第17話
『遅くなります。夕飯は食べてくるのでいりません』
家族に送ったメッセージに既読がついたのを確認して、スマートフォンの電源を落とす。
止められることはわかっている。兄のことだ。GPSで追ってくるかもしれない。そう思って、電源は決しておいた。
「美羽、大丈夫?」
「えぇ」
心配そうな杏珠に微笑みかけ、スマートフォンはバッグに入れて
「行きましょう」
博之たちの後を追った。
「楽しそうだね」
どこか足取りが軽い美羽に、京が保護者のような微笑みを向ける。
「そりゃそうだって。美羽がこの時間に出歩くなんて、初めてなんじゃない?」
「え、そうなの!?」
いちいち反応が大きいのも、かわいいと思える。
「家がうるさいだけよ」
「お嬢様だもんな!」
豪快に笑う博之の声を聞きながら、足を止めたのは。
「ここは?」
見たことのないのれんがついた店だった。
「お好み焼き屋さんよ。初めて?」
京が優しく聞いてくる。
「えっと……」
お好み焼きか。大衆的な料理だが、食べたことがないわけではない。幼い頃に父に連れられて、料理人が目の前で焼いてくれる店に行ったことがある。ここも同じようなものだろうか。
「入るか」
博之ががらっと扉を開けた瞬間。美羽の耳に、たくさんの音が入ってきた。
騒がしい喋り声に笑い声。たくさんの大きな音が飛び交う空間。
「早く」
美羽は杏珠に手を取られてついていくことしかできなかった。
「あぁ、いたいた」
博之が手を挙げながら歩いていく。その先には、3人の男性が座っていた。
「お疲れ様でーっす」
「おつかれー!」
周りの喧騒に巻けない大きな声で挨拶する男性陣に、美羽は圧倒される。
「お、女の子もいるじゃん! いいね~!」
「でっしょ~! やっぱこういうのは女子がいないと!」
「ぎゃはは! 合コンかよ!」
昨日の夜とは正反対。その空気感の差に、美羽は呆然と見つめることしかできない。
「ほら、座って、座って」
「美羽、そっち」
杏珠に言われるがまま、右端の席に座った。
「あ、飲み物何にする?」
「えー、何がありますー?」
さすがに杏珠は馴染んでいる。すごい。美羽は何をすればいいかもわからない。
「美羽、飲み物だって。何がいい?」
「え、えっと……」
メニューを見てみるも、手書きでごちゃごちゃ書いてあって、何が書かれているかも読めない。どれを選べばいいのだろう。
「杏珠と同じもの」
「ん、おっけ」
時間をかけるのは申し訳なくて、適当に決めてしまった。
「んじゃ、乾杯しますか! ソフドリだけど!」
「あはは!」
「美羽、グラス持って」
杏珠に言われるがまま、運ばれてきた大きなグラスを持つ。
「かんぱーい!」
ガシャンガシャンとグラスをぶつけ合う。すごい世界だ。
「あ、ってか、自己紹介まだだったな」
2年生の1人が言い出した。
「オレ、
「いぇーい!」
雰囲気にのまれて、美羽もぱちぱちと手を叩く。
「
こちらも拍手。そして、美羽の目の前に座っていた男の順番になり、
「……
彼はぼそっと名前だけ告げた。
「あー、こいつ愛想なくて。ごめんな~?」
仏頂面の彼は、友人に肩を組まれながら、面倒そうに飲み物に口をつける。
「あ、じゃあオレ! 1年の福山博之っす!」
「同じく1年、増井康介です」
「佐倉京です。この中では最年長かな?2年浪人してました!」
次から次に。口々に自己紹介するのに流されて、
「久野杏珠です!」
と杏珠ものる。
「で、こっちの美少女が!」
「え!?」
美少女と言われて、戸惑いながら、
「く、九條美羽です……よろしくお願いします……?」
と口にした。
「いぇーい!」
同じように拍手が沸き起こる。
緊張からだろうか。ものすごく喉が渇く。会話が全然入ってこない。何度もグラスに口をつけながら、周りを見渡す。
「よし、じゃあお好み焼き作るか!」
「じゃあ、こっちはもんじゃな~」
机に取り付けられた鉄板で客が焼くスタイルらしい。
目の前で作られていくお好み焼きを見ていると、
「ん」
目の前からメニュー表が差し出された。
「え?」
美羽が驚いていると、
「ドリンク、もう少ないだろ」
松山と名乗った先輩が、美羽のグラスを見ながら言う。
「さっきは急いで決めたんだろ。今は誰も見てないし、ゆっくり決めれば?」
「あ、ありがとうございます……」
不愛想かと思ったら意外と気が利く人らしい。
「こいつら、ただうるさいだけだから。気にしなくていい」
不思議だ。周りはこんなにもうるさいのに。目の前の人の声が、すっと耳に入ってくる。
メニュー表にゆっくり目を通す。こうしてゆっくり読むと、なんとなくわかるものもある。
ようやくドリンクを決め、机を見た。前に杏珠に連れられて行ったファミリーレストランでは、机に呼び出しボタンがあったはず。が、ここにはない。どう呼べばいいのだろう。
「すいません」
すると、松山が店員を呼ぶ。
「どれ?」
「あ、えっと……」
美羽はメニュー表を指して伝える。
彼は代わりに注文してくれた。無事に店員に伝わり、ホッとする。
「ありがとうございます」
もう一度礼を言うと、
「別にいい」
ぶっきらぼうな答えが返ってきただけ。
ここは、にぎやかな世界。美羽が知らない世界。しかし、会話には困らない。ただ普通にお喋りができる。個室でも何でもないのに、隣の会話が気にならない。不思議な場所だ。
しかし、何かがストンと胸に落ち着いた。気にしなくていい。そう思うことができた。ここの会話なんて、誰も聞いていないのだ。
「あ、そういえば先輩、1年の授業ってどうでした?」
その時、ようやく彼らの会話が耳に入ってきた。
「どうって言われてもな~。テストとかないし、正直つまらんだろ」
「そっすね~」
「こいつなんか、とっととサボってたからな!」
「……んだよ」
無理やり話を振られた松山が、不満そうにつぶやく。
「え、サボって大丈夫っすか?就職に影響しません?」
「しない、しない。正直、1年の授業の内容なんか、2年になってもほとんど使わねぇもん。月狼の生態はともかく、他の生物の生態なんて覚えても意味ねぇって」
「俺はもう忘れたかな」
江崎も望月もあっけらかんと言い放つ。美羽が今まで関わってこなかった種類の人間たちだが、悪い人には見えない。
「就職は、月光園での実習だけやってればいいって」
「え、じゃあ松山先輩は、大学行ってないんですか?」
「……たまにいく」
たまに、というレベルなのか。
「あー、いつもバイトしてんだよな」
隣にいた望月がフォローするように添える。
「うちの学科、学費バカ高いじゃん」
「ま、そっすね。保険とかのせいでしょうけど、正直バカかって思いましたもん」
学費は高い。しかし、それが月狼のためと思えば、安い。そう思えるのは、お金に困っていない美羽だからなのか。
「奨学金を満額借りても足りないし、親に甘えるしかない。けどさ、こいつできるだけ甘えたくなって言って、バイトしてんだ。実習はサボりたくないらしいけど」
「当然だ」
「まぁ、学生の内で月狼に関われるのなんて、少ないからな」
2年になっても、まだ月狼に関われるのは少ないのか。
「母子家庭だから」
松山はぼそっとつぶやいた。
「母親に迷惑かけないってしてんのが偉いんだよ!」
友人たちに絡まれた彼は、少しうざったそうで。
美羽だって父子家庭だ。ただ父の仕事が特殊だったからお金に困ってないだけ。
しかし彼は、片親家庭だから困っている、といった口調だった。普通はそうなのだろうか。
「それを言ったら、美羽だって父子家庭ですよ~」
突然杏珠が言い出した。
「ね、美羽?」
「あ、え、えぇ……」
美羽は戸惑いながら頷く。
「美羽ちゃんって、うちの学年でも有名だよ。どっかのお偉いさんのお嬢様なんだろ?」
「九條って家ですよ。めっちゃすごいらしいっす。高級車で通学してるし」
美羽に注目が集まってしまった。
「……先祖と父がすごいだけですから……」
できればこの話はしたくない。困ったように笑っていると、
「できた」
松山の声がした。
「ほしいやつ、皿出して」
綺麗にできあがったお好み焼き。ソースの焼ける匂いが、すっと美羽の鼻を通り抜ける。
「お、うまそう! オレほしいっす!」
続々と皿が掲げられる中、彼は器用にさばいていく。
「こっちもできた!」
「おぉ~!」
こうしてテーブルは盛り上がっていく。美羽の話題なんてそっちのけだ。
「美羽、食べてみる?」
「え、それで完成なの?」
「そうだよ。もんじゃってこういうもの」
小さなへらを渡され、美羽は杏珠を見る。杏珠がするのを真似して食べてみると、
「ん、おいしい……!」
「ははっ、だろ?」
思わず口をついて出た言葉に、もんじゃを作った江崎はニカっと笑った。
「あ、オレ、ドリンクない! 誰か追加頼む人!」
「オレも!」
「あ、じゃあわたしも」
ほんの少しも静まらない。賑やかで楽しい。美羽はずっと笑っていた。
「じゃ、今度はカラオケ行こうな~!」
「いぇーい!」
次回の約束までして解散した。
「美羽、帰れる? 迎えは?」
「タクシーを拾うわ」
帰りを心配する杏珠にそう言って、道路を見る。
「あ、来たよ」
康介がちょうど通りかかったタクシーを止めてくれた。
「ありがとう、コウ」
お礼を言って乗り込み、
「じゃあ、気をつけてね」
「みんなも」
友人たちと別れ、美羽は1人で帰途につく。寂しくも悲しくもなかった。
楽しい一日を過ごしたかのような充実感。こんなにも幸せを感じていいのか。
楽しそうな笑顔が、夜のネオンに照らし出された。
自宅の前でタクシーを止め、料金を払って降りる。
巨大な門は、いつもなら車で通っていた。一人で潜るのはこれで何度目か。自宅なのに変だと、美羽は微笑みをこぼす。
門の横の呼び鈴を押し、
「美羽です」
と告げると
『おかえりなさいませ』
と声がして、門が開いた。
広い庭を歩きながら、冷たい夜風に耳を澄ます。お酒を飲んだわけじゃないのに、心がふわふわと浮いているように気持ちがいい。
楽しかった。たった数時間だったのに。一日遊んだら、どんなに楽しいだろう。
そんな時だった。
「美羽!」
玄関が開けられた瞬間、美羽は一気に現実に引き戻された。
「遅いじゃないか! なんで連絡しても出ないの!?」
「……」
たった今まで、楽しかったのに。この声は、聞きたくなかった。楽しいまま、一日を終えたかった。
「連絡はしたわ。遅くなるって」
「あれで十分だって思った? ちゃんと言わないとわからないだろう? 心配したよ」
ようやくバッグからスマートフォンを取り出して電源をつける。兄から何件もの着信が入っていた。
「いい加減にして」
美羽ははっきりと言葉にする。
「わたしはもう子どもじゃないの。友達とどう過ごすかなんて勝手でしょう。好きにさせて」
そして、兄の反論を聞くこともなく、部屋に入る。
最悪な気分だった。
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