第10話
重い空気が流れる。
白いベッドに横たわる妹を前に、那月は何もできずにいた。
家出から帰ったかと思うと、妹は自室で自殺を図った。
幸い無事に一命をとりとめたものの、まだ目を覚まさない。
「……なんで?美羽」
妹に、そして自分自身に、そっと問いかける。それに答えられるだけの情報は、まだ何もなかった。
妹のことを何も知らなかったと思い知らされる。あんなに一緒にいたのに。
美羽のお見舞いにと、久野兄妹が病室を訪れた。
「美羽……」
杏珠の目は赤く腫れ、友人の突然の事態に混乱していることがわかる。
那月たちを無視して、真っ先にベッドに向かう杏珠を見送ると、
「突然押し掛けてすみません」
彼女の兄は、那月に頭を下げる。
「美羽……、美羽の、遺書は、あったんですか?」
美羽の方を見ながら、安珠がぽつりと呟く。
「一応、あったけど」
那月が、綺麗な封筒を見せる。
封筒にも中の便箋にも、ほんの少しの汚れも乱れもない。美羽がパニックを起こしてことに及んだわけではないということ。
「……美羽を、帰さなきゃよかった……っ」
友人が遺した言葉を目にした杏珠は、また涙を流す。
左腕には痛々しく包帯が巻かれ、右腕には点滴が刺さり、美羽はその頬に杏珠の涙を受ける。
杏珠はそっと美羽の手に伸ばそうとして、ハッと手を引いた。
「……あの、美羽が、手を触られるのが怖い理由って、なんですか?」
「手? 美羽がそんなことを?」
那月がきょとんと答える。
「……何も知らないんですね」
呆れることも、怒ることもできなかった。
話せばわかる。家族とはそういうもの。そう美羽に伝えた自分の言葉は間違っていた。
あの時、何があっても、美羽の手を話してはいけなかったのだ。
「杏珠、やめろ」
雅紀が妹を止め、腕を引いた。
「お忙しいところ失礼しました」
そうして久野兄妹は帰っていく。また病室に残された那月は、再び妹のそばに立つ。
病室の隅で銅像のように固まっていた父の視線を受けながら、那月は手に握られた封筒を開く。
『人生をリセットしたいと思います』
家族への恨みが書いてあるわけではない。しかしこの一文が、那月の胸に鋭く刺さる。
「リセットって何?美羽」
わからない。妹が何を考えていたのか。どうしてこんなことをしたのか。わからないというのは、こんなにも怖いものだったのか。
「……私が悪かったのか?」
父の声が聞こえた。
「お前たちが幸せになれるよう、努力してきたつもりだ。一般的な家族がよくするようなことはしてやれなかったが、将来を見据えて動いてきた。いつかお前たちが九條の家を継いだ時、苦労しないように。それだけは、忘れたことがなかった」
「……僕は、わかってたよ」
まだ幼かった那月に、母は何度も教えてくれた。父は家族のため、那月のために働いているのだと。だからそれに答えたくて、勉強もそれ以外も頑張った。
しかし、妹として産まれてきた美羽は、きっと違った。いつか家を出て嫁に行くと決められ、母の言葉を覚える時間もなく母を亡くし、那月とは違った人生を歩いてきた。
最初から、わかるはずがなかったのだ。育ってきた環境が違いすぎる。
「僕は、母さんの言葉を伝えてきたつもりなんだけどな。でも、美羽には、それが父さんを庇ってるように見えたのかな。それとも、美羽は、母さんの言葉なんていらなかった?」
自分を支えてくれた母の言葉を、妹にも伝えたかっただけなのに。
「これからでも遅くないよ、父さん。美羽が起きたら、家族で話し合おう。今からでもいいから、ちゃんと家族になろう。そうじゃないと、母さんに怒られそうだ」
母は、よく笑う人だった。両親の出会いはわからないが、なんとなく父が選んだのも頷ける人だった。
父を子どものように叱ったかと思えば、妹で遊ぼうとする那月を叱った。そして、次には笑った。那月の記憶にある母の顔は、いつも様々な表情をしていた。
「母さん、美羽はまだあげないよ」
美羽の手を握り、那月はそう呟いた。
それから数日後、美羽は突然目を覚ました。
「……お、とー……さ……?」
一番に視界に入った人物に、美羽はぼんやりと口を動かす。
「……医者を呼んでくる」
覚悟を決めたとはいえ、いきなり娘に向き合うには心の準備がいる。父はそそくさと病室を出て行った。
「美羽」
そんな父に微笑み、那月は妹に笑みを向けた。
「よく頑張ったね。お疲れ様」
「……なん……?……おにー……さ、ま……?」
目覚めたばかりで、状況がまだよくわかっていないのか。
「今は何も考えなくていいよ。でも、これだけは聞いて。父さんは、美羽の生年月日とか血液型を、覚えていたよ。あ、これは父さんの指示でも何でもないからね。父さんの性格上、こういうのは隠してほしいと思うし」
本当に娘を愛していないなら、医者に聞かれてすぐに答えられるはずがない。
美羽はぼんやりと兄を見つめてそれを聞いていた。
医者の診察を終え、美羽はベッドに身体を起こして座った。
「まずは……」
一家がそろい、最初に口を開くのは当然那月だ。母の明るい性格を受け継いだ那月がいなければ、父と妹だけではまともな会話にならない。
「美羽、父さんに何か言うことはある?」
「……ありません」
まだ父を許せないのか、美羽は不機嫌そうに答える。
「さっきも言ったけど、これからは遠慮なく言いたいことを言っていいからね」
そう言いながら無理強いはせず、続いて那月は、父親にも目を向けた。
「父さんからは?美羽に言いたいことある?」
ないはずがない。言いたいことも聞きたいことも、たくさんある。
「……お前は、家が嫌いか?」
最初にそれか、と那月は呆れる。しかし、無口な父から先陣を切っただけで褒めてあげるべきか。
「嫌いです。大嫌い」
美羽はそう答えた。まだ会話ができる関係なのだと、父がホッとするのがわかる。
「なぜだ」
「鳥が自分を閉じ込める鳥かごを好きになれますか?」
広い空へ飛び立つのを阻む鳥かご。妹にとってあの家は、そんな存在だったのか。
「鳥かごではない、ただの巣ならいいのか?」
「では、わたしはホトトギスやカッコウの雛ですか?」
妹は父を怒らせようとしているらしい。
「いえ、托卵ではありませんね。カッコウも、我が子を愛してくれる者のところに我が子を任せるはずです」
「お前は間違いなく私の娘だ」
「口ではなんとでも言えますね」
「美羽」
さすがに言い過ぎだと、那月が口を挟む。
「お兄様は何でも言っていいと言ったわ。わたしはそれに従っているだけよ」
そんな兄を、美羽はそっと睨んだ。
「その通りだ。私には、お前の言葉を聞く義務がある」
「義務なんて、今さら……。父親としてですか?それとも九條の当主として?わたしが死んだら、会社やお仕事にダメージでもありますか?」
また怒りに身を任せている。
「わたしは、諦めませんから。絶対にあなたの手から逃げてみせます」
どうしてこんなにも頑固なのだろう。父親譲り、とでも言うべきか。
この数日間、父や那月が、どんな思いでいたか。そんなことも考えられないのだろうか。
そんな思いをぐっと押し隠し、
「美羽、リセットってなに?」
と尋ねた。
「楽しくない人生を終わらせたかっただけ」
美羽は落ち着いて答えた。
「生まれてから死ぬまで、親に決められたレールの上を歩くだけの人生なんて、つまらないでしょう?」
那月にとっては、それが当たり前だった。つまらないかどうかなんて二の次。興味がなかった。美羽は違うらしい。
「わたしが思い通りにできるのなんて、自分の生死くらいなのよ」
そのために、自分の命を捨てようとまで思えるのか。それが、美羽にとっての自己表現だったのか。
「……すまなかった」
父が、美羽の手を握っていた。まるで引き留めるかのように。
「父親らしいことは何一つできていない。娘の悩みにも気づけない、不甲斐ない父親だ。今はまだ、父親とも名乗れないかもしれない。だが、もし許されるなら、お前の父親になりたいと思う」
血だらけで倒れる娘を見た時。初めて感じた大きな感情の揺れ。あんな不快感は二度とごめんだ。
「今後、お前の邪魔はしない。将来のことも好きにしていい。……ただ、1つだけ。お前が立ち止まった時、戻ってきてほしい。父親として支えさせてほしい」
父が歩み寄ろうとしている。妹はどうだろうか。那月は美羽を見た。
「……なぜですか?」
美羽がぽつりつぶやくように尋ねる。
「月光園はダメだって、どうしてそう思うのですか?」
彼女なりに父親に歩み寄ろうとしていた。
「……身体が弱いだろう。きつい仕事は耐えられないと思った」
父の答えに、美羽は意外そうに目を見開く。
「父さん、美羽が熱を出してばかりだったのは、もう何年も前の話だよ」
父にとって自分たちは、いつまでも幼い子どもなのだろう。
「わたし、もう何年も風邪なんてひいていないと思いますが」
「……そうか」
美羽の言葉に、父は低く唸るように頷いた。
「しばらく休みなさい。明日には退院できるようだ」
「はい、お父様」
美羽は父の言葉に従って横になる。
「また明日ね、美羽」
那月もそう言って、妹の頭を撫でる。その手は、妹に振り払われた。
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