第14話

 新しい学校に、新しい生活。新しいことづくめの4月は、少しだけ気分が躍る。


「美羽?」


 隣から声をかけられ、美羽は移り行く車窓から車内へ、視線を移す。


「なに?お兄様」


「話聞いてた?」


 なにやら話しかけられていたらしい。


「ごめんなさい。聞こえてなかったわ」


「楽しみなのはわかるけど、浮かれてると危ないからね。ちゃんと落ち着いて行動するんだよ」


「わかってるわ」


 せっかくおめでたい日なのに。こんな日にお小言は聞きたくない。


「今年からは社交界にも参加しなきゃいけないんだ。わかってる?」


「……えぇ」


 あぁ、もう。なんでこんな日に、そんなお小言を聞かなければいけないのか。


 大学から自由を認められたとはいえ、九條家の一員としての義務は果たさなければならない。その主となるのが、社交界と言われる上流階級の人間が集まる場。


 かつてヨーロッパの貴族たちがやっていたようなものが、現代日本にも残っている。


 そこに集うのは、どこかの企業の社長だったり業界人だったりアーティストだったり。それなりの地位を築いた人々だ。


 そういう人たちの中に混ざり、美羽はこれから生きていかなければいけない。


「お兄様は社交界の先輩でしょう?どういうところなの?」


「……楽しいところではないかな。でも、今後に必要なものだよ」


 兄らしい表現。いや、兄なら、どんな場所でも楽しんでいそうである。


「安心して、お兄様。大学の勉強も社交界も、どちらもおろそかにはしないわ」


 そういう世界で上手く生きていく術は心得ている。


「そうだね。父さんの会社に入らないんだから、結婚相手くらいは家の役に立つ人を選んでもらわないと」


「……!」


 その瞬間、美羽の顔が固まった。


「……結婚なんて、まだ早いでしょう」


 まだ18歳。高校を卒業したばかりで、結婚なんて言われても、まだピンとこない。


「そんなこともないよ。大学生で婚約している人もこの界隈には多い」


 兄が生きる世界ではそういうものなのか。


「じゃあお兄様は?まだでしょう?」


「お付き合いしている人はいるかな」


 兄の恋愛話が聞きたいわけではない。


「父さんに甘えすぎず、父さんの会社に有益な人を探してね」


 せっかく家から逃れられると思ったのに。こんなところまで絡んでくるのか。


 母親代わりと言うくらいだから、きっと兄が知る母は、こういうことを言っていたはず。


「わかってるわ」


 覚えてもいない母の言葉として、美羽は心に刻んだ。


「でも、美羽と違う大学なんて寂しいな。今まではずっと一緒だったからね」


 そんな兄の声は、もう聞こえていなかった。




「あ、美羽~!」


 大学の前で杏珠が待っていた。美羽が車を降りてすぐ、嬉しそうに駆け寄ってくる。


「大学でも車通学?」


「えぇ。残念ながら」


 美羽がそう答えると、車の窓が開く。


「やぁ、安珠さん」


「うわ」


 杏珠はあからさまに顔をしかめた。


「妹を頼むよ」


「わかってますよ。悪い虫は近づけませんから」


 杏珠の返事を聞いて、兄は満足そうに微笑む。そして車は走り去った。


「相変わらずうさんくさいお兄さんね」


「いつものことでしょう」


 車を見送る杏珠の横を、美羽は不機嫌そうに通り過ぎる。


「え、なに? 機嫌悪い?なんで?」


「なんでもないわ」


 慌てて後を追ってくる杏珠をあしらっていると、


「ねぇねぇ、君らどこの学部?」


 突然話しかけられた。


「……生物学部ですけど」


 美羽が不審そうに答える。


「おー、いいじゃん。オレらと遊ばね?」


 突然すぎて頭がついてこない。ただでさえ朝から兄のお小言を聞かされてうんざりしているのに。


「わ、あの子1年生?」


「めっちゃかわいい子いる」


 少し周囲に耳を澄ますと、そんな声が聞こえてきた。なるほど、と思った。


「ご遠慮いたします」


 美羽は男たちを避けて歩き出す。


「え、ちょ」


「あ、ごめんなさい。急いでるので」


 杏珠が彼らをあしらってついてくる。


「高校からは想像もできない民度だね」


「……あの学校と比べるのがおかしいんでしょうけど」


「そうだね。あそこじゃ、美羽に声をかけるのもおこがましいっていうお坊ちゃんばっかりだった」


 そんな学校で小学校から通ってきた美羽からすれば、この光景は異様すぎる。


「わたしは勉強しに大学に来てるのよ。遊ぶつもりなんて全くないわ」


「はいはい、そうだね」


 今朝の兄の言葉を思い出してしまう。将来を見据えて勉強をする場所で、恋愛なんて。ばからしすぎる。ここで見るべきなのは、異性よりも月狼だ。そう言い聞かせた。


 大学のパンフレットに載っていた、大きくてきれいな校舎。


 ではなく、その隣。古びた汚い校舎の一室が、美羽たちの新しい教室だった。


「……少ないのね」


 あらかじめ準備されていた机と椅子は、15個。


「定員に満たなくても、一定の基準に達してなければ落とすらしいからね、ここは」


 それだけ学力を求められる場所ということ。


「これでも多い方じゃない?去年は10人だったらしいし」


 薄汚れた黒板に貼られた紙で座席を確認する。杏珠と美羽は隣同士だった。


「先輩たちと仲良くなってくる?」


 杏珠が教室の外を見る。美羽の噂を聞きつけた人たちだろうか。多くが身を乗り出すようにして扉や窓から覗き込んでは、コソコソと耳打ちしあっていた。


「……いらないわ」


 美羽は呆れたようにチラリと一瞥して、バッグに視線を移す。


「そう? 大学では上級生からの情報も貴重らしいよ」


 意外そうな杏珠に、美羽は呆れる。


「杏珠が言ったんでしょう。ここには、月狼のことを学ばない人たちもいるって」


「言ったね」


「そういう人たちから、何を学べと?」


「それもそっか」


 ここでも2人だけの世界ができあがってしまった。




 午前中のカリキュラムを終え、2人は学食に向かう。


「……やる気がないのかしら」


 先ほど説明と一緒に渡されたカリキュラムの資料を手に、美羽は不満そうに呟いた。


「単位がないってどういうこと?授業に出なくても卒業はできるってこと?ふざけてるの?」


「んー……」


 杏珠がうどんをすすりながら答える。


「そもそも、月狼学科って、月光園への就職を目指す人のための学科でしょう?」


「知ってるわ」


「月光園ってね、スカウトされないといけないんだって」


 美羽も箸を止めて友人を見た。


「本気で目指すつもりなら、それを意識して授業には出るんじゃない?月光園じゃない動物園とか目指してても、動物に関する知識はほしいでしょ?本当に動物たちのことを考えてるなら、真面目に勉強しないはずないじゃん」


「……じゃあ、そうじゃない人たちはどうでもいい、ってこと?」


「そうだね。そういう人たちは、自分たちが興味のある授業を取ればいいんじゃないかな」


 杏珠の言葉は説得力がある。美羽も、確かに、と思ってしまった。


「とにかくわたしたちは、ただ月光園を目指すだけ。それは今までと変わらないって」


 ここでも他を気にする余裕はないのだ。


「それで?スカウトの基準は?」


「それはうちのお父さんしか知らないんじゃない?月光園に就職したいって人は何人でも入れたいと思うけど」


 月光園の深刻な人手不足を思えば、新入社員はいくらいてもいいはずだ。


「4年生になって就活しなくていいってとこが救いかな」


 杏珠はかまぼこを食べて満足そうに頬を緩めた。




「九條美羽さん、好きです。付き合ってください!」


「……すみません。今は、お付き合いとか考えていないので」


「そ、そっか……。ごめんなさい!」


 残念そうに笑顔を貼り付ける男性を置いて、美羽はさっさと教室に戻る。


「おかえり~」


 友人はスマートフォンから視線を上げて、のんきに片手をヒラヒラと振った。


「何人目?」


「数えてないわ」


 入学してまだ数日。このたった数日で、何度告白されただろう。いい加減うんざりする。


「一般就職を目指す人にとって、美羽は魅力的でしょうね。なんてったって、美羽と付き合えば、一流企業に就職できるかもしれないんだもん」


「そういうの、嫌」


『会社にとって有益な人を探してね』


 そう言った兄は、美羽に告白してくる人たちから選べば納得してくれるだろうか。そんなことはない。兄が望んでいるのは、九條と格の合う家柄の人間だ。


「そう思うなら全部断ればいいじゃん。美羽には何の利益も損失もないんだし」


「断るのが面倒なの」


 月狼のことを考えて、月光園を目指している人なら、あるいは。いや、それはきっと、家族に許してもらえない。それなら、呼び出しに応じるだけ無駄なのか。


「わたしのところにも来るよ。美羽の連絡先を教えてほしいって」


「教えないで」


「わかってる。だから、ちゃんと断ってるって。直接聞く勇気がないなら、美羽に選ばれませんよ、って」


 その断り方はどうだろうか。杏珠に断られたせいで美羽に流れてきた人もいるのではないか。


「1年生の授業は、当たり障りのない生物学って感じかな。楽しみなのはこれだけだね」


 たくさんのカリキュラムの中で、1つだけ。月光園に見学に行く機会がある。月狼たちを見られるのは、1年間でここだけだ。


「希望者だけらしいけど。行くでしょ?」


「もちろん」


 これを希望しない理由はなかった。



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