第15話

「美羽、また本を読んでるの?」


 家に帰っても専門書を開く妹に、兄は呆れて後ろから覗き込む。


「お兄様が見てもわからないわよ」


「多少はわかるかな」


 兄が学ぶ分野とは全く異なる分野なのに。なんでもそつなくこなす兄が、少し怖くなる。


「大学はどう?慣れた?」


「まぁ、授業にはね」


 含みのある言い方に、兄は特に追求せず、美羽の頭を撫でる。


「楽しいならいいんだ。大変だって聞いてたから、心配だったんだよ」


「大変は大変よ。月狼だけじゃない、いろんな動物の解剖とか基礎知識を詰め込むの。でも、どこかで月狼につながってるかもって考えたら、頑張れるわ」


 月光園に行けなくても、月狼を感じることはできる。それが美羽には嬉しかった。


「あぁ、でも、明日は楽しみね」


「明日?何かあるの?」


「月光園の見学の日なの」


 これだけが1年間で唯一の楽しみだった。


 来年からはもう少し増えるだろうが、1年生の間で月光園に入れるのはこれだけ。やっと月狼に会える。


「気をつけてね。危険なことはしないで」


「わかってるわ」


 美羽は笑顔で答えた。




 集合場所は、月光園の敷地の前。建物からは少し離れているが、敷地が広いためその存在感はすごい。


「美羽~」


 時計を見ていた美羽に、安珠が遠くから声をかける。手を振りながらのんびり歩いてくる友人に


「遅いわよ」


 と睨んだ。


「仕方ないじゃん。近いんだもん」


 13時という集合時間ギリギリ。30分も前に着いていた美羽とは大違い。


 そして、集合時間になって集まっていたのは、15人の内8人だけ。これが、月光園を目指す人数なのか。


「なぁ、やっぱそうだって」


 その時、美羽の耳にそんな声が入ってきた。声がした方を見ると、そこには男子が2人。また嫌な噂か。


「……!」


 2人とも美羽に気づいて視線を逸らす。


「バカ……!」


「いや、だって……!」


 いい気分はしない。どうやら真面目な人ばかりというわけでもないらしい。気にしないでおこうと、美羽も視線を逸らした。


「美羽?どうかした?」


「……いいえ、なんでもないわ」


 友人に聞かれて、美羽は首を振って答える。


「君たち」


 そこへ、施設の方から駆け寄ってきた男性。


「明泉大の1年生?」


「……げ」


 杏珠があからさまに顔をしかめた。


「そうです」


 誰かがその問いかけに応える。


「月光園の飼育員の久野ひさの雅紀まさきだ。今日は月光園を紹介させてもらう」


 と男性が言った。


「……なんで兄貴なのよ」


「杏珠、静かに」


 小さく押し殺した声を、美羽がたしなめた。


「まず……っと、園の外からか。この山は、全てが月光園の敷地だ。で、園の前に並んでいる石碑だな。これは、ここで亡くなった月狼たちのお墓だ」


「こんなにたくさん……」


「月光園が建てられてもう100年以上経ってるからな。その間に亡くなった月狼たちは、みんなここで眠ってる」


 月狼1匹のためのお墓。この地面には、100頭を超える月狼たちがいるのか。


 石碑に挟まれた道を歩くのも、なんとなく厳かな気持ちになる。


「中に入る前に1つ注意。月光園に来たことがある人は知ってるだろうけど、月狼の捕食対象には人間も入ってる。走らない、叫ばない……、というのは当然だな。くれぐれも、月狼を刺激するなよ」


 これが、大学に入る前に生命保険への加入を勧められた理由。他にもたくさんの保険がかかっているため、学費が高額だ。


「入るぞ」


 ようやく月光園の扉が開かれる。


「ここはロビー。月に二回の一般公開の日には、ここが受付になる」


 一般客を招いて月狼を公開する日。多くの客が殺到する場所だ。


「どうして一般公開の日は少ないんですか?もっと公開すれば、園にも利益が出るんじゃ」


「簡単に言えば月狼のご機嫌取りだな。大勢の人間に囲まれることを、彼らはよく思っていない。月に二回だけ我慢してもらってるっていうスタンスだ。猛獣を我慢させすぎるとどうなるかは……。言わなくてもわかるな?」


 脅しのような言葉に、質問した学生はぐっと黙る。


「こっちは事務所。全職員が集まる。とはいっても、シフト制だからな。実際に集まるのは全職員の3分の1くらいだ。PCは、職員の数よりも少ないが、月狼たちの情報をまとめる用。みんな順番に使ってるんだ」


 それなりの広さがある場所に、たくさんのデスクが並んでいる。学校の職員室のようだ。


「地下は更衣室。2階は学生の勉強スペース。2年生からはこっちでの実習も始まるからな。2階は来年からよく使うと思うぞ」


 そうして事務所を出て、ようやくゲートの前に立つ。


「ここがゲート。ここから先は、月狼の縄張りだ」


 その言葉で、8人の気が引き締まる空気を感じた。


 久野雅紀がゲートの一部に足をかざすと、ゲートが電子音をあげながら開く。


「キャン!」


 その音に反応するように幼獣たちが鳴きながら集まってきた。


「キャン!キャン!」


 甲高い鳴き声で遊んでと要求する幼獣たちに、


「ごめんな」


 彼は軽くあしらいながら歩いていく。美羽たちもその後を追った。


 そうして、片隅に座っていた成獣の前に膝をついた。


「長のマリーだ」


 美羽たちも彼の後ろにそれぞれ膝をついて屈む。


「マリー。こいつらは今後飼育員になるかもしれない人間。ちょっと見学させてやってくれ」


 久野雅紀の言葉に、マリーはじっと8人を見据え、そしてふいっと視線を逸らした。


「ありがとな」


 どうやら許されたらしい。


「さて、しばらく月狼と触れ合っていい。が、くれぐれも刺激するなよ。幼獣を抱く時は注意だ」


 そう言われて、8人はそれぞれ周囲を見た。人懐っこい幼獣たちがわらわらと集まってくる。


「クウゥ」


 美羽のところにも1匹の幼獣が近づいてきた。幼獣といっても、身体はもう中型犬くらい。もうすぐ成獣になろうとする幼獣だ。


「いい子ね」


 そっと手を差し出すと、幼獣は自らその手に頭を乗せる。


「その子、ニーナよ」


「え?」


 杏珠の言葉に驚いた。初めて会った時、あんなにも小さかったニーナ。もうこんなになっていたのか。


「久しぶりね」


 美羽がそう笑いかけると、


「アン!」


 それがわかったかのように、元気な挨拶が返ってきた。


 ニーナも再会の喜びの表現なのか、美羽の顔に近づき、舐めようとしてくる。


「ふふ……。待って、ニーナ。くすぐったいわ」


 月狼の舌はやわらかい。くすぐられるように頬を舐められ、美羽は微笑んだ。


「ニーナ、ダメ」


 それを久野雅紀が止めた。


「ニーナももう牙が出てきてるからな」


 これは危険な行為らしい。


「クウゥ」


 残念そうな声に、


「ごめんね、ニーナ」


 と美羽は両手でニーナの頬を撫でた。


 その時、美羽は視線を感じた。ふとそちらを見ると、ゲートの外からこちらを見ている3人の男性がいた。


「彼らは?」


「2年生だ。実習中だな」


「雑用をさせてるんでしょ」


 杏珠の呆れるような補足に、


「こっちはいつでも人手不足なんだ。学生でもバイトでも、使えるものは何でも使う」


 雅紀は当然だと言い放つ。あからさますぎではないか。


「クウゥ」


 ニーナが鼻先で美羽の顎をつついた。


「なんでもないわ。ニーナはかわいいわね」


 月狼のそばで過ごせるなんて羨ましい。それが雑用だったとしても。美羽はそう思った。




「じゃ、今日はここまで」


 月光園の外で解散になった。


「美羽、この後ひま?お茶しない?」


「いいわよ」


 行きつけのカフェに行こうと2人で山を下りようとすると、


「あ、あのさ」


 背後から声をかけられた。


「オレたちも、いいか?」


 最初にコソコソしていた男子学生2人組。その視線は、美羽、ではなく、隣の杏珠を見ていた。




「やっぱ、久野園長の娘さんだよな!」


 山を下りてすぐのカフェで、男子の1人が興奮して言った。


「……なるほど?月光園を目指す人は、美羽じゃなくてこっちにくるんだね」


 杏珠は感心するようにつぶやく。


「残念だけど、コネは通じないよ。わたしだってコネ使ってないんだし」


「あ、それは別にいい。オレ、そこまで頭悪くないし」


 あっさり断られ、安珠は「あ、そう」と少し残念そう。頼られたかったのだろうか。


「入学の時に名前見てさ、いやまさかなって思ってたんだよ。でも、さっきの見て、確信したんだ。これは話しかけるしかないだろ」


「落ち着けって、ヒロ」


「あ、ごめん」


 興奮する男子をなだめたのは、いかにも真面目系といった男子。派手系な男子とは不釣り合いだ。


「ねぇ」


 美羽が口を開く。


「まず、お名前を聞いても?」


「あ、オレ?福山ふくやま博之ひろゆき。ヒロって呼んでくれ!」


「僕は増井ますい康介こうすけ。ヒロからはコウって呼ばれてるけど、まぁ好きに呼んで」


「コウはコウだろ」


 これで2人の名前が判明する。


「わたしは久野杏珠。で、こっちが九條美羽。男は美羽にばっかりよってくるから、今回もそっちかと思った」


「いや、確かに九條さんは綺麗だけど……。月狼の方が……なぁ?」


 失礼、なんて美羽が思うわけがない。嬉しそうにニコリと笑う。美羽と同じ、月狼に魅入られた側の人間なのだ。


「2人は月光園を目指してるの?」


 杏珠が聞く。


「それはもちろん。じゃなきゃこの学科に入らないだろ」


「それはどうかな」


 実際、今回の月光園の就職に必須と思われるイベントに参加していない人もいるのだから。


「わたしたち以外に、本気で月光園を目指してる人なんて、いないと思ってたわ」


 美羽がそう言うと、


「まさか。オレらはガチの本気。あそこ以外考えてない」


「中学からだもんな」


 と博之と康介が言う。美羽が月狼に会うよりもずっと前から月光園を目指して勉強していたらしい。


「杏珠、4人も採用されるものなの?」


「さぁ、どうかな。いつも人手が足りないって言ってるし、使えるって判断されればいけるんじゃない?」


「だったら、わざわざ敵になる必要はないわね」


 美羽はそう微笑んだ。



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