた。

――必殺の準備が必要だ。

「警護は矢に毒を塗っておけ! カウワは鞘の締め紐を抜け!」

 いつでも戦えるように指示を飛ばす。

 商隊の荷車は闇をのろのろと進む。

 また先頭の荷車の進行が乱れ、停まる。

 ラバが暴れている。

――前方に何かが居る。

 小動物ではなかろう。

 ラバが怯えるのなら、それは人か――大型獣。

「矢をつがえろ!」

 緊張でピリピリと肌が痛む。

 四人が馬車を降り、前方の闇に対して扇形に位置し、気配に矢をむけている。

 ティグルは荷の上に立ち、周囲をうかがう。

 足音はすぐ傍でした。

 そいつは、左側から商隊のどてっ腹に突っ込んできた。ティグルの乗っていた荷車だ。

 衝突を受け、荷車が横転する。

 間一髪受け身を取って、ティグルは怪我をまぬがれる。

 起きあがりざま、弓をむける。

 矢を放つまで一瞬間ができたのは、その獣があまりに巨大で、どこを撃つべきか迷ったからだ。

 四足で歩いているが、立てば七トルーキ(約2.1メートル)を超えよう。

 しかも全身盛りあがるほどの筋肉を身にまとっている。

――躰が大きく、分厚い。こいつは厄介だぞ。

 たったの一撃で、ラバ四頭引きの荷車を転倒させ、しかも自ら損傷を受けた様子もない。

 筋骨たくましく、頑丈でもある。

 何より目立つのが、口を閉じれば顎の下まで伸びる、赤い筋の入った左の牙。

 高価な美術品として取引されるその牙は、砂漠において、もっとも強き凶器であった。

 左様な恐ろしき獣ではあったが、攻撃自体はためらわなかった。

 まず撃ったのは腹の真ん中だ。

 脂肪と筋肉層が厚いせいで、矢の侵入は鈍かった。矢じりがどうにか刺さって埋まる程度。

 だが即効性のしびれ毒を塗ってある。

 一本では時間がかかるやも知れぬが、数撃てば弱ろう。

「矢を放て! ありったけ撃て!」

 仲間が矢を放つ。

 が、そのすべてが外れた。

 獣が敏速に動き、商隊前方に回ったのだ。

――速い! あの大きさで砂ギツネのごとく動くのか!


「獣はその巨体を用いて商隊の荷車を押し転がし、足止めいたしました。案内人は言いました『こいつは……コブイェックだ』と。馭者席には私と馭者、そしてその案内人がおりましたが、まずその案内人から殺されました」


 商隊の前方に回った獣は、最初に案内人のノドにかぶりついた。

 詰め物をした割れ物が、床に落ちて割れるような鈍い破砕音。

 案内人の首は、ありえぬ角度に曲がり、絶命した肉体が、獣の胴振りで荷車から投げ出される。

 次に襲ったのは、馭者だ。

「助けて」

 くれ、とつづけたかっただろうが、馭者は爪でアゴと首をズタズタにされ、こちらも一撃で絶命した。

 エラゴステスは腰の細剣を抜いて向けた。

 獣はノドでうなりながらしばらくエラゴステスを検分したが、危害を加えることなく、そのまま商隊の反対側に回った。


「貴様が生きておったのは、その醜い姿が、よほどまずそうに見えたのであろうな!」

「慧眼にございましょう。この姿に生まれて感謝したのは、あの時のみにございます」

 陰険な笑いが、謁見の間に響く。

 吟遊詩人が奏法を変える。

 丸琴の首を滑らせつつ押さえ、五指を使い弦をば一本一本つま弾く。

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