第9話
広い部屋に、豪華な机と椅子。この椅子は、彼にとって特別なものだった。
幼い頃から強くあれと教えられてきた。他人に弱みを見せない人間であれと。その言葉通りに育ってきた。
成長して妻を持ち、息子が生まれ、娘が生まれ、妻を失っても、感情を出すことはなかった。
全てが完璧だった。かつて父が示してくれた道の上を歩くだけ。それは簡単だった。
大人になれば、どうすれば困難を乗り越えられるかがわかった。だから、躓くことはなかった。
それなのに。今、彼は悩んでいた。
たったひとりの娘、美羽のこと。
娘が家に帰って来なくなってもう数日。数時間前、彼は娘が出入りしているという月光園を訪れ、今後娘に関わるなら寄付金は打ち切ると告げた。
それを聞いた久野の妻、
『九條様のお気持ち、よくわかります。我が子には、苦労せず、できるだけ失敗や挫折のない、綺麗な道を歩んでほしいものです。それは、親として当然の願いだと思います』
数日前、父親ではないと娘から否定されたばかりだった彼の胸に、その言葉はじんわり響いた。
『泣くことしかできなかった我が子が、ひとりで座り、立ち、いつの間にか手を離れて歩いていく。そういうものだと理解していても、やっぱり寂しく思ってしまいますね』
幼い頃、母親の手を握って泣き続けていた娘の姿が目に浮かぶ。
『今、お嬢様は、成長の過程でとても大切な分岐点に立っておられるのだと思います。お嬢様は、わたしたちから見ても、とてもご聡明なお方です。たとえ失敗や挫折を経験しても、そこから学ぶことができるように、九條様がお育てになられたのでしょう』
背中を見せることが正しいと思ってきた。自分が親からそうされたように。
何者にも負けない、めげない姿勢を見せることが、正しいと思い続けた。
『わたしたち親は、道に落ちている石を事前に拾ってあげることも大切化もしれません。しかしそれと同時に、万が一転んでしまった時に、立ち上がれるよう手を差し出してあげることかもしれませんね』
久野恵の言葉は、彼の胸に優しく響く。
『この件、わたしたち他人が口を出せる問題ではないかと思いますが、お金で解決するべきではありません。お嬢様と同い年の娘を持つ母親の願いです。どうかお嬢様と話し合われてください』
彼が机に置いた封筒を、彼女は丁寧に返した。
妻を亡くして数年。育児は手探りだった。息子は5歳になっていて、母親の死を理解していた。しかし、娘はまだ3歳。母親を探して一日中泣き続けた。
妻に全て任せきりにしていた自分の責任とはいえ、父親である自分が求められない世界に、彼は自ら背を向けた。
世話係を雇い、彼らからの報告でのみ娘の成長の様子を知った。
これは、その報いなのか。父親としての役目を放棄し、お金を出して世話係を雇っているのだからと自分を甘やかしたことへの、残酷な報い。
娘はもう戻って来ないかもしれない。話せと言われても、戻らなければ話せないのに。スマートフォンには、娘に買い与えた際に入れた連絡先が入っている。
あと1つ。通話のボタンを押せばいいだけ。その行為だけが、できなかった。
「……社長?」
その時、秘書の声が聞こえた。
「珍しいですね。お考え事ですか?」
「……いや」
まだ湯気の立つコーヒーをデスクに置きながら、女性秘書は柔らかい声音で話しかける。
「最近は特に仕事量が増えていらっしゃいます。急ぎの仕事は終わっていますし、お早めにお帰りになられますか?」
「いや、いい」
帰ったところで、何になるのか。妻も娘もいない、あの家に。
その時、コンコンとノックが響いた。
「あら、来客の予定はありませんが……」
秘書が首を傾げながら扉に向かっていると、扉が勝手に開いた。
「お、お嬢様!」
美羽だった。
挨拶もなく、ツカツカと大股で歩み寄ってきて、父親の前に立つ。
「何の用だ。今は仕事中だぞ」
怒りだろうか。娘の感情を目の当たりにするのは、これで二度目だ。
娘の目を見ることもできず、パソコンに目を向ける。
ここで父親としての威厳は崩せない、と思った。娘のわがままを認めてはいけないのだ。まだ18歳の子どもなのだから。
次の瞬間、彼はコーヒーを浴びていた。
「きゃ……っ」
秘書の押し殺した声が耳に届く。目の前には、カップの口をこちらに向けた娘の姿。
ようやくその黒い目が見えた。娘はいつからこんな目をしていたのだろうか。こんな光のない、真っ暗闇のような目を。
「軽蔑します」
その口が、冷たい言葉を吐き出した。
「お望み通り、家には帰ってあげる。進路も就職先も、全部あんたの言う通りにする。だから、月光園の件は取り消して」
もう父親ではない。そう告げられているかのようだった。
娘が出て行った後、彼は汚れたスーツを着替え、また仕事に戻った。
娘の様子がおかしかった。これはきちんと話さなければいけないのかもしれない。彼女の言葉を聞き、自分の言葉を伝えなければ、娘は離れてしまうのかもしれない。
帰ると言ってくれた。家に帰れば話ができる。
自分がどんなに子どもたちのことを考えているか伝えることができれば。
言葉にするのは苦手だ。しかし、それが必要だとなれば、どうにか伝える必要がある。
そうして彼は、18時に家に着いた。
「父さん!」
使用人たちが出迎える中、息子が階段を駆け下りてくる。
「美羽が帰ってるよ。何も話してくれないけど」
本当に帰ってきたらしい。それほどまでに、あの場所を守りたいのだろう。
「どこだ」
彼は息子に短く娘の居場所を尋ねる。
「部屋だけど……」
息子の返事に、彼は階段を上がり、娘の部屋に向かった。
一度も開けたことのないその扉の前に立ち、まずはノックをする。
冷静に、冷静に。ちゃんと話をすれば、わかってくれる。娘は賢いのだから。
「私だ」
ノックの後、訪問者を知らせる。だが返事はなかった。まだ怒っているのだろう。
「入るぞ」
一応断りを入れ、扉を開ける。その扉を自らの手で開けるのは初めてだった。
「……?」
赤い部屋。白い絨毯に広がる、真紅の液体。その中に横たわる、制服姿の小さな身体。
「……!」
状況を理解した瞬間、彼の優秀な思考は一気に真っ白に染め上げられた。
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