第11話

「美羽!」


 数日間の休学を経て復学した美羽を待っていたのは、安珠の力強い抱擁だった。


「……痛いんだけど」


 登校早々に抱きしめられた美羽は、その腕の中で苦しそうにうめく。


「あんたが悪いんでしょ!」


 杏珠からぴしゃりと言われてしまった。ゆっくりと離れた杏珠の顔は、心配そうに歪んでいる。


「もう、大丈夫なの?」


 杏珠の視線が、美羽の少し後ろに立つ那月に向く。


 また兄の過保護が始まった。送迎の車には兄が乗り込むことになったらしい。


「えぇ」


 美羽は言葉少なく頷く。


「杏珠さん、妹のことをよろしく頼むよ」


 それを見て、那月は妹の頭に手を置いた。


「やめて」


 その手を美羽が振り払う。


「もう、美羽を傷つけませんよね」


 杏珠は那月を軽く睨んだ。


「もちろん」


 那月は笑顔で頷く。そのいつもと変わらない笑顔に


「……うさんくさ」


 杏珠がぼそっとつぶやいた。


「杏珠、行くわよ」


 そんな友人を置いて、美羽はさっさと歩き出す。


「ちょ、待ってよ!」


 杏珠が慌てて後を追う。ぴんと伸びた背筋に沿った、綺麗な絹のような髪を、那月は黙って見送った。




「これが明泉大学の過去問か……」


 歴史ある明泉大学の過去問はかなり分厚い。さすがは名門大学だ。


「生物学部、特に月狼学科は、そもそもの問題が違う上に、過去問もほとんど公開されてない。やれるのはこれくらい?」


 杏珠はあっさり言い放つ。


「あなたのお父様に言えば、過去問くらい簡単に手に入るんじゃない?」


 月狼学科に大きく関わっている月光園の園長だ。何かしらの情報は持っているはず。


「だからコネはイヤだって」


 本気で月光園への入職を目指す杏珠は、頑なに父親を利用したがらない。


「月狼学科は倍率もやばいからね」


「5倍って言ってたわね」


 前に杏珠が言っていた言葉を思い出す。


「そう。おかしいよね」


 大学自体も人気だし、この学科も人気ということ。


「でも、月光園は人手不足って聞くわ。それだけ希望者がいるなら、就職希望も多いはずなのに」


 月光園に通っている間に、職員から様々な話を聞く。多くの飼育員が言っていたのが、人手不足という言葉だ。


「残念ながら、月狼学科は一定の基準に達してないと定員割れしても入れないからね。それに明泉大に入ったという実績がほしいだけの人もいるし。学閥がくばつがある一流企業では出世街道まっしぐらとか」


 兄が通っている英星学院大学もかなりだが、明泉もそれなりに名の知れた大学。一流企業を目的に目指すのもわからなくはない。


「でも、それで月狼学科っていうのは、ずれてるんじゃない?」


「入試も難問だし、卒業するのも難しい学科だからね。実績ほしさの人は多いんじゃない?」


 そういう人たちが合格して、本当に月光園を目指している人が合格しないのは、間違っている、と杏珠は溜息とともに付け足す。


「わたし、そういうのは嫌いよ」


 美羽がはっきりと告げる。


「だからって、わたしたちにはどうしようもないでしょ。正直、周りを気遣ってる余裕なんてないと思う」


 杏珠は相変わらずサバサバしている。


「つまり、あなたとわたしも、ライバルってこと?」


「そうだね」


 これが現実というやつか。今まで一緒に頑張ってきただけに、今からライバルというのは悲しい。


「でも、定員は20人。その中の2人になるのは、そんなに難しくないんじゃない?」


「……だったら、それを目指すわ」


 ライバルなんて寂しい。初めての友達なのに。


「さ、わかったら勉強!」


 杏珠が参考書を開く。


「あ、そういえば、美羽、三者面談は大丈夫?」


「三者面談?」


「もうすぐでしょ?」


 そういえばそうだった。進路相談も含めた、保護者を招いた三者面談の時期。


「お父様には認めていただいたわ。就職は好きにしていいって」


「含みのある言い方だね」


「そういうものよ」


 父が味方にいるのだ。不安なんてあるわけがない。


「でも、学校はどうかな」


「え?」


 杏珠の言葉に、美羽は首を傾げた。


「言ったでしょ。月狼学科は、難関だって」


「え、えぇ……」


「それに、他に月狼学科のある大学はないから、月光園を諦めるか専願かの二択。併願なんて許されない」


「……そうね」


 それくらいは美羽にもわかる。月光園に入るために、専願で受かるために、勉強しているのだから。


「学校はね、浪人生を出したくないの。特にここみたいな、進学率100%を掲げている名門校はね」


 大学に行くのが当たり前の世界。わかっているつもりで、理解してはいなかったのかもしれない。


「わたしたちに求められているのは、絶対に合格することだけ。それを証明できないと、学校は受験を認めてくれないよ」


 今のままでは足りないのだ。美羽はそう認識した。




「お兄様、勉強を教えてほしいのだけど」


 家に帰った美羽は、さっそく兄に声を抱える。


「いいよ。珍しいね」


 兄は笑顔で答えて、隣を空けてくれる。


「このままじゃいけないと思って」


「美羽は成績が悪いわけでもないし、焦ることはないんじゃないかな」


「そういうわけにもいかないの」


 美羽はまっすぐに教科書を見つめる。


「月光園も、明泉大も、入るのが難しいんですって。杏珠から聞いたわ」


「……そっか」


 少し間があった。あ、と思った。


 兄は、どちらかというと美羽の進路に反対している方だ。


「……お兄様」


「ん?」


 妹の不安そうな顔に、兄は笑顔を浮かべる。


「今さら反対する気はないよ」


「本当?」


「あぁ。美羽のやりたいことがやれるように、応援してる」


 兄の言葉で、そう表現してくれたことが嬉しくて。美羽は笑みをこぼした。




「美羽、今日はカフェで勉強しない?」


 ホームルームが終わってすぐ、安珠がバッグを持って駆け寄ってくる。


「いいえ」


 美羽は首を振った。


「行きたいのはやまやまだけど、今日は三者面談なの」


「あぁ、そっか」


 それを聞いて、安珠はすぐに頷く。


「お父さんが来るの?」


「えぇ。今日は予定に余裕があるんですって」


 兄の時は、父が三者面談に顔を出したことはなかったらしい。家の人間が代理をしていたと聞いた。


 美羽の時も、高校2年まで、父が学校のイベントに参加したことはない。3年生となった今は、兄の時と同じように父の代理として使用人の誰かが来ると思っていた。


 偶然予定が空いていたらしい父が来ると知って、兄は『美羽は愛されてるね』と微笑んでいた。


「頑張ってね」


「えぇ」


 杏珠を見送り、美羽は昇降口に出た。ちょうど父が車から降りてきたところだった。


 その圧倒的な威圧感に、生徒たちがささっと避けて道を開ける。相変わらずの父に、美羽は苦笑した。


「お父様」


 美羽がそう呼びかけると、父と目が合った。


「今日はわざわざお時間を作っていただき、ありがとうございます」


「……娘のことだ。当然だろう」


 不器用な愛情だと気づくまで、18年もかかってしまった。美羽は微笑み、


「こちらです」


 と面談室まで父を案内する。


「先生、失礼いたします」


 面談室の扉をノックし、ゆっくりと開ける。


「こ、これは……九條会長までいらっしゃるとは……」


 担任教師は、美羽の父親が来たことに驚いていた。それもそうだと、美羽はにっこり微笑む。


「始めましょうか」


 兄と同じ笑顔を浮かべ、椅子に座った。


「え、えー……」


 担任は緊張したようにハンカチを取り出す。気弱な男は、権力者の前では汗が止まらないらしい。


「美羽さんが志望している大学は明泉大学ということで……」


「はい」


 美羽は笑顔で頷く。


「成績も申し分ありませんし、合格はまず間違いないでしょう。ただ気になるのは……併願は、されないのですか?」


「はい」


 微笑みを崩さずに続ける。


「月狼学科があるのは、明泉大学の生物学部だけ。他の大学にはありませんでしょう?」


 その笑顔に、担任の顔が強張った。


「そ、それは……」


 戸惑う声。その感情の変化を、美羽の耳はしっかり聞き取る。


「九條会長はお嬢様の進路をどうお考えですか?」


 父が反対してくれると思っているのだろうか。


「娘の決定を尊重します」


 父は淡々と答えた。


「で、ですが……月狼学科は、倍率も別で計算されるほどかなり人気の高い学科です。合格には運もあるといいますし、念のため併願を」


「先生」


 慌てて説得に移る担任に、美羽はまたにっこり微笑む。


「わたし、月光園で働くのが夢なんです」


「え……」


「そのためには、明泉大学の月狼学科しかないと聞いております。合格するまで何度も挑戦する覚悟もしていますわ」


 その笑顔は、強い光を放っていた。




「おかえり、父さん、美羽」


 家に帰ると、兄が待っていた。


「どうだった?」


「大丈夫よ、お兄様。先生も最後には納得してくれたわ。渋々だったけど」


「よかった」


 兄はそう言って笑った後、


「まぁ、父さんがいるんだ。父さんが認めてるものを、教師が強い反対はできないと思ったけどね」


 確かに。兄に言われるまで気づかなかった。


「お父様……」


 父はほとんど口を開かなかった。父が話してくれたら、もっと話が早かったのか。


「……口出しするつもりはなかった。反対する教師が納得できる程度の理由が言えなくては、合格は難しいだろう」


 美羽の言葉で教師を説得させるために黙っていたのか。もしかして、教師を牽制するために仕事を調節してくれたのか。わからない。わからないが、父の愛情は感じる。


「ありがとうございます、お父様」


 美羽は素直に礼を言った。


「着替えておいで。夕飯の前に勉強を見てあげる」


「えぇ」


 美羽は嬉しそうに階段をのぼっていった。




『じゃあ三者面談はクリアね』


 電話をつなげて杏珠に三者面談の報告をする。


「なんとかね。お父様のおかげだわ」


 ノートにペンを走らせながら、安珠の声に答えた。


「杏珠のところは?お父様貸そうか?」


『もう終わった』


 杏珠のあっさりとした答えに、美羽は意外そうに手を止める。


「あら、そうなの?大丈夫だった?」


『こっちは父親が月光園の園長だから。親の跡を継ぎたいって言えば、一応納得してくれたよ。他の大学で経営を勉強したら、みたいなことは言われたけど』


 確かに、安珠の方もそれなりに説得力はありそうだ。


「お父さんの跡を継ぐの?」


『兄貴がいるからね。そうじゃなくても、美羽のところと違って、うちは世襲制が約束されてるわけじゃない。実際どうなるかはわからないんじゃない?』


「そう」


 教師を騙すための方便か。杏珠は正直なように見えて意外と強かだ。


「じゃああとは、大学に受かるだけね」


『うわ、すぐそういうこと言う』


「勉強してるの?」


『今からする!』


 電話の向こうでバタバタと音が聞こえる。寝ていたのだろうか。


「そんなことしてて、受かる気あるの?」


『ある! ってか、絶対受かる!』


 相変わらずの友人に、美羽は呆れるようにふっと笑った。




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